大森明恍と梶房吉_1

梶房吉さんと銀座を歩く

北駿郷土研究昭和9年(1934年)10月号の野中到翁を訪ふには、大森明恍が富士山麓周辺で、野中到の住まいを探し尋ねても、誰も知らなかった、しかし、御殿場の強力の梶房吉だけは知っていた、との記述がでてきます。おそらく、強力としての独自な情報網や人脈をもっていたのではないかと思われます。当時から、梶房吉さんは、名強力としてその名が知られており、また富士山頂への登頂回数が1672回で、この記録はその後長い間、破られることはなかったそうです。新田次郎の小説凍傷ではモデルにもなり、主人公の佐藤順一を助けて活躍します。凍傷によれば、佐藤と梶が冬の富士山頂上で気象観測をしたのは、昭和5年(1930年)1月から2月にかけてでした。

新田次郎が富士山頂上の観測所に勤務したのは、昭和7年(1932年)から昭和12年(1937年)にかけてのことだそうです(芙蓉の人のあとがきより))。大森明恍が野中到翁を訪ふを書いた昭和9年(1934年)ごろ、まさに、新田次郎は富士山頂上で勤務していことになります。

なお、昭和18年(1943年)、大森明恍と梶房吉さんが、スーツ姿で並んで銀座の通りを歩く写真が残されています。小柄ですが、肩幅が広く、いかにも重い荷物を担いで富士山に登る職業に適した体格の持ち主だったようです。ただし、新田次郎の小説、凍傷には、梶房吉は五尺三寸、十五貫、男としては小柄な、およそ強力とは縁遠い身体つきをしているとあります。身長は約161cm、体重は約56kgといったところでしょうか。

Meiko_Ohmori_040s
昭和十八年 三月 銀座付近漫歩のスナップ 野上保美堂主人 富士山名強力 梶房吉君

説明書きは、大森明恍本人によるもの、写真中央が梶房吉さん、左が大森明恍です。なお、右の野上保美堂主人(野上菊松)という方は、日本画の表装などを手掛けていたようです。ちなみに、昭和17年に大森明恍(桃太郎)が富士山画(水墨画)を陸海軍に献納した際には、絵の表装を手がけたようです。

富士山の名強力であった梶房吉さんが、手ぶらで、しかもスーツを着て銀座の街中を歩いている姿には、少々意外な感じを受けます。長男の大森如一さんに理由を尋ねたところ、当時、銀座や日本橋で個展を開催するとき、強力に絵画作品の運搬を依頼をしていたので、その際に撮影したものであろう、とのことです(昭和18年3月にも、銀座で個展を開催したのかもしれません)。また、大森明恍は屋外で制作することが多かったのですが、いろいろな画材を運搬する際も、強力に依頼をしていたそうです。


お山にこもる海門君

さて、昭和9年(1934年)9月8日づけの東京朝日新聞の静岡版に、一風変わった珍しい画家として、大森明恍(本名:大森桃太郎)が写真入りの記事で紹介されました。翌月の10月から気象台の許可を得て、富士山五合目の避難小屋に籠って絵を絵描くという計画が紹介されています。この時のガイド役を梶房吉さんに依頼したようです。

東京朝日新聞静岡版、昭和9年9月8日
東京朝日新聞、静岡版、二版
昭和9年9月8日
「一生に一枚」
富士を描く
お山に籠る海門君
富士山の研究者は決して少なしとしないがこれはお山への熱烈な信仰から気象、地質、植物、考古学等あらゆる分野より見て富士山本来の面目を看破しようと精進を続けている珍しい画家がある——御殿場在富士岡村諸久保の田舎家に隠れている大森桃太郎さん(34)がそれ……号は海門、福岡県芦屋の生まれ持って生まれた九州健児の熱情から一生の中タッタ一枚でいいから富士山のホントにいい絵をかいてみたいという念願ようやく叶って東京から一家をあげて引っ越しこのほどこの辺に「富士山総合美学研究所」を開いた
朝は二時というに飛び起きて隣村陣場の杜に参りに一里半の路を往復したり興が湧けばまづお山に向かって礼拝してサテ絵筆を執るといったような奇術(?)ぶりを発揮して村人を驚かせているが昨今秋冷が加わってきたので今度はお山へ籠ってぢかにお山の霊気に触れ彩管を揮うため気象台の諒解を得て来月早々御殿場口から登山し五合五勺の避難小屋に約一ケ月立て籠って時々刻々に移り変わる雲の形や色を観察スケッチし親しくお山の懐へ飛び込んで研究することになった【写真は研究所の大森さん】

浴衣姿の大森明恍の後ろには、少年の絵が写っているようです。恐らく長男の如一さんを描いたものと思われます。

大森明恍と梶房吉_2に続く

大森明恍と梶房吉_2

梶房吉の案内で冬季の富士登山に挑む

北駿郷土研究昭和10年(1935年)1月号から4月号まで4回にわたり、梶房吉(文中ではK君の名前で出てきます)の案内で、大森明恍が冬の富士登山に挑戦したときの紀行文、御山の厳粛が掲載されました。

実際に二人が富士山に入ったのは、昭和9年(1934年)の11月中旬のことだったようです。5合目付近までとはいえ、文章からは、冬の富士登山の厳しい様子が伝わってきます。また、文章中「ピッケル」や「アイゼン」などの記述が出てきますので、昭和の初期とはいえ、しっかりと冬山装備を整えたうえで登山にのぞんだ様子も、うかがわれます。

新田次郎の小説「凍傷」によれば、佐藤順一が梶房吉の協力を得て、冬季の富士山頂で気象観測を行ったのは、昭和5年の1月から2月。この佐藤の成功を受けて、中央気象台が通年観測を開始したのは、昭和7年からなので、その2年後のことです。さらに、そのわずか2年後に大森明恍と梶房吉が富士登山に挑戦したことになります。

なお、この登山では、宿泊場所として、中央気象台の避難小屋を利用していますが、あらかじめ気象台の了解を得ていたことがわかります。おそらく、気象台職員が交代で山頂で勤務するために、万一の場合に備え、すでに登山道にはいくつか避難小屋が整備されていたようです。あるいは高山病を防ぐために、職員が途中で高地順化するという目的もあったかもしれません。文章中には、避難小屋と頂上の気象観測所との間で、電話連絡をするシーンがでてきます。梶房吉は、単なる荷物や物資の運搬という役割を越えて、富士山頂気象観測所の安全や機能を維持する上で欠かせない、重要な役割を担っていたらしいこともうかがわせます。


 

御山の厳粛

大森海門

『六根清浄!!』
先に立ったガイドK君の声は元気だ。横なぐりに吹きつける風雪、夕闇は迫って、ほのかにそれらしいわずかの痕跡を留める登山道も、次第に降り嵩む白雪のため、息せき切れる難行である。

『お山は雪だね!!』
数十歩後から声を張りあげてKの後を追う。寒さは募る。呼吸はますます怪しい。四合五尺を通り過ぎた頃は頂上にも相当嵐の襲来が起こったものか、頂上の姿はおろか六、七合目以上は雪におおわれて、阿修羅の猛り狂うがごとき険悪な山の姿である。

五合目の石室の前にたどり着いた時は五時に近い。雪が白いので割合に足元がほんのり見える。雪もこんな時はもっけの幸いだ。ピッケルを握る手袋を通して冷たい感覚。のどが渇く。一握りの雪を口にほおり込む。先頭のKは雪のある所は凍って滑るから、なるべく岩の出ている所を歩け、と教えてくれる。この嵐のこの闇の近づく中にぐずぐずしているといわゆる命があぶない。それでも元気一杯だ。下から
『六根清浄!!』
と太く叫んで後をつける。たちまちまた突風の襲来、顔も上げ得ず、立ち往生のまま風向きに背を向けて、一本のピッケルに全身の重荷を傾げる。

通り過ぎた突風の後を透かして前方を見れば、十貫目(約37.5 kg)以上の荷物をショイコにして前進するKも突風にあえいで闘っている。
『頑張れ、頑張れ』、
Kは後方の僕を力づけてくれる。五合五尺の石室が近づいた。いよいよ夕闇も濃くなってきたが、ここまでこぎつければ勇気がでる。石室から二曲がり登れば目的の避難所だ。ぐずぐすしていたら、凍死だ。ソレ、もう一息、頑張れ頑張れ。

雪風の中でKは元気よく避難所の表戸をこじ開けると
『おお、着いた』
とうなっている。同時にドーンと僕も戸口にリュックサックをほおり込んだ。そして第一声、
『万歳!!』

用意の懐中電灯をひねると室内は急に明るくなった。中央気象台第二避難所と記した札がかけてある。時計を見れば五時二十分、太郎坊出発一時十分から数えてまさに四時間と三十分、Kは
『普通こんな時、強力は相当な荷を背負って、この行程に五時間かかる。割合に早い方でした』
と言う。

重い登山靴を脱いで、室内にランプの灯をつける。吹雪をついて水を汲んでくる。囲炉裏に木炭を焚く。二人はむしろの上にゴロリとなった。しばらく無言。

戸外はいよいよ深いくら闇、そしてごうごうたる風の音。けたたましき吹雪まじりの窓に叩きつける物凄い騒音、また騒音! 冬山にふさわしき、予想外のセレナーデの序曲が奏でられていく。中に、かくて山籠もりの第一夜が始まる。

守れ浅間、鎮まれ富士よ
冬は男の度胸だめし

五合目の避難小屋
昭和9年11月中旬 富士山ガイドナンバーワン梶房吉君を案内として、第一回の雪中登山をなす。 中央気象台の許可を得、雪中アイゼンを履いて山中に戦うこと一週間。 五合五勺気象台避難所前に立てる私。 雪中 三保の松原 御前崎を眺む

『ご来光だ。』
いつか窓が明るくなっている。疲労の眠りからさめての第一声、表戸を開けて駆け出す。
晴天。白雲皚々(がいがい)。白雲重畳。大波小波の大雲海。ただただ大自然の偉観。
旭日ひんがしに昇天せんとして、今まさに雲表に懸らんとす。地上万物一切無礙(むげ)。我はひたすら、おろがみ奉ることより、何も知らず。

Kも出てきた。
『永い年月の山の生活ですが、何時見てもこの景色に飽きませんよ』
『いや全くの絶景だ。こうして我々二人にのみこの壮観はもったいなさすぎる。世の人々に、いや下界の人類にひとり残らずに、この雄大無辺な宇宙の現象を見せてやりたいものだ。』
と僕も負けずに相槌を打つ。
『でも、ここまで来るには昨日のような苦しいめをみなければ……』
とKが言う。それを想い出しては、ちょっとぞっとする。

が、我々は確かに何物かを征服したという気持ちだ。ゆうべの嵐はあとかたなく、零下十五度の寒冷も一夜明ければ雪上春暖のごときあたたかさである。

雲海にもところどころに変化が起こった。見る間に東北面にあたって、ありありと手に取るごとく、御正体山(みしょうたいやま)の連山が現れる。大群山(おおむろやま)が顔を出した。その右が丹沢連峰だ。北の方に秩父連山が紺青に朝日をうけて、ぽっかりと浮き出したよう。

げに山上のひと時こそは、はてしなく飽かぬ眺めである。

~~~~~~~~~~~~~

勃然として画慾の衝動! 絵の具箱は開けられた。近景に大富士のスロープの一角を入れて、眼下の連山を写すことしばし。

陽は次第に高く昇った。やがて御山の裾を取り巻いていた淡黄色の密雲が晴れたかと思うと、眼前にぽっかり、出た、出た、紺碧の水をたたえた山中湖、築山に泉水、天上界の盆栽だ。

早速、素画にかかる。連山のしわをていねいに入れて、淡彩で空の透明な色と山のコバルト、しばらくして心地よいスケッチに忘我の境涯にいること久し。

ギラギラ雪の反射が強くなって眼が痛い。囲炉裏の傍に駆けこんだ。そこではKが心得顔に圧力釜で朝餉の飯を蒸らかせている。

『さあ、飯にしよう!』
とて、ともに箸をとる。鍋のふたをとれば、これはまた温かさが鼻をつきキャベツの味噌汁、
『こりゃー、ばかにうまいねー』

×××

『もしもし、頂上ですか。そちらは大変な雪でしょうね。ええ、こちらは昨晩相当に積もりましたよ。下の方も二子山まで真っ白です。二合目あたりまで降ったでしょう。はあはあ、では五合五勺でしばらく御厄介になります。はあ、もしもし。そのうち一日二日して、七合八勺まで参ります。ぜひ頂上へはお訪ねする考えです。はあ、では皆さんによろしく、さよなら』

これは食後、頂上観測所の技手さんへかけた、電話を通じてのご挨拶。

地上俗塵を断つこと、海抜九千余百尺、背後には白衣のまとえる女神の立像にも似たる富士の立ち姿。眼下を俯瞰すれば、蕞爾たり北駿の盆地。高く仰げば大空の雲の動きに、ただ恍惚として現実を忘る。

忽然として霧を吐き、悠然として雲をのむ。まこと御山は宇宙の大怪物なり。ただ片時たりと御山と語り、お山と笑うことが吾人の生活の全部となった。

墨をすり、水絵の具を溶かし、戸外寒風に拮抗して一筆えがけば計らざりき紙面氷の結晶。滑稽なる失敗。油絵にかかっても永く耐えられぬ厳寒の威圧。かくして囲炉裏の周囲には何時とはなしに雑然として七つ道具が散積する。

西側窓の下に宝永山の頂が、折からの夕照に映えて黄金色にその尾根伝いの雪庇が美しく輝き始めた頃、宝永山の東面のスロープが逆光になって、青紫の雪の肌に暮れていく。薄暗がりの室の中にもランプが点いた。その燈下で今日一日での数枚の図稿を片付ける。そばからK君が
『第一日目からずいぶん描きましたねえ』
と言う。
『こんな場所ではほかに何も考えず仕事にのみ屈託する故でしょう。何時日が暮れたさえわからなかった。こんな断片スケッチが何十枚となく経験されてから、何年か後に、画らしい画が一枚でも生まれてくれれば、せめてそれが僕のこいねがうところですがね』

そこには用意のあぶり燗が炉端に突っ込んである。先ず山での第一杯をやろう。二人はお互いに無事な山の生活を祝福しあった。K君は山男らしい雄々しい赭色(しゃしょく)の顔、しかも杯を目八分(めはちぶん)を捧げた時のその笑顔。(未完)


初日は、厳しい風雪に見舞われましたが、二日目の朝には、天気が回復して、素晴らしい眺望を満喫することができたようです。刻々と変化する山上からの風景を満喫しつつ、一方では、滞在時間を惜しむかのように、絵画の制作に没頭した様子がうかがえます。

 

文章中、『ただ片時たりと御山と語り、お山と笑うことが吾人の生活の全部となった。』という表現から、大森明恍がすでに生活の中心を富士山画に据えていたことがうかがえます。「御山の厳粛」というタイトルには、冬の富士山の厳しい自然を意味すると同時に、富士山に賭ける画家の後にひけない厳しい決意が込められていたのかもしれません。

Meiko_Ohmori_014_c 
K#13, K#14, K#15 Mt. Fuji in Mid-Winter with Clear Sky, Meiko Ohmori (1901-1963), lithograph on paper, 1962. 晴れた日の厳冬富士, 大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙にリトグラフ, 56 cm x 39 cm, 昭和37年.

 

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大森明恍と梶房吉_3に続く

大森明恍と梶房吉_3

冬の富士山から夜景を楽しむ

引き続き、北駿郷土研究昭和10年(1935年)2月号には、御山の厳粛の続きが掲載されました。大森明恍が梶房吉(文中ではK君)と、冬の富士山の山小屋で夜を過ごしたときの様子が記されています。

山小屋で日本酒を飲み、ほろ酔いで外に出て、眼下に広がる夜景を楽しみます。あちらこちらに点在する、街の灯を一つ一つ確認しながら、ついつい、我が家の方向に目をやり、すでに眠りの床についたであろう、我が子の寝顔を思い浮かべます。長男の如一さんが、昭和5年9月生まれですから、当時はまだ4才だったはずです。


御山の厳粛【二】

大森海門

高山地帯での空気の希薄さは、飯も普通の炊き方では、生煮えにしかならないことは、およそ人の知るところ。しかして酒は普通の地上で飲むよりは、何倍か酔いが早くまわってくると聞かされてきた。それを事実こうして山にこもって、盃を傾けるとなると、噂に聞きしごとく、平常味わいつけた銘酒も一種異様な味覚で喉もとを掠めていく。

ほのゆらぐランプの灯に、鉄扉に当たる風雪の音を聴きながら、山の夜話にふけて二人はいつか陶然となっていく。いささか酔い心地で表戸を開けて外に出る。寒夜雲晴れて、紺青の夜空に星が降る。・・・・・・・・・オッと危ない。脚下を見よ!!
そは幾千万丈! 星の光に白銀の峯づたい、尾根づたい、大富士より瞰下する痛快さ。眼下の室が点々の手にとるがごとく、太郎坊まで見える。

あの電灯が滝ヶ原?
あれが御殿場の町の灯?
左が駿河の町の灯、
そこに須走の村の燈

長尾峠にも燈がみえる。
『あれは国道筋の自動車の燈だろうか?』
『いや、あれは大涌谷の燈ですよ』、
K君の答えになるほど、自分は麓にいた時の見当であったなと、気づけば恥かしい。

夜目に見る箱根、足柄、伊豆の山々を、酔眼もうろうと眺めることしばし。十石峠の航空燈台がピカーリ、ピカーリ、点いたり消えたり。三島の町の燈はにぎやかに見えるが、愛鷹山にさえぎられたか沼津は隠れて見えないようだ。

眼界慣れるにつれて、東のほうに視野を転ずれば、横浜の市街らしく帯をひいたように明るい一団の灯が見える。それから少し離れて、大東京の灯、これは不夜城の大都会だな!

されど正面、長尾峠の真下、わが山荘のある辺りを眺めおろしては、そこには我が子らが、父居ぬ留守をまもりつつ、今は早や眠りにおちていようもの・・・・・・安らかに眠れよ・・・・・・
『ああ、あまり下界を見ていると、里心がついて、ちょっと下山したくなるね。おお寒い。折角のよい酔い心地が醒めてしまう。内に入ることにしよう。』
自分はKを促して室の中に逃げ込む。K君、背後から元気のいい声で

ハアー、お山下れば、ヨイトコリャセ
お山下れば、あかりが招く・・・・・・・・・・・・

と、御殿場音頭を一くさり、唄いながら、表戸をトシンーと閉めた。
・・・・・・・・・・・・
二人は声をそろえて、
『ハッハッハッ』
第二夜—-これで  緞帳。

ムクリムクリと薄気味悪い白雲の海、雲上にゆすぶられながら、われらは深い眠りの中に漂流している。
山の子の揺籃。揺籃の中で、ホット眼がさめた。

自分はかつて、ドイツ物の素晴らしい『ファウスト』のシネマを観たことがある。
『いま一度、あの華やかしい青春を取り返して、思う存分満喫してみたい』
と、そこでファウストは、悪魔メフィスト・フェーレスと堅い約束を結んだ。
メフィストは早速、白髪長鬚の老博士ファウストを呪文とともに、中世紀貴族風の一介の紅顔の美青年に仕立てあげてしまった。

『サア、ご用意ができました。今から貴殿がお望みの麗しい、甘い、青春の国とかへ、ご案内しましょう』
と言う。早速二人は雲に乗った。雲が走り出す。素晴らしい下界の展望が開けていく。雲上のファウストと悪魔は、怒涛のような雲塊とともに遠く遠くへ飛んでいく。行くは行くは、面白いように雲の流れが動いてゆく。・・・・・・当時は若い心に喜んだものだ。この記憶が僕に甦生してきたが、そんなシネマトリックどころでないことは、わかりきった話。今は事実、雲に乗って駆っているようだ。その豪快なこと、言わんかたなし。

箱根、足柄連山の上は雲海。北駿の盆地は、その雲海の下に、朝の色濃く明けていく姿をみせている。丹沢連山の上は、美しい暁のクリーム色の空、ところどころに、薔薇色の柄状雲が現れ出ている。静寂な朝の鳥瞰図である。

遥かに遠く、常陸、上州あたりの模糊(もこ)としたる夜明けの景。その朝もやの中から、筑波の山がぽっかり可愛い頭を二つ並べて立っている。おや! 東京の方面に鳥渡、小さな水溜まりのようなものが光っている。
『何だろう?』
傍らで、日の出前の雲海をカメラにおさているK君にたずねる。
『あれは—、村山の貯水池ですよ』
なるほど、そう聞けばもっともと思われるが、はてさて今さらに富士は偉大なるかなだ。

朝の一時、一枚二枚と筆はいそぐ。筆頭が凍ってカチカチとなる。紙面はまた氷の結晶。


大森明恍が、朝の風景を描くかたわらで、梶房吉は、カメラで雲の風景を撮影していた、との記述がでてきます。今と違って、昭和の初期、携帯できるような小型カメラは相当高額だったようです。家一軒の値段と同じくらいの値段だったとか…。当時、すでに梶房吉は名強力と呼ばれていたようですが、収入も相当良かったようです。

Meiko_Ohmori_385c
K#385
Sun Rise,
Meiko Ohmori (1901-1963), watercolor on paper.
日の出,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に水彩, 10.8 x 30 cm.
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この時に描いたかどうかは不明ですが, 富士山への登山中にスケッチブックに水彩で描いた作品と思われます.
名強力 梶房吉君と我が家族
(昭和12年6月 強力内田忠代写す)
如一. 尋常一年生.
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富士登山から3年後の家族写真です.長男の如一さんはすでに小学一年生になっていました.

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大森明恍と梶房吉_4に続く

大森明恍と梶房吉_4

冬の宝永山に登る

続いて、昭和10年(1935年)3月1日発行の「北駿郷土研究, 富士山」第3年3月号には「御山の厳粛【三】」が掲載されました。

江戸時代、宝永4年(1705年)に富士山の南東側面が大噴火して、山腹に巨大な火口ができました。現在、その火口壁の盛り上がりが、宝永山と呼ばれており、標高は2693mです。

大森明恍が、梶房吉をモデルにしたスケッチなどをして、吹雪の一日を山小屋でやり過ごした翌日、快晴に恵まれたので、「宝永山に行ってみたいなあ」とつぶやくと、梶房吉は即座に、「行きましょう」と言い、準備を始めます。


御山の厳粛【三】

大森海門

晴天の霹靂(へきれき)。俄然として起こるお山の嵐。扉をたたき、屋根を撃つ。
パタンパタン、鉄扉がはためく、いそいで二重ガラス戸を閉める。表口から、ドンドン吹雪が吹き込む。戸外は一歩も踏み出せぬ深もや。
『これじゃあ、手も足も出やしない』
どっかと囲炉裏の端に座って、嵐の音に耳をそばだてる。
おや、入口の土間に脱ぎ捨てた雪だらけの登山靴、戸口に立てかけたピッケルの配合、こりゃ山の生活だ、画にしよう。

   ◇—◇

こんどは、K君をモデルに顔を描く。
山小屋でのK君は、里で見られぬ緊張と元気の横溢しきった顔である。かねがね自分は、ぜひ、富士山のガイド、ナンバー・ワンとしての君の肖像は描いておきたいと思っていた。君に請うてそのポートレートの第一素画を試みる。くせのある頭髪。はっきりとした眼。プールプルの若々しい頬の色。

会場内部分撮影
富士山名強力
梶房吉君写す.(大森明恍のスクラップブックより)
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昭和13年2月1日より2月5日まで, 富士山画第一回個人展覧会が, 東京銀座資生堂ギャラリーにおいて開催されました. このとき梶房吉さんの肖像画も展示され, さらには梶房吉ご本人もわざわざ来場されてこの絵の写真を撮影された, ということのようです.
画面左下には「富士強力 梶房吉氏像 1934. 11. 14」と書いてあります. この日付はちょうど, この文章「御山の厳粛」に記された富士山登山の日付と一致しているようです.

悪天候の今日は室内勉強で一日を送る。夜はランプの灯りの下でのK君を墨で描く。いつか炉端にえぐり燗が尽き込まれた。ついでにK氏が盃を傾けたところをカリカチュア式に描いてみる。『面白いなあ』、Kは相好を崩して喜んでしまう。

暖炉の火をどんどん焚くせいでもあろうが、山小屋の空気の乾燥はことさらにひどく喉をいため、重苦しい頭痛をさえ覚えてくる。
新しい空気を入れかえて、静かにお休み!

むしろの上に布団を展べて、伴侶の友はいつしか、気持ちのいいいびき。僕はそっと床を抜けて、表に出てみた。昼間の嵐もいつとはなく止んで、雲の切れ間切れ間に岳麓の山々が黒く見えだした。
頭上高天を仰げば、折からの八日月、雲の晴れ間にポッカリ。西へ西へと動いて行く。

    ◇

第四日、快かい晴風。早朝より山の仕事に余念ない。
ギンギラ輝る雪山の反射。戸外に長く立つにも、眼がくらみそうだ。南西の戻より宝永山の頂上に俯下すれば、銀嶺の尾根悠々と南方に突起して、山岳美の妙技、ここに尽きるの感あり。
『行ってみたいなあ、宝永山の頂に』
Kは、
『行きましょう』
と、その声の終わらぬうちに、もはや靴にアイゼンを結え付けている。そこで二人は出発の用意をかためた。

   ◇—◇

雪中登山
六合目より宝永山に向かう(大森明恍本人のスクラップブックより)

六合目の斜面を横這いに、めまいを感じそうな白光の中を、やがて宝永山の尾根にたどり着く。第一噴火口の断崖壁の凄絶なること、赤く黒く、峩々と崩壊して、宛然妖鬼の大口を開きたるがごとく、断崖面に不思議な現象に屹立する屏風岩の奇観。御山の絶嶺を振り仰げは、白雪の衣を着て、夏山に想像だもつかぬ壮大なる偉観である。これを見上げては全身する。足も立ちすくむ。おりから、火口底より西風にあおられて吹き上げてくる煙雲は、セッピイ境を歩行するわれわれの全身をおおい包む。クリーム色の煙雲一過すれば、そこにはまた、眼前に大富士の頂上がくっきり現れ出る。

東海の第一王座という大風格である。ドッシリとおよそ下界で仮想だも許せない、濃い濃い深紺青の空色を背景として、くすしき白頭を聳立させている。かくて御山の大自然を仰ぎ、拝しながら、小さな二つの黒影は、尾根伝いにセッピイの上を、一歩一歩、宝永の絶端へと目ざして、勇敢にもアイゼン踏みさして進む。視野いよいよ広袤(こうぼう)としてひらけ、駿河の海も足もとに、清水湾、三保の松原、久能山、はるかに御前岬が水平線上かすかに消えて行く。西方は身延、七面山から赤石山脈の連続、雲上、小春の天日に直射されつつ、凍り固めた雪上をサックサックと、アイゼンを踏む音のみぞ聞こゆる。

やがて二人は絶端に到着、溶岩上に腰をおろして休憩。

太平洋のかなた、ぽっかりと伊豆大島の影、浮かぶあり、北の方秩父連山を隔てて、遠く遠く日光の男体山も思いのほか近く見出し、やや離れてひときわ高きが、白雪の頂を午前の陽に光らせつつ、霞のかなたに聳え立つ、これ白根山とか聞く。この眺望は、室の付近では、ちょっと見られないものであった。

されどされど、眼下に俯瞰する、これらの大展望よりも、さらに吾人の心を惹きつけ、魂を奪うものは、やはり宝永の大断崖の上に、永遠不滅の大富士の立姿を見上げた、威風堂々たる静けさである。今更ながら、僕は喜んだ。
『俺は絵かきであることを、どんなに感謝しても足りないぞ。』
スケッチブックを開いた。西風が火口内より盛んに吹き上げる。K君はそのため風よけの役になり、風を背中に鉛筆を走らす僕の側面に立ってくれた。

真正面の頂の峰が成就岳。左に駒ヶ岳に三島岳、成就岳の右が生死ヶ窪、それに伊豆岳、旭岳と、手にとるごとく、迫ってくる。大歓喜の中、とうとう一枚のスケッチを終える。

宝永山頂に立ちて 快晴の日(本人のスクラップブックより)

目的を達したと思うと、急に寒さが身にしみる。遠く大スロープの中に黒一点、吾等の室が小さく見える。
『さあ帰ろう』
二人は強烈な西風を背中にうけて、中天の陽光を浴びつつ、今さき辿り来し雪肌を勇ましく帰途へ、帰途へ。

      ◇

室へ帰り着いた。炉端に座すと同時、直に今のスケッチに着色する。そして小品の油絵に直してみる。これは愉快なものになりそうだ。
『今まで宝永山の頂上から富士を見上げて画いたという人は、昔から恐らくないでしょう。しかも冬山だから、なおさら珍しいものですね。』
K君はことごとく、僕の仕事を我が事のごとく喜んでくれる。これは確かに、よきガイドに補導される登山者にとり、言いようのない幸せである。

小屋での夕暮れが近づいた。この時、また宝永山は逆光に薄紫に溶けていく。西の空は真っ赤に焼けて、火の塊のような積雲が次から次へと頭角を現して、瞬間また瞬間の変化を連続させて、はては東へ東へと流れて行く。

油のスケッチ、黒絵のスケッチ、忙しく筆をとばす。今は早や、暮れ果てて、駿河の海が鉛色に反光していく時、愛鷹山の上に伊豆半島が紆余曲折の湾江、岬を突き出して、天城の山など夢にみるような薄ぼんやりと、静中の動。動中の静。かくて残光にゆかしくも、このパノラマは、日没の帷の中に消えて行く。

部屋の中にランプがつく。今日の静かな晴天を讃えつつ、夕食に牛肉をヂリヂリ鍋に煮込みながら、その夜はK君の永い強力経験談を聞く。二人の話はますます、それからそれからへと、花が咲いていく。戸外の雪の華に、寒夜の月光が室の窓から皎皎(こうこう)と差しこむ。小さい灯影の下に、二人は深い海底を泳いでいるような一種のすごみ。それは妖精に魅惑されて地球の髄心までも引き込まれるような感じさえもする。

床の中から高山の寒月を仰ぎ見ながら、二人は枕を寄せて、尽きぬ山の話を続けて果てしがない。

いつとなくK君の語る声も途絶えた。かすかないびきが聞こえてくる。
『先生、とうとう眠ったな』

     ◇—◇

白砂青松。
自分はきれいな海岸を一人とぼとぼ逍遥している。何かを探して歩いている。頭の中はある考えでいっぱいである。
『素晴らしい富士山、今に世に紹介されたことのない、天下未聞の富士の絵を、天長さまが国民にご下命になったのだ。これは何といっても素晴らしいことだ。自分もその募集に応じて、開闢以来誰も画きださなかった、恐ろしく立派な富士山を描きあげて、天長さまに差し上げたい。まあ、ともかく、根かぎり、精かぎり、どこの果てまで行っても、探し出して描いてみよう。』
砂浜らしいところを、やたらに歩く。いろいろな町がある。いろいろな人がいる。自分の心は、その素晴らしいとかの富士山
探すに、躍起となって、人里離れた所を、何処までもどこまでもと、さ迷って行く。

     ◇—◇

浜辺の道は尽きた。もう、ここから先は海だ。歩くわけにはいかない。松林の岬が、ちょいちょい突き出している。ここまで探し求めて来たが、とうとう素晴らしい富士を見出すことが出来なかった。

これで断念しては、あまりに残念だ。逡巡、逡巡。自分はひょいと顔をあげて、海のかなたを遠くを眺めた。高い御空にありありと富士山が現れている。それは無茶苦茶、高い高い富士山だ。今までの、あの神々しいまでに崇高感を盛った、万葉の赤人の歌よりも、周文、雪舟の富士の名画よりも、まだまだ高い感じの素晴らしい富士山だった。
『おお、これだ、これだ。』
雀躍せんとしたが、あまりに薄気味悪いまでに、聳り立った富士ヶ峰だ。茫然として佇む。
『こんなにまでも高い富士山がこの世にあったものだろうか。これは本当なのかい?』
『いや確かに富士賛だ。まだ誰も知らない富士山だ。しかし、ばかに可笑しいまでに高すぎる。』
自分はかく独語しつつも、この不可思議な富士山に眺め入っていた。その富士山の中央を縦に、幾つもの妙な雲が東へ飛んでいる。ヒョロヒョロした尻尾をなびかせた雲である。どう見ても得たいの知れぬ雲である。それでも自分は、またしても見入っていた。何時までもいつまでも眺め入った。


残念ながら、この時に描いたと思われる、冬の宝永山の絵は残っていません。しかしながら、別の機会に、宝永山に登って描いたと思われる絵が、次女の小林れい子さんのお宅に残されていました。季節は夏のようです。確かに尾根状の地形のようであり、もしかすると、冬には、この稜線に沿ってセッピィ(雪庇のことか?)が張り出していたのかもしれません。

Meiko_Ohmori_005c
K#05
At a Crater Wall of Hoeizan on Mt. Fuji,
Meiko Ohmori (1901-1963), oil on canvas/board, July 1938.
富士山 宝永の一角にて,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 板張りキャンバスに油彩, 33.3 x 24.2 cm(F4), 昭和13年7月.
富士山こどもの国蔵
———————
裏面(板)には, 「大森桃太郎画 寶永山火口壁の一角」と本人による説明書きがあります. 短い夏に咲く高山植物と, 激しく流れていく雲の様子が描かれているようです。

大森明恍と梶房吉_3に戻る

大森明恍と梶房吉_5に続く

大森明恍と梶房吉_5

宝永山からの絵を完成し、下山の途につく

大森明恍と梶房吉_4 | 大森明恍

続いて、昭和10年(1935年)4月1日発行の「北駿郷土研究, 富士山」第3年4月号には「御山の厳粛【四】」が掲載されました。このシリーズの最終回です。

富士山の山小屋での一夜、何としても良い富士山の絵を描こう、とあがく夢をみます。翌朝、大森明恍が「富士山で富士山の夢をみた」と話すと、梶房吉(文中ではK君)は「それは、何か良いことがありますよ」と返しました。宝永山からの風景を描いた会心の油絵一枚を仕上げると、梶房吉は天候の崩れを予想したので、登頂の予定を急きょ変更して、翌日には下山することにしました。


御山の厳粛【四】

大森海門

夜明けの寒さと、部屋の乾燥した空気の中に、息苦しい夢からひょっと眼がさめた。
『変だな、今のは夢か?』
何だ、絵かき先生、夢を見ていたのだ。夢のうちにも、この先生、一生懸命に富士を描こうと全力を注いでいる。

ああ、今日も晴天白日だ。
床から跳び起きた。仕事だ、仕事だ。

雲海を眺めながら、朝餉を喫しつつ、
『僕はゆうべこんな夢を見た』
とK君に話した。そして、
『富士山にいて、富士山の夢を見るとは、面白いね』
ここでK君、すかさず
『それは、お家にお帰りになったら、何か、きっと良いことがありますよ』
だと、ガイド君、なかなかお世辞が、いいなあ。

きのうの宝永山の富士を、もう一度現場に行って、油絵に仕上げておきたい。そこで、二人は早速、また雪の宝永山行に出発した。やがて、再び宝永山上からの富士の写生を始める。相当に寒いが、良い天気だ。溶岩を積み重ねて、小さい画面の風よけを作り、袋の中から絵の具を取り出し、筆をとり、こうと高嶺を見上げ、画面を見下ろした。ショートタイム、無言。緊張。・・・・・・風が出た。ブーブー吹き上げてきた中で、
『ヨーシ、これでいい。いい絵を描いた。これでいい。』
絵筆をポンとおいた。

そこで急ぎ帰り支度をして、袋はK君が背負ってくれる。帰路は横なぐりに吹きつける強風の中で、セッピィの上を二人は一言も交わすことができない。実に善戦美闘である。ただ無言のままで、スロープへ急ぐ。顔にたたきつける風の痛いこと。飛ぶ雪を交えた刺すような烈風の間断ない連続。互いに一本のピッケルが唯一の命のたより。
『あっ!』
次の瞬間、セッピィの上に僕は完全に横倒して、転んでいた。足どりが狂って、右足のカンヂギの針が左足のズボンの下に突き刺さって、自分はそのまま歩行をなくし、風に押し倒されたのだ。声をあげることもできない。
『ああセッピィの上でよかった。スロープの上でなら、それこそ、何処まで墜落するのか、知れたものでない』
転んだまま、突き立ったアイゼンをズボンから外し、ピッケルにすがって、立ち上がった。先のKは、もうだいぶ遠くへ、ただ前方を目指して進んでいる。ものすごい烈風は、この間の二人の消息を断っていた。
『足元用心!』
と口中大きく叫んで後を追う。

     ×  ×  ×

室に帰って、さっきの危難を物語り、K君からいろいろと雪中登山の注意をうけた。そして厳冬極寒のおり、八合目、九合目あたりの胸突き登りで、突風に襲われたときの命がけの大難苦行を聴かされては、冬山の厳粛なる恐怖を想像して、転々緊張せざるを得ないものがある。しかし、この宝永山上よりの富士山は珍しい作品として、まず成功である。幾度となくふたりで喜び合って、残り少なの壜を傾けて、祝いの盃をあげた。

日中、一万尺の高所で、いささかほろ酔い気分となり、戸外に出て、白銀に輝くスロープを、両足投げ出して、お尻のスキーをやって遊ぶなど、まさに天上の行楽である。

     ×  ×  ×

夕刻にかけて、またひとしきり、夕暮れの雲を写生し、疲労のからだを横たえて憩ううちに、お山はにわかに襲う大風の騒音に包まれた。また嵐が来た。鉄扉からはためく。急いで扉を閉めに我々は立ち回りを開始した。暗い部屋の中で、戸外の襲撃に思いを走らせ、夜に入っていよいよ募る模様に
『この分では数日間は荒れるかも知れぬ。山の天気は何とも断言でき難い』
とはK君の言葉である。そこで最初の計画であった、七合八勺に滞泊のことも、頂上観測所訪問のことも、現在の五合五勺の永い滞在に災されたので、これ以上の山内生活は、また次回ということに相談をまとめ、こうと決まれば、明朝の天候を見て下山しようとなった。

思えば短い雲上の俗世を超越した数日間ではあったが、お山に籠っての製作をなすに、いろいろの尊い経験を少なからず、収穫しえたのである。第二回目には、こうも、ああもと、そんなプランに頭をひねって、風の響きをもいつか現つの様に、深い最後の眠りに落ちてしまった。

     ×  ×  ×

幸いに翌朝は微風、微光のうちに眠りは覚めた。下山の準備、後かたづけやら、絵の荷造りやらに忙殺されながらも、ほぼお山を降りる身支度は出来上がった。そこで、頂上への約束を捨てて下山する挨拶を電話で伝えた。頂上では、主任の技手から我々の頂上訪問を期待していたのに、惜しいことであるとの返事。人間界を遠く高く離れた雲上の世界では、電話線を通じて語り合うことすら、まだ見ぬ人の懐かしきことよ、世の生活は、かくも人間を純真無垢に浄化してしまうものであるか。

いよいよ出発、時まさに前七時半、数日に過ぎない住居ではあるが、さらばとなれば、また惜別の感も湧く。自分は扉の前に立ち、頂上を仰ぎ見て、脱帽。しかして瞑点。

山上の孤独に耐えよ!!とは、ドイツの超人、ニイチェの言葉だ。御山の孤独。泰然と紺碧の大空に威厳尊く、また温容厳しく、無限永劫の大静寂である。言うべき言葉のあろうはずがない。吾人はどこにいても、お山の懐にいるのだ。

下山の一歩は踏み出された。下る、下る。サックサックと足の調子、手の調子。先達のK君がさながら跳んでいくようだ。さすがに馴れたものだ。
『足のアイゼン、だてには穿かぬ』
くそッ―、遅れてなるものかと力みはしつれ、三十分、一時間と下るにつれ、冬山に慣れぬ脚の悲しさ。何時しか膝小僧が全身の重荷を支えかねて、がくがくしてならぬ。頑張り頑張りすれど、Kとの距離はいよいよ遠ざかる。気は焦る、Kは遥かの先に後振り返って待ち受ける様子だ。いよいよ焦る、膝は鳴る、靴がばかに重くなり、両脚が痛む、呼吸ははずむ。エエままよと、ピッケルにすがって岩角に腰を下ろして、疲れ果てた両足を投げ出し、呼吸を休めた。K君はとみれば、疲れた僕の意気地なさにあいそを尽かしたものか、またどんどん下界を指して一目散に走り行く。憎らしいがどうもならぬ。普通人に比べて、決して弱い自分ではないと常々うぬぼれているのであるが、雪山に経験ないことは、かくまでに自負心を傷つけるものかと、地団駄踏むほど口惜しかったが、全くどうともならぬ。

しかし、かくてあるべきでない。勇躍一番、サッと突き刺すピッケルに身を起こし、雪を蹴って三合目あたりのKを目当てに最後の頑張りをはじめ、額にしわを刻み、歯を食いしばり、力闘これ努め、漸くにKの待ち受けた二合八勺の小屋へ着く。ここでKは、ちょっと人の悪そうなほくそえみを洩らしてみせた。その忌々しさ。ここ数日を兄弟のごとくしたK君も、下山の際の僕の弱腰には、すっかり期待を失ったと言わんばかり。どうも致し方ない。ここらで捨てられては、なおかなわん。じっと我慢して彼氏のあとに続くよりほかはない。二合五勺、二合二勺、
『もう、これまで来れば大丈夫でしょうね。登るときと違って、下りは案外弱いでしたね』
Kよ、もうそんなに苛めるな。

     ×  ×  ×

太郎坊の小屋がそこに間近く見出されたころには、不思議に先刻の泣きっ面の体も何時しか消えて、やや元気を取り返し、K君と同じ歩調で肩を並べ、楽しい下山者の意気揚々たるタイプを取り戻していた。枯れ残りの富士アザミの白ぼけた坊主頭を、ポーンとピッケルの先でなぎ倒したりして、火山灰交じりの小砂利道を降りる。時々見返すお山の姿は、すがしがしいまでに紺青の空に晴れ輝いて、吾等二人の静甲を祝福してくれるものかの様であった。すでに九時半である。下山に二時間、これでは決して良い成績であるとは言えない。吾等は冬枯れの落葉松や、白樺を透かして最後の感謝をお山に捧げた。

K君は、どこからか清水を汲んできて、登山カップで渇きをいやして、さておもむろに、声朗々と、大空にむけ、

 守れ浅間      鎮まれ富士よ
 山は男の      禊ぎ場所
 雲か雪かと     眺めた峰も
 今じゃおいらの   眠り床

画家は何時までも何時までも、明朗に笑っていた(了)

(この拙文は、昭和9年11月中旬、中央気象台の諒解を得て、第一回雪中登山を決行せし折の紀行なり)


宝永山から山小屋への帰り道、大森明恍は、風にあおられて転倒してしまいました。これが、もし、これが急斜面のスロープだったら、と恐ろしくなります。山小屋に戻って、その話を梶房吉にすると、冬山での歩き方の注意点を話すとともに、梶自身の八合目九合目での恐ろしい経験も、大森明恍に話しました。

新田次郎の小説凍傷には、主人公の佐藤順一と梶房吉の二人が冬の富士山の頂上を目指して登る途中、八合目を過ぎたあたりで、二人が滑落するシーンが出てきます。幸い一命をとりとめたものの、動けなくなってしまった佐藤をその場に残して、梶は一人で、頂上の観測所にザイルを取りに向かいます。もしかすると、梶はこのときの経験を大森明恍に話したのかもしれません。

また、凍傷には、悪天の中を頂上に向かおうとする佐藤を、途中で何度も、梶が思いとどまらせようとするシーンが出てきます。山岳ガイドとしての梶は、悪天の冬の富士山の恐ろしさを熟知しており、客に決して無理な登山をさせないように心がけていたようです。結局、佐藤は梶の静止を振り切って、登山を再開してしまいました。一方、大森明恍の場合は、佐藤と違って宝永山での絵を仕上げたことに満足し、梶のアドバイスに素直に従って、下山することにしました。

下山の途中、大森明恍が梶房吉にかなり遅れをとってしまい、情けない、と自己嫌悪に陥るシーンが出てきます。小説凍傷には、太郎坊と頂上との間を5時間で往復する足の速さには吉田口、須走口、大宮口、御殿場口を通じて、彼の右に出るものはいなかったとの記述が見えますから、梶はもともと強力仲間のなかでも、相当足の早いほうであったようです。

このように、新田次郎の凍傷に登場する梶房吉と、大森明恍が記述するK君の間には、いくつもの共通点が見られます。


文中、富士アザミの花の話が出てきます。次女の小林れい子さんのお宅には、恐らく別の機会に描いたものと思われる、富士アザミの絵が残されていました。そしてその後、この絵は御殿場市に寄贈されました。

Fuji_Azami
#K04
Fuji-Azami (Cirsium Purpuratum)
Meiko Ohmori (1901-1963), Oil on canvas/board.
富士アザミ
大森明恍(明治34年-昭和38年), 板張りキャンバスに油彩, 24.2 x 33.3 cm (F4).
御殿場市蔵
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フジアザミ: 富士山の周辺に咲く紅紫色のアザミ. 花は直径5 cmから10 cmと大きい.

下山した後、大森明恍の雪中富士登山は、昭和9年1(1934年)1月20日東京朝日新聞の静岡版に記事として取り上げられました。

東京朝日新聞
昭和9年11月20日
お山の画家
海門氏下山す
富士山の研究家として知られる御殿場在富士岡村諸久保の画家大森海門氏は富士山の百態を描くため去る十三日御殿場口から尺余の積雪を冒し富士登山し五合五勺の気象台避難所に六日間立て籠もり彩管を揮って雪のお山の油絵数点を描き大きな収穫を得て十八日下山した。近く再び登山するが日頃の山麓の収穫その他傑作をまとめて来春三越で富士山油絵の個人展を開催すると

偶然ですが、同じ日の新聞の同じページには、静岡美術協会役員の常任理事として長尾一平さんが選ばれたとの記事もあり、赤い線が引いてありました。長尾一平さんは額縁を製造・販売していた磯谷商店の二代目の方のようです。


なお、この後も梶房吉は、富士山頂の気象観測所への物資や機材の補給に貢献されたようです。昭和42年(1967年)には、永年の功績に対して、勲七等青色桐葉章が授与されたとのことです。(御殿場市教育委員会編, 文化財のしおり第32集「富士山に関わった人々」より)

富士山画を橿原神宮に献納

昭和15年(1940年)、大森明恍は一枚の富士山画(油彩画、M10号)を奈良県の橿原神宮に献納しました。大森明恍自身によるスクラップ・ブックである「不盡香」には、作品の写真と、献納を伝える当時の新聞記事の切り抜きが残されていました。

Meiko_Ohmori016c
橿原神宮献納画
皇紀2600年(昭和15年, 1940年)2月11日 暁天ニ作画セル精神的作品(油絵10号海形)
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なお、絵の右下には「皇紀二千六百年二月十一日暁天 大森桃太郎謹みて畫く」とあります. ちなみに, 2月11日は神武天皇が即位した日とされており、戦前は紀元節と呼ばれる祝日でした.
Meiko_Ohmori012cMeiko_Ohmori013c
東京日日新聞、昭和15年(1940年)2月18日
生涯を打ち込んで畫く霊峰の姿
橿原神宮へ大森桃太郎氏が会心の作品を献納
画壇の変わり者で富士山研究家として知られている大森桃太郎氏(40)は今年の紀元2600年を心から祝う民草の一人として、その感激の筆になる富士山の絵を一点橿原神宮へ献納すべく目下手続き中であるが、この献納画は10号の小さい作品ではあるが、氏の従来描いた富士山もの数千点の中でも特に光った傑作であり、何よりもここ二十年来富士山のみを専ら対象として傍目もふらずに制作に熱中、遂には7年前妻子を伴って家族全部が富士山と共に生活するため御殿場の富士山麓富士岡村諸久保へ移住したという熱心家であるだけ、近頃の美しい話題となっている、桃太郎氏は語る
「私は九州福岡の出身ですが、どういうものか若い時東上の途中汽車の中から一目眺めた富士山の姿にすっかり惚れてしまい、以来富士山許りを対象に何枚も何枚もの制作に集中してきました、私の全生涯は富士山研究のために捧げようとはっきり覚悟はついていますから、もう二度と東京などへは住むことはないと思います」(写真は大森桃太郎氏とその献納画)
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Meiko_Ohmori015b
大阪毎日新聞、昭和15年(1940年)6月3日
橿原神宮へ富士山の絵奉納
大森桃太郎画伯の作
霊峰富士のみを対象として制作をつづけること十数年、東京画壇の変わり種富士山麓富士岡村字諸久保大森桃太郎画伯(40)は2600年を祝って橿原神宮に力作奉納を思い立ち、表富士の威容を10号大のカンヴァスに写生、桜の額縁に収め二日本社の斡旋で橿原神宮に奉納、午後1時半その奉納奉告祭に臨んだ。
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さらに「不盡香」には、御殿場の自宅の前で記念に撮影したと思われる写真もありました。

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昭和十五年五月三十日
献納奉告祭に出発の日
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大森明恍本人は燕尾服姿、この正装姿で奉告祭に臨んだものと思われます。その隣には長男の如一さんが小学校の制服と思われる服をきて立っています。さらに後ろには愛犬ポールらしい犬の後ろ姿も写っています。(犬の名前はポール・セザンヌからとったそうです)

この年、昭和15年(1940年)は神武天皇の即位から2600年にあたることを記念して各地で様々な行事が盛大にとり行われたそうです。特に橿原神宮には神武天皇がお祀りされていることから、多くの参拝者(1000万人)が訪れたようです。

一方、この年、ヨーロッパではドイツ軍がオランダ、ベルギー、フランスなど他国を次々に占領していました。日本では7月に近衛内閣が成立して、松岡洋右が外務大臣に任命された年でもあります。この年の8月、賀川豊彦と小川清澄は、松沢教会での礼拝の後、憲兵隊に連行されました。洋画家の藤田嗣治が、パリが占領される直前、日本に帰国したのも、この年です。

本人が意図していたのかどうかは、定かではありませんが、このころから、時代が大森明恍の富士山画に対して、何らかの特別な価値や意味を見出し始めたように見えます。

また、この作品には姉妹作があったようです。

Meiko_Ohmori_019b
橿原神宮献納画の姉妹作
天理教教庁管長
中山正善氏蔵(油十号)
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この絵の持ち主となられた、中山正善(1905-1967)という方は、天理教第二代目の管長で、教祖である中山みきのひ孫にあたられるようです。稀代の蒐集家としても知られているようなので、もしかすると絵画作品も集めておられたのかもしれません。昭和初期は、天理教の信者数が最も多かった時期にもあたるとされており、多い時には300万人から500万人であったそうです。このような著名な方に購入していただいたということは、おそらく画家として大変名誉なことだったと思われます。


時は流れ、昭和32年9月22日づけの朝日新聞が残されていました。大森明恍は、自身が紹介されている新聞の切り抜きについては、欠かさずスクラップブックやアルバムに貼り残していたようですが、この新聞については、どこにも大森明恍が紹介されていませんし、またスクラップブックに貼られてたわけでもありませんでした。よく見ると、奈良県の特集記事が掲載されており、その一角に「二つの宗教都市」として、天理市と橿原市が紹介されていました。

朝日新聞_昭和32年9月22日002b
朝日新聞、昭和32年(1957年)9月22日
二つの宗教都市
大和にある宗教都市、橿原と天理の横顔をみよう。
学校から療養所まで完備
(天理)
三百万といわれる天理教信徒の”メッカ”天理は習志野南十キロ。仏都のすぐ近くに新興宗教の老舗が出来たのは皮肉。街には「天理」と染めぬいたハッピ姿があふれて活気がみなぎっている。二十二億円の工費と延百五十万信徒の「ひのきしん」(奉仕)によって出来た地下二階、地上四階、延一万四千三百坪余の「おやさとやかた」が献灯に映え威容を誇っている。昨年は教祖七十年祭には百三十万信徒が全国から集まり、当日は七百台のバスが街にあふれ、犬の子一匹も通れなかったという。
教会本部運営の学校は幼稚園から大学までの全コースがそろい、生徒総数は約七千。天理大学はもと天理外語が二十四年に昇格したもので、学部は文学、外国語、体育の三つだが、朝鮮語を教えているのは日本ではここだけで、警備関係の警察官も聴講にくる。蔵書六十万冊の大図書館はカソリックに関する図書の収集で有名。結核患者から相談の持ちこみが多いので、結核研究所や療養所などの福祉施設も整っている。スポーツもさかんで、ラグビー、柔道、野球、水泳と天理の名はスポーツ・ファンにもなじみ深い。
生気とり戻した建国の聖地
(橿原)
“建国の聖地”橿原は紀元節復活の波に乗って、ようやく生気をとりもどしてきた。元陸軍少佐の初代市長好川三郎氏(四十)は「日本人の心に民族の魂と誇りをとりもどすため」紀元節復活の必要を説き”八紘一宇”とは平和と愛の精神にほかならないと強調する。一方、神宮側は「建国祭の復活はまことに結構ですが、祝いごとだけに国民が感情的になって、二つに分かれてしまわぬよう」にと慎重。神宮外苑に森林植物園を開いたり、社殿を結婚式場に開放したり、会合の場にあてたり。これも”国家主義のシンボル”から”民衆に支えられる神宮”への歩みであろう。参拝者は年々ふえて、昨年度は百六十万人。今年のお正月は五十五万人をこえ、戦後の最高記録だったそうだ。
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大森明恍が、どのような気持ちでこの記事を読み、その後長い間に渡って保管し続けたのか、今となっては知る由もありませんが、この二つの宗教都市には、単なる偶然としては片付けることのできない、何か深いつながりを感じていたのかもしれません。

ちなみに、この年昭和32年には、大森明恍は近畿地方を旅行して、多くのスケッチを残したようです。そして12月には銀座のなびす画廊において「第一回近畿旅行淡彩画個展」を開きました。その際、久しぶりに橿原神宮や、天理市も訪れていたのかもしれません。

富士山画を陸海軍に献納

昭和17年(1942年)10月28日の朝日新聞に「霊峰を陸海軍に献納」という記事が掲載されました。すでに前年、昭和16年(1941年)の12月には太平洋戦争は始まっていました。

記事の内容は、大森桃太郎(明恍の本名)が描いた富士山画(水墨画)を、野上報美堂の野上菊松という方が表装し、10月27日から上野松坂屋で5日間展示した後に、陸海軍に献納するというものです。戦争中とその前後、大森明恍(大森桃太郎)は、富士山の水墨画を描く機会が多くなったようです。もしかすると、油絵用の画材が入手しにくくなっていたのかもしれません。

野上菊松という人物について調べたところ、サンフランシスコで発行されていた「日米」という新聞の1930年(昭和5年)9月11日付け、3面に「表装の秘密を米人間に野上氏紹介する」という記事が載っていました。戦前、サンフランシスコを訪れたこともあったようです。

ちなみに、この翌年(昭和18年)3月に、野上菊松が、大森桃太郎、梶房吉とともに銀座を歩く写真が残っていました。洋風の帽子に和服、白足袋に草履という独特の姿です。スーツ姿の強力、梶房吉とは、また違った意味で珍しいいでたちです。

Meiko_Ohmori_037
「不盡香」より
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朝日新聞 昭和十七年十月二十八日
 

「霊峰」を陸海軍へ献納

富士をにらんでカンバスに絵筆を揮う事十年、その富士山画家が熱誠こめて画き上げた霊峰二つの作品が陸海軍へ献納される—御殿場駅に程近い富士岡村諸久保にアトリエを営む洋画家大森桃太郎画伯(四二)で今度東部表装研究団体宏心会が主催して陸海軍への献納画の企てを知るや欣然これに参加、赤誠こめて尺八横もの水墨画陸軍への東表黎明の富嶽、海軍への旭日昇天の表富士を描き上げた、この二巾は表装展審査員野上報美堂主野上菊松氏が腕を振い他の同志三十画伯等の作品八十点と共に二十七日から五日間上野松坂屋で展覧会の後それぞれ陸海軍へ献納される【写真は海軍へ献納のもの】
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レイアウトが異なりますが、朝日新聞の静岡版にも同じ記事が掲載されました。

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「不盡香」より
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朝日新聞 [静岡版] 昭和十七年十月二十八日
 

「霊峰」を陸海軍へ献納

富士をにらんでカンバスに絵筆を揮う事十年、その富士山画家が熱誠こめて画き上げた霊峰二つの作品が陸海軍へ献納される—御殿場駅に程近い富士岡村諸久保にアトリエを営む洋画家大森桃太郎画伯(四二)で今度東部表装研究団体宏心会が主催して陸海軍への献納画の企てを知るや欣然これに参加、赤誠こめて尺八横もの水墨画陸軍への東表黎明の富嶽、海軍への旭日昇天の表富士を描き上げた、この二巾は表装展審査員野上報美堂主野上菊松氏が腕を振い他の同志三十画伯等の作品八十点と共に二十七日から五日間上野松坂屋で展覧会の後それぞれ陸海軍への献納される【写真は海軍へ献納のもの】
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さらに、昭和17年の秋に、富士山画の油彩画を靖国神社にも献納する約束をしたとの記録がありました。

Meiko_Ohmori_039 
「不盡香」より
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昭和十七年 秋
靖国神社、社務所に於て 松本君平氏介添えのもとに 鈴木宮司閣下に面接
親しく貴賓室正面の壁面に富士山の油絵額面を揮毫の上献納す可き儀の誓約を行う
当時先輩知己に此の事を報告す。
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(注1) 松本 君平(まつもと くんぺい、明治3年4月10日(1870年5月10日) – 昭和19年(1944年)7月28日)、静岡県出身のジャーナリスト、政治家、教育者、思想家。文学博士、衆議院議員。(ウィキペディアより引用)
(注2) 鈴木孝雄(すずき たかお、明治2年10月29日(1869年12月2日) – 1964年(昭和39年)1月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功三級。砲兵監・第14師団長・陸軍技術本部長・軍事参議官を歴任。
現役を退いてから靖国神社第四代宮司(昭和13年から昭和21年まで)及び大日本青少年団長を務め、戦後は偕行社会長となる。(ウィキペディアより引用)
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富士山画の個展(戦前-1)

第1回 富士山画展

大森明恍は戦前、何回かに渡り、東京銀座で富士山画の個展を開いたようです。 第1回の富士山画個展は、昭和13年(1938年)2月1日から5日まで、 東京銀座資生堂ギャラリーで開催されました。

案内状(表)
大森桃太郎作 第一回 富士山画展覧会
昭和十三年 自二月一日 至二月五日 (午前九時ヨリ午後六時マデ)
於東京銀座 資生堂ギャラリー
案内状(裏)
拝啓
時下厳冬のみぎり、いよいよご清適の段、慶賀奉り候
陳者今回小生作画「富士山」を主としたる油絵、素描その他約百点をもって展覧会を開催いたし候間、ご多忙の折からながらご家族ご知友お誘いあわせの上、ご来臨賜りたく、この段謹んでご案内申し上げ候
敬具
昭和十三年一月
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富士山を画きて
かかるご時世に遭遇いたしまして、私は自分の常日頃研究しております「富士山」の作画を、世の多くの人々に観ていただくことは、あながち無意義なことではないと考えます。
我が国民性発達の上に、永くかつ深く植え付けられてきました愛国純情の精神に、どうしても「富士山」を離して考えることはできません。むしろ金甌無欠の日本国体に、一入光彩を放つ尊い役割を持っていることは勿論であります。仰げは高き富士ケ峰の、有史を超越した崇高、秀麗しかも神ながらの霊姿こそは、大八州の我同胞のひとしく全世界に誇りうる天与の恩恵として、ご同慶の至りにたえない感を深く致します。
思いますに、歌聖赤人の昔より、神洲の意気燃ゆる鎮国の象徴とも信奉されてきました、このくすしき不尽の霊峰は、いろいろと詩文画によって、国民精神の成長に幾多の貢献をしてきたかを顧みますなれば、誰しも尽きせない思いを禁じえないでありましょう。
さて画家としての私の価値を説明してくれるものは、もとより私の作品でありますが、私の富士を画かんとする志はよほど若い時からの宿願でありました。生涯を通じ必ず真実感のある(精神的)富士の作画を目的として、岳麓御殿場在の一寒村に居を卜しまして、四季を通じ、かつ夕霊峰の不可思議なる魅力に魂魄を惹かれつつ、懸命に感激を続け、画業につとむること早満四ケ年を過ぎました。今日に至り、いささか自得する所ありといえども、若輩未だもって、技神倶になお浅しというべきでありましょう。相手が世界一の富士山では、なるほど大きすぎるには違いありませんが、幸いにして私の意気にはいよいよ壮なるものがあります。
書聖雪舟、奇才北斎の富士の名画は世人の良知するところでありますが、現代富士を画きて、真に堂々一家をなせる画人のあるを未だ見出さないのであります。ゆえに私の富士に対する希望、抱負は正しくこれからであり、またこの第一回の発表によって、今後ますます所定の計画に邁進してゆきたいと深く期するのであります。幸いに大方諸賢のご鞭撻を切望してやみません。この時局多端のおりにあたりまして、不肖の画事微力なりといえども国民精神総動員の一役ともならば、作者の本懐またこれに越した悦びはないと存じます。
以上
静岡県御殿場在富士岡村諸久保
大森桃太郎識

資生堂ギャラリー75年史」(資生堂文化部編)によると、開催案内は、当時の新聞や、美術雑誌『みづゑ』などにも掲載されたようです。


資生堂ギャラリー75年史p.292より引用/
1938(昭和十三年)
3802A 1938.2.1-2.5*
大森桃太郎氏富士山画展
【概要】大森の富士山画展の第一回展。
大森桃太郎(号明恍)は1901(明治34)年福岡県生まれ。本郷洋画研究所に学ぶ。1921(大正10)年二科展に「浪懸夏光」を出品。1933(昭和8)年富士山研究のため、御殿場に一家で移住。この個展開催後、北海道、九州など各地で富士山画個展を開いた。
【典拠】東京日日2月1日、読売2月1日、東京朝日2月2日、アトリエ3月号、美術[東邦美術学院]3月号、 みづゑ 3月号、美術眼4月号
【文献】「芸術新潮」4巻7号「富士を描いて30年」
*2.2-2.5=東京日日2月1日


第2回 富士山画展

翌年の昭和14年(1939年)にも、同じく東京銀座資生堂ギャラリーで、第2回の富士山画展が開催されました。その時の案内状も残っていました。

(表)大森桃太郎作
第二回 富士山画展覧会
昭和十四年 自七月二十六日 至七月三十日(午前九時-午後九時)
於 東京銀座資生堂ギャラリー
(裏)粛啓 時下いよいよご清適の段、慶賀奉り候
陳者このたび「富士山」を主とした素描、油絵の近作をもって来る七月二十六日より三十日まで(五日間)銀座資生堂ギャラリーにて展観仕り候
いとささやかなる発表には候えど、酷暑の折からながらご家族ご知友お誘いあわせの上、是非ともご高鑑ご後援を賜りたく候
右謹んでご案内申し上げ候
敬具
昭和十四年七月
富士山研究画家
大森桃太郎

この時の個展についても 「資生堂ギャラリー75年史」 に記事の掲載がありました。


「資生堂ギャラリー75年史」p.192より引用/
3907G 1939.7.26-7.30
大森桃太郎富士山画展
【概要】富士山一筋に描き続ける大森が、前年(3802A)に続き第二回富士山画展を開催。
【典拠】美術[東邦美術学院]9月号、 みづゑ 9月号


第3回 富士山画展

第3回と第4回の富士山画展については本人によるスクラップブック「不尽香」にも比較的詳しい記録が残っていました。第3回は、昭和16年(1941年)9月9日から13日まで、青樹社画廊で開催されました。

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第三回 富士山画 個展開催(「不盡香」より)
上の写真には, 本人が画廊の窓から外を見ている様子が写っているようです. 看板には「油絵 工芸 青樹社」と書かれています.
下の写真は画廊の入口のようです. 手書きのポスターには, 「大森桃太郎近作個展、自九月九日至九月十三日於当画廊階上」と書かれているようです. 戦前は、画号として本名の「大森桃太郎」を使っていました. 窓越しには額装された富士山の絵が見えるようです.

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御案内
大森桃太郎
近作個展
期日 昭和十六年(1941年)
自 九月九日 午前九時ヨリ
至 九月十三日 午後七時マデ
会場 東京銀座四丁目 於青樹社画廊
拝啓
将に時局愈々多難緊迫の折柄、貴堂益々御健勝御自愛の御事と拝察お欣び申上げます。さて小生こと日頃各位の御恩愛を辱ふ致し、画筆報国の微衷、聊か努力をつづけて居ります處、茲に初秋の好季に當り、近作品を以て発表、個人展覧会を開催いたしました。幸にご来観を賜はり、倍旧のご指導をご鞭撻を垂れさせ玉はんこと、謹みて御願い申し上げます    敬白
大森桃太郎
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青樹社画廊は、鈴木里一郎(のちに衆議院議員、プリンス自動車の社長)がオーナーで、当時、大森明恍の師である、岡田三郎助の絵なども扱っていたようです。この画廊は戦後には、無くなってしまったようです。
この年、昭和16年(1941年)には真珠湾攻撃があり(12月)、太平洋戦争が始まった年でもあります。この個展の案内状の文面の端々からも、緊迫した世相が感じられます。逆に言えば、このような世相であったから、画廊としても富士山画の個展であれば、比較的無難だったのかもしれません。なお、この年の1月、美術雑誌『みづゑ』には、「国防国家と美術 ―画家は何をなすべきか―」という名の座談会が掲載されました。軍部からは、当時の絵がフランス絵画の影響が強すぎるとの批判があったようです。

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大森桃太郎 近作個展 出品目録
1 富士残光 (油) 八号
2 富嶽 (同) 四号
3 富嶽 (同) 四号
4 芙蓉白雪 (同) 十号
5 雲表絶嶺 (同) 四号
6 函湖雨後 水墨淡彩 玉版小紙
7 夏の富士 水墨 月明紙
8 初夏の富士 (油) 十号
9 淡光 (油) 四号
10 三島の夕富士 (油) サムホール
11 山湖雨霽 水墨 月明紙
12 湖上の朝富士 (油) 六号
13 晩春の富士 (油) サムホール
14 初島の富士 (油) サムホール
15 湖水 (油) 八号
16 中秋の富士 (油) 十号
17 蘆ノ湖畔 (油) 八号
18 不盡夏光 (油) 八号
19 幼児 (油) 三号
20 湖上暁明 (同) 三号
21 富嶽 水墨 月明紙
22 湖上の富士 (油) 四号
23 湖畔の家より (油) 四号
24 笠雲の富士 水墨淡彩 月明紙
25 山湖 (油) 十二号
26 大涌谷の富士 ペン画淡墨 木炭紙二切
27 湖畔夏景 ペン画淡彩 木炭紙四切
28 夏山不二 水墨 画仙紙
29 湖上の富士 水墨 月明紙
30 身延山上の富士 (油) サムホール
31 湖影仰嶽 (油) 二十五号
32 森林高地 セピヤペン画 四つ切
33 湖上舟中よりの富士 (油) 四号
34 湖畔 (油) 十号
35 富士 (油) サムホール
36 厳冬暁の富士 (油) 十五号
37 晴れゆく湖上 ペン画淡彩 木炭紙二切
38 身延七面山頂よりの富士 (油) 四号
期日 昭和十六年
自 九月九日
至 九月十三日
会場 東京銀座四丁目 於青樹社画廊
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作品目録を活字にして印刷した、ということは、画廊としても相当の来客を見込んでいた、と想像されます。この作品目録から、作品数は38点。タイトルから想像する限り、作品の大半(少なくとも24枚)が富士山を描いたもののようです。また、油絵以外に水墨画やペン画なども出品したようです。一番大きい絵でも25号(80.3 x 65.2 cm)、4号(33.3 x 24.2 cm)やサムホール(22.7 x 15.8 cm)ぐらいのサイズが多かったようです。

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(「不盡香」より)
大森桃太郎 近作個展
東京銀座四丁目 青樹社画廊 展示室内
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(「不盡香」より)
開期中毎日会場に来たり 熱心に声援惜しまない尾崎行輝氏(往年の名飛行家)
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(注)尾崎行輝 (1888年1月14日 – 1964年6月3日): 尾崎行雄の四男。参議院議員、飛行機研究家、パイロット。
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個展の会場では、著名人とも話をする機会があったようです。とはいえ、画壇の方ではなく、飛行機のパイロット、というところが、大森明恍らしいのかもしれません。もしかすると、飛行機から見た富士山の話をしていたのかもしれません。

短いとはいえ、新聞の文化欄にも個展の開催が紹介されたようです。

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(「不盡香」より、新聞の切り抜き)
昭和十六年九月十二日
東京日日新聞
文化
学芸消息
▽大森桃太郎氏 近作個展
十三日まで、銀座青樹社画廊
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富士山画の個展(戦前-2)

大森桃太郎新作富嶽展

昭和16年9月の個展に続いて、昭和17年(1942年)4月にも、同じ青樹社画廊にて、富士山画の個展を開催しました。わずか、7ケ月後です。この間に日米開戦(1941年12月真珠湾攻撃)をはさんでいます。
この二回の個展の間に、富士山を精力的に描いた様子を示す写真が残っていました。白糸の滝の近くの崖の上に櫓を立てて、その上から見える富士山を描いているようです。(遠方に富士山のシルエットが見えています)

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(「不盡香」より)
岳西、富士郡上井手村白糸滝
崖上に建てたる櫓の上から富士を畫く
昭和十六年十月より始む

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(「不盡香」より)
第四回 富士山個展
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御招待
拝啓
春陽の好期 愈々御清安奉慶賀候 就者左記の如く此度新作画を陳列仕り 御清観を願上度候間御多忙の折柄恐縮乍ら何卒御家族御同伴御抂賀之栄を賜度く 謹而御案内申上候 敬白
昭和十七年四月八日吉祥
大森桃太郎拝
富嶽展
時 四月九日(木曜)より十三日(月曜)迄五日間
所 東京・銀座尾張町青樹社画廊

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「不盡香」より
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大森桃太郎 新作
富嶽展出品目録

時 昭和十七年 自四月自九日
至十三日 五日間
所 東京銀座青樹社画廊
油彩
1 富嶽暁色 十号
2 海辺の富士 四号
3 夕陽の富士 四号
4 箱根富士 四号
5 元旦仰嶽 六号
6 乙女峠春の富士 十五号
7 湖上の富士 八号
8 富士残光 三号
9 箱根山上夕富士 四号
10 不盡 一号
11 岳麓雪景 六号
12 由比海辺 六号
13 湖畔暁の富士 八号
14 草薙の富士 二号
15 朝焼けの富士 二十号
16 不盡 一号
17 箱根夕映えの富士 三号
18 斜陽仰嶽 十号
19 湖上白峰 三号
20 岳麓雪景 八号
21 山下海岸の朝富士 四号
水墨
1 雲表、絶嶺 (月明紙)
2 上井出の富士 (月明紙)
3 初秋富嶽 (月明紙)
4 箱根富士 (月明紙)
5 箱根富士 (月明紙)
6 新雪 (月明紙)
7 御殿場富士 (月明紙)
8 富嶽 (月明紙)
9 岳麓苔雲荘 (月明紙)
10 富嶽 (月明紙)
11 富嶽 (月明紙)
12 富嶽 (月明紙)
以上


青樹社では、毎月の展覧会の案内のために小冊子を印刷していたようです。その中の12ページ目に大森明恍の個展についての紹介がありました。

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ここで使われた元の写真が、「不盡香」(スクラップブック)にも残されていました。こちらのほうが少し鮮明です。自宅の近くに建てたアトリエの中から窓越しに、富士山を描いています。右側には富士山が描かれたキャンバスも見えています。

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(「不盡香」より)
富士山麓の画室
昭和十五年二月

展覧会中に画廊で撮影したと思われる写真も残っていました。額に入った油絵と、表装された水墨画が並んで展示されています。

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椅子に座っている帽子を被っているのが大森桃太郎本人と思われます。また、和服姿のご婦人はおそらく日出子夫人、学生服を着て学帽をかぶっているのは長男の如一さんと思われます。

神霊富士近画発表会

昭和18年(1943年)9月15日から5日間、同じく青樹社画廊において、富士山画の個展を開催しました。戦争の真っただ中での個展開催です。案内状には、それまで住んでいた諸久保から、御殿場駅の近く(四反田)に引っ越しをしたことも記されていました。

一方、個展開催と同じ月の昭和18年9月、 上野動物園では、空襲の際に逃亡して危害がおよぶ事を予防するため、象を含む25頭の猛獣と毒蛇の餌に毒を混入して殺害してしまったとのことです。

神霊富士近画発表会、昭和18年9月、青樹社画廊
ご招待ご通知
初秋の好時節となりました、
皆様いよいよご壮健にて大戦争のただなかにますますご奉公ご奮励の御ことと心の奥より感謝申し上げます、下而私もかかる大決戦のつづけられます中に、日頃の画業に専念させていただき分けて昨秋より過去十年来一人ひそかに研究を続けて参りました、天然岩絵の具をもって油彩画を作り、何ほどかの新生命打開にその描法にいささか苦心してみましたが、この度やっと最近半年の研究道程を発表して、大方皆様のお心よりのご照覧を仰ぐことにいたし、左の日時例年のごとく個展を開催仕ります、何卒ご来観のほどお待ち申します、
大森桃太郎作
神霊富士近画発表会
会場 東京銀座尾張町 於 青樹社画廊
期日 昭和十八年九月十五日ヨリ十九日マデ五日間
右謹んでご案内申し上げます、

さて、私一家ご承知のごとく富士山麓に住居して早や十ケ年を経過いたしましたが、これから一層目的の霊峰画筆奉仕に必生の努力を続けて行く決心であります、
この度十年間苦闘の岳麓富士岡村諸久保の画室を引き上げて制作上にも適地でありまた成長しゆく大勢の子供たちの教育上にもさらに便宜でもある御殿場駅より数丁の静閑なる土地に九月早々移転仕りました、これからはいよいよ倍旧の真剣さをもって、神意のままに宿願の画業に没頭し一生をこれに捧げつくす所信でございます、
昭和十八年八月吉祥
大森桃太郎
家族一同拝

かかるご時世のことゆえ、展覧会を開きますにも世上一般の事柄と同様、準備資材その他少なからぬ用意不ぞろいを覚悟の上で開催することに決意いたしましたから、会場内の陳列にも例年と異なりすべて室本位のご奉公を旨とし開会いたしました、以上

富士山画の個展(戦後-1)

昭和24年(1949年)には、不思議な富士山画の展覧会が三回開催されました。

これに先立って、同じ年の2月にはこれら一連の不思議な展覧会の伏線のような、少しだけ不思議な個展が、資生堂ギャラリーにおいて開かれていたようです。

大森明恍は、当時、「直心」という同人紙のようなものを発行していましたが、本人が残していた切り抜きには、次のような記載がありました。
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●報導
(新春心の友会計画予告)
一、直心画会開催
会期 昭和二十四年二月一日より二月五日まで
会場 東京銀座七丁目
資生堂美術部画廊にて
主催 大森明恍
〇展覧会開催の会場期日が決定しました。追て其折皆様へご招待案内状を差上げますが。一先ず予告致します。この度の出品画は大体油絵、水彩素描の七、八点の近作です
〇黎明の富士 油絵二十五号
(御殿場の画室にて冬の朝えがく)
一九四七年春より一九四八年春への製作
△先輩佐藤久二大兄(我国額縁界の権威者)の力作に係る額ぶちに入り、真情こもつたデザインに引立てられて、発表出来ることと感謝に堪えません。
その他今夏伊豆西海岸舟山村での楽しい写生画
〇舟山の海 油絵十二号
〇南の窓 同八号
〇九十一翁の肖像 素描
その他小品数点の出品です
この度は水墨画は割愛して発表を見合わせました。ご存じのごとく個展は戦争前より十年来殆ど毎年一回は東京で開催の記録を持つております。従つて其の間に資生堂ギャラリーで催したことも此の度が四度目ではないかと思います。
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これを裏付けるように、「資生堂ギャラリー75年史」の292ページにも、次のような簡単な記載がありました。
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4902A 1949.2.1-2.5
不詳
【典拠】契約書(契約者は大森明恍*)
*大森については大森桃太郎を参照(3802A)。
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両者とも日付がぴったり一致しているので、開催されたことに間違いはないはずなのですが、資生堂ギャラリーには、何故だか展覧会に関する詳しい記録が一切残っていなかったようです。

「75年史」は、資生堂企業文化部により1995年に発行されました。編集にあたっては、当時の新聞や美術雑誌に掲載されていた開催案内などをくまなく調べたらしく、掲載記事が見つかったものについては、必ず「典拠」としてあげられています。大森明恍は戦前にも資生堂ギャラリーで二回、富士山画の個展を開催しましたが、そちらの記録については、新聞や美術雑誌掲載の記事が「典拠」として、あげられていました。昭和24年に開催された展覧会に限って、契約書しか記録が残っておらず、新聞や雑誌に案内記事が一切出なかったようです。資生堂の企業イメージを上げることが資生堂ギャラリーの存在意義ならば、どんな展覧会であっても、新聞や雑誌に開催案内をニュース・リリースするのが当然のような気がします。まして、大森明恍の富士山画の場合、すでにGHQの民間情報教育局(CIE)からのお墨付きをいただいているようなものだったので、検閲によって削除される心配は皆無だったはずです。

「75年史」の同じページには、同じく「不詳」とされた展覧会が、同じ年の4月1日から5日まで開催されていたようです。こちらの契約者は「日本美術国際鑑賞会」とあります。推測するに、当時日本に滞在していた外国人向けに、日本美術の作品を資生堂ギャラリーを借りて展示したということのようです。外国人向けなので、日本人にはできるだけ来てもらいたくはない。それで日本の新聞や雑誌には一切、案内を出さないよう、主催者側から依頼されていた、ということかもしれません。

大森明恍自身の記事にも、不思議なところがあります。なぜ展覧会の名前を「大森明恍、富士山画個展」ではなく「直心画会」などとしたのでしょうか? 「直心」などという同人紙は、東京では全く知名度はなかったはずですし、実質、大森明恍の絵しか展示しないのですから、「大森明恍、富士山画個展」とすればよいような気がします。これは、考えすぎかもしれませんが、たまたま展覧会場の前を通りかかった日本人が「富士山画個展」が開催されていることを知れば、興味をひかれてふらりと個展会場に立ち寄るかもしれません。「直心画会」であれば、通りがかりの人は、まずは、入ってこないだろう、ということが狙いだったのかもしれません。

これは推測ですが、当時、日本に滞在していた外国人、特にアメリカ人の間では、日本の美術品に対する関心が高くなっていたのかもしれません。伝統の古美術品はもちろんのこととしても、富士山だけを描いていた大森明恍も、興味の対象としてアメリカ人の間で話題になっていたのかもしれません。そこで、主に日本に滞在中のアメリカ人を対象とした富士山画の個展を、戦後再開したばかりの資生堂ギャラリーを借りて開催した、ということかもしれません。日本の新聞や雑誌には開催案内がでなかった代わりに、当時日本に滞在していた米国人向けの新聞・雑誌には何らかの形で案内が出ていたのかもしれません。

前年の昭和23年(1948年)、戦後間もなくの東京の街の様子がわかる写真が残っていました。

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「不盡香」より
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昭和二十三年六月八日朝
銀座新橋マエにて
如一を連れて
父 四十八才 如一 十九才
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右が大森明恍本人、左は長男の如一さんです。通りには和服を着た人の後ろ姿も見えます。如一さんは、当時19才、すでに御殿場を離れ東京に出てきていたそうです。大森明恍が颯爽とした正装姿なので、この時期、昭和23年(1948年)6月にも、新橋の界隈で個展を開催していた可能性もあります。如一さんからお聞きした話では、東京で個展を開催するときには、絵の運搬などを手伝ったことがあったそうです。