大森明恍と小川清澄

大森明恍と小川清澄

大森明恍自身のアルバムに小川清澄氏と二人で、親しげに写っている写真が残されていました。大森明恍本人の書き込みによれば、昭和27年(1952年)に、東京の上北沢で撮影されたもののようです。

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大森明恍のアルバムより
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1952(昭和27年)→6月8日
小川清澄氏と撮す
上北沢にて
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小川氏今は昇天してその俤を
茲にとどむ…..記念の撮影となった。
上北澤赤須君宅の玄関にて
赤須道美氏写す
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小川清澄氏は、日本キリスト教団、松沢教会の牧師さんだったようです。また、松沢教会は、現在も京王線、上北沢駅の近くにあるそうです。したがってこの写真は、昭和27年、大森明恍が御殿場から上京し、松沢教会がある上北沢に小川清澄氏を訪問し、その際に撮影された、ということのようです。そして、その後まもなく、小川氏は亡くなられたようです。

この教会は、もともと大正12年(1923年)の関東大震災の際、被災者の救援のために神戸から賀川豊彦が上京し、松沢(現在の上北沢)で伝道を開始したのが始まりなのだそうです。また、昭和15年(1940年)8月25日には、賀川豊彦と小川清澄は、この教会での礼拝をしていたときに、憲兵隊に連行される、という事件があったそうです。賀川は憲兵隊に厳しく取り調べを受けたそうですが、その後、その話を聞いた当時の外務大臣、松岡洋右が「賀川さんをすぐに出せ。それができないなら、自分が代わりに刑務所に入る」と言ったため、二人は間もなく釈放されたのだそうです。

なお、これは余談ですが、この写真が撮影された昭和27年当時、大森明恍は御殿場市の東山に住んでいました。そのすぐ近くには松岡洋右の元別荘がありました。ただし、松岡洋右ご本人は昭和21年(1946年)、すでに他界され、当時は御子息の松岡志郎さんが住んでおられたようです。現在は、松岡別荘陶磁器館になっています。


それにしても、どうして大森明恍は、そのような牧師さんと親しくなれたのでしょうか?

この写真が撮影された約3年ほど前、大森明恍は御殿場で、「直心」という同人紙を発行していました。昭和24年1月発行の「直心」第5号には、次のような記事がありました。

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大森明恍のスクラップブック「不盡香」より
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●報導
(新春心の友会計画予告)
一、直心画会開催
会期 昭和二十四年二月一日より二月五日まで
会場 東京銀座七丁目
資生堂美術部画廊にて
主催 大森明恍
〇展覧会開催の会場期日が決定しました。追て其折皆様へご招待案内状を差上げますが。一先ず予告致します。この度の出品画は大体油絵、水彩素描の七、八点の近作です
〇黎明の富士 油絵二十五号
(御殿場の画室にて冬の朝えがく)
一九四七年春より一九四八年春への製作
△先輩佐藤久二大兄(我国額縁界の権威者)の力作に係る額ぶちに入り、真情こもつたデザインに引立てられて、発表出来ることと感謝に堪えません。
その他今夏伊豆西海岸舟山村での楽しい写生画
〇舟山の海 油絵十二号
〇南の窓 同八号
〇九十一翁の肖像 素描
その他小品数点の出品です
この度は水墨画は割愛して発表を見合わせました。ご存じのごとく個展は戦争前より十年来殆ど毎年一回は東京で開催の記録を持つております。従つて其の間に資生堂ギャラリーで催したことも此の度が四度目ではないかと思います。
一昨年度東京三越本店(日本橋)で、水墨画と、油絵併せて五十点を以て個展を開催し、当時、GHQの教育情報部長イーボデン少佐その他のご指導を頂きましたが(東京朝日新聞社のコンネクションで)特に民間情報部長ロバート中佐は御多忙の中を態々三越展覧会場に秘書役を連れて観覧され、長時間に渉って熱心に観照され、望外の賞賛を受けました。そして、ミスター大森の富士の画を将来アメリカに持つて行つて、ニューヨークやワシントンで展覧会を開きたいものだと、懇切に申されました。(当時新聞にこのことが出ました)ほんとうに有難く、何んとも云えぬ元気が湧出ました私共日本人の芸術が遠く海外に進出のお許しが下ることもいづれは実現されるであろうことを、胸中にえがき、一層精進せねばならんと熟熟思います。
その時の立合者は碧川道夫氏小川清澄氏(賀川豊彦先生の前秘書で幸に通訳の労をとつて下さいました)及びフレーム、デザイナーの佐藤久二兄でありました。
この度の開会中是非とも会員諸兄姉のご来場鑑賞をお待ちして居ります。
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(注1) 佐藤久二: 額縁のデザイナーで、大正2年(1913年)日本最初の画廊(日比谷美術館)を開いた先駆者でもあるそうです。
(注2) 碧川道夫(みどりかわ みちお、明治36年(1903年)2月25日 – 平成10年(1998年)3月13日): 映画カメラマン。日本の映画色彩技術の草分け的存在。多くの名作映画の撮影を担当し、『地獄門』で1954年度文部省芸術祭文部大臣賞。(ウィキペディアより引用)
(注3) 賀川豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年(明治21年)7月10日 – 1960年(昭和35年)4月23日): 大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。茅ヶ崎の平和学園の創始者である。(ウィキペディアより引用)
(注4) イーボデン少佐: GHQ民間情報教育局新聞課長、インボーデン少佐と同一人物かもしれません。インボーデン少佐は、戦後直後、新聞・雑誌などの情報統制を担う一方、「二宮尊徳が日本最大の民主主義者」とする文章を書いていたようです。
(注5) ロバート中佐、GHQ民間情報教育局言語課長で、ローマ字化を計画したとされる、ロバート・キング・ホール少佐と同一人物かもしれません。ロバート少佐は、日本語のローマ字化を立案していたそうです。
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この記事から、昭和24年(1949年)2月1日から5日まで、銀座の資生堂ギャラリーにおいて個展を開いたことがわかりますが、それ以外にも、この原稿を書いた二年前の昭和21年(1946)には、戦後まもなくにもかかわらず、すでに、日本橋の三越本店で個展を開いていたことがわかります。しかも、そのときに、アメリカの占領軍の文化政策を担当していたと思われる少佐や中佐が、わざわざ大森明恍の展覧会を見に来て、富士山の絵を激賞したこと、その時に小川清澄氏が通訳してくださったこと、などが記されています。

通訳をつとめるほどですから、小川清澄氏は、よほど英語を流ちょうに話すことができたものと推測されます。昭和6年(1931年)に賀川豊彦とともに、アメリカを訪問したという記録もあるようです。また、小川清澄氏と立ち会ってくださった額縁デザイナーの佐藤久二氏という方も、渡米の経験があり英語が話せるようです。GHQは、英語を話すことのできる渡米経験者を通訳として雇っていたのかも知れません。

それにしても、戦後まもなく、大森明恍が日本橋三越で富士山画の個展を開いたときに、アメリカ軍の占領政策の中枢を担っていた将校たちが、わざわざ通訳二人(しかも、宗教関係者と芸術関係者)を連れて、大森明恍の絵を見に来たというのは、何が目的だったのでしょうか? 当時の状況から推測すると、単なる絵画鑑賞だったとは考えにくい。むしろ、ある種の調査、さらに言えば、ある種の検閲が目的だったのかもしれません。当時のGHQの関心事は、日本が二度と軍国主義に戻らないようにすることだったするならば、例えば、「富士山絵画と軍国主義の関係を明らかにする」ことが目的だった可能性も考えられます。結果によっては、個展の即時中止命令が出されて、大森明恍の画家生命が絶たれてしまった可能性もあったのかもしれません。(例えば、藤田嗣治が戦争中に戦争画を描いていたことが原因で、戦後日本にいたたまれなくなって、フランスに戻ったのは、同じ時期、昭和24年(1949年)3月のことだったそうです)

そのときに、たまたま通訳をしていただいたのが小川清澄氏でした。氏には戦前からのいろいろな苦い経験もおありだったでしょうから、通訳というよりも弁護人として、積極的に大森明恍をかばってくださった可能性も考えられます。その結果、大森明恍と富士山画は無罪放免、逆にむしろアメリカ軍の将校達は、大森明恍を大いに励まして帰っていったようです。大森明恍にとっては、小川清澄氏は恩人となり、後々まで、その時の感謝の気持ちを忘れなかった、ということかもしれません。

この時の出来事は、さらに、当時GHQに接収されていた箱根の富士屋ホテルで富士山の個展を開くことにもつながっているようです。


賀川豊彦という人物が、たびたび登場してきました。賀川豊彦は、戦後の一時期、東久邇内閣の参与となり、また、GHQとも関係も深く、その後ノーベル平和賞の候補にもなられたそうです。ところがその一方、戦前、賀川豊彦は、御殿場にも足跡を残していたようです。御殿場市教育委員会が平成22年(2010年)に発行した「御殿場の人物事典」によれば、賀川豊彦は昭和5年(1930年)御殿場の青年たちの依頼を受けて、勉強会を開いたり、農民福音学校高根学園という学校の建設を提案・支援したりしたそうです。このいきさつは、「みくりやと賀川豊彦」というサイトに、より詳細に記されています(「みくりや」は御殿場の古い地名です)。

大森明恍が賀川豊彦と直接面識があったかどうかは、わかっていませんが、当時、御殿場に住んでいた大森明恍が、困窮する御殿場の農民を支援し続けた賀川豊彦に対して、親しみの気持ちと、多大なる尊敬の念とを抱いていたとしても不思議ではないように思われます。それは「直心」において、賀川豊彦に対してだけ「先生」と記していることからも、うかがえるように思われます。

大森明恍と磯谷商店

昭和8年(1933年)、家族とともに御殿場に移住したのち、大森明恍(本名: 桃太郎、画号: 海門)は、野中至阿部正直渡辺徳逸梶房吉、などなど、富士山に関わる多彩な人脈を広げていったようです。しかしながら、これらの人々との交流を、どんなに延長していっても、昭和13年(1938年)に開催された銀座での第一回富士山画の個展にはつながらないようにも見えます。

昭和9年(1934年)11月、大森明恍が名強力・梶房吉と冬の富士山五合目の避難小屋に滞在したのち、無事に下山したことが、新聞記事として掲載されました。偶然ですが、その記事の隣には、静岡美術協会役員の常任理事として長尾一平さんが選ばれたとの記事もあり、切り抜きにはその部分に赤線が引かれていました。長尾一平さんは、額縁製造・販売を手掛けられていた、磯谷商店の二代目の方のようです。

長尾翁に藍綬褒章

翌年、昭和10年(1935年)4月には、長尾建吉(嶽陽)翁に藍綬褒章授与を申請するために、洋画壇のお歴々が奔走した、との記事の切り抜きも、赤い線で囲まれて残されていました。長尾建吉さんは明治時代の初期、万博に出展するためにフランスに渡った経験があり、のちに国内で初めて額縁製造のための磯谷商店を始められた方です。赤い枠線は大森明恍自身が引いたものです。この記事には、大森明恍の恩師である岡田三郎助の名前が出てきますが、大森明恍本人の名前はでてきません。それではなぜ、この記事を切り抜いて、大切に保管していたのでしょうか?

東京朝日新聞 昭和十年四月三日
洋画のお爺さん
長尾翁に藍綬褒章
画壇のお歴々が奔走

和田英作、和田三造、岡田三郎助氏等を始め現在の洋画壇のお歴々多勢を世話した洋画壇のお爺さんで通る静岡市川辺町長尾健吉翁(六七)の恩に報いるため地元の人々が叙勲の運動を起こしたことは既報したがその後和田英作氏等が奔走、静岡市商工奨励館藤村館長、静岡女子師範学校三澤教諭等と協議の結果我国額縁製作界の草分けとして洋画壇に貢献したる産業功労者として藍綬褒章授与を申請することとなりこれが基礎調査のため同館長から全国百余の主要都市へ目下調査方を依頼中で調査を進めて居るが、近く資料を取り纏めの上和田英作氏の手を経て申請することとなり、死を前に洋画壇の恩人も多年の功労が酬いられることとなった

この記事によりますと、長尾翁はこのとき67才、死を前にしている、とのことなので、 すでに不治の病に侵されていたのかもしれません。

「大森桃太郎君と語る」

ところで、ある朝、この記事を読んだ大森明恍は、突然はたと思いつき、御殿場からてくてく歩いて、 静岡市の長尾翁を見舞ったらしいのです。「ある朝、急に…」とのことなので、事前の約束などしないまま、突然訪問したようです。その時の様子が、「駿遠豆」という月刊誌の記事として残されていました。

静岡県人社月刊「駿遠豆」 昭和13年6月号掲載
富士山研究画家 大森桃太郎君と語る

清水柳太

渾身、熱と意気を以て包んだ、大森君、円な眼底から放つ光は、人を魅し、その口唇から洩れる微笑は、童心の笑だ。人生の苦難何処にかあるか、考えすぎてはいけない。万事は意気を以て処断いたしましょうと、福岡イズムを有つ大森桃太郎氏(福岡県)は昭和八年の秋、富士山麓、御殿場在、諸久保村に、帝都から居移し、霊峰富士写生に没頭した。
あらゆる角度から眺た、富士と、富士特有の雲の去来を研究し、夏期は山頂にこもり測候所に起居して、霊峰富士の感情に接し、雪を冒して寒風と戦い、極寒四ケ年間の富士山霊の収穫(油絵、素描等)百点を携えて、東京において、富士山の個展を開催した。
× × ×
富士山を画きて
かかる御時世に遭遇いたしまして、私は自分の常日頃研究しております「富士山」の作画を、世の多くの人々に観ていただくことは、あながち無意義なことではないと考えます。
我国民性発達の上に、永くかつ深く植え付けられて来ました愛国純情の精神に、どうしても「富士山」を離して考えることは出来ません。むしろ金甌無欠の日本国体に、一入光彩を放つ尊い役割を持っていることは勿論であります。仰げは高き富士ケ峰の、有史を超越した崇高、秀麗しかも神ながらの霊姿こそは、大八州の我同胞のひとしく全世界に誇りうる天与の恩恵として。(略)
私の富士を画かんとする志は余程若い時からの宿願でありました。生涯を通じ必ず真実感のある(精神的)富士の作画を目的として、岳麓御殿場在の一寒村に居を卜しまして、四季を通じ、かつ夕霊峰の不可思議なる魅力に魂魄を惹かれつつ、懸命に感激を続け、画業につとむること早満四ケ年を過ぎました。
書聖雪舟、奇才北斎の富士の名画は世人の良知するところでありますが、現代富士を画きて、真に堂々一家をなせる画人のあるを未だ見出さないのであります。故に私の富士に対する希望、抱負は正しくこれからであります。
× × ×
過去四ケ年間の、山麓生活は、物質的の苦闘生活だったそうだ、山から木材を筏って来て、アトリエの建築にかかった、大工の真似もした、左官の手伝もした。ともかくアトリエは出来あかった、友来りならば一夜の宿に足る得るねぐらは設けられたのだ。畑を耕し、自給、自足の日常生活、そして、油絵の具まで、手製の絵の具で富士の容を揮毫する。
× × ×
その大森君が、四月二十九日の天長の佳節に、筆者の青山草居を訪れてくれた。その数日前、芝の磯ケ谷額縁店において相語り、意気の当意をみた。筆者より、機を計って岳麓御殿場に訪れる可く相約したるのに、同君の来訪は、洵に恐縮に堪えなかった。
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大森君の断片的逸話を挙げてみる。
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吾が国洋画界の大恩人、洋画壇知名の多数の士を養成し、老後を静岡に静居する磯ヶ谷岳陽翁を、大森君は訪ねた。或る朝、急に、岳陽翁を訪ねてみたくなったからのことで、翁を見舞ったにすぎなかったと、無雑作に同君は言ったそうだが。その訪れかたが、ふるっている。
ふるっている、汽車で行けば何の苦もなく静岡駅に行けるのを、同君は、意外にも御殿場から徒歩で、西に向かって旧東海道をてくった、一寸、これは、人真似の出来難い純情の発露だ。この純情の境地は、画人ならでは味うことの出来難い境地であろう。かつて、磯ヶ谷第二世の長尾一平氏から聴いた、記憶を、今、記すのだ、その当時、自分は大に感激したのだ。
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霊峰富士に漂う四時の千態、万状の雲の去来を描くのについて、阿部雲気流研究所(御殿場在)主理学士、伯爵阿部正直氏に化学者の立場からの雲の説明と気流の関係を説明されて富士の惑情描写に大に得る所があり、頂上の測候についても多くの便宜を与えくれた阿部所主の徳を同君は感激していた。……希に見る、華冑界の新人で篤学の士である、富士雲態の千変万化するところを写真に蔵め、その数、千種以上に達し、世界的の雲の研究記録を現し、学界人に益するところが多大であったとのこと。今夏六月頃を期して富士総合理学研究の気象学、動植物その他の研究材料文献一切を展観富士アルピニストに公開の美挙を決行する予定で目下準備中だとのこと。
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因に理学博士藤原咲平の雲に関する文献材料は同所主の寄与するところが多かったそうだ。
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近代科学の一端を理解する若いアルピニストの連中に富士登山の時代思想化して来たことがハッキリして来たそうだ。若いアルピニストたちが登山する山は、例の日本アルプス方面か黒檜渓谷に限られ、また、アルピニストの本領であるかのごとき登山心理があったのが、近来は違って来たとのことを、権威ある先輩登山家間に話題の種となっているそうだ。富士登山は、月並的なものだと即断していた、修験者或は道者の一部の人と迷信家のグループだけが登る、所謂、伝統的江戸月並的の登山心理と曲解していたのが、最近では富士アルピニストにあらざれば、語るに足らずとのこと……。
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とにかく、近代、富士の文献に異常なる努力を払っている人は、小島烏水氏が第一人者であろう、洋画家中村清太郎氏、また、登山画家として令名あり、理学博士武田久吉氏も富士研究者であり、理学博士牧野富太郎氏富士高山植物のの権威者であることは世間周知のことである。
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政客 松本君平氏は目下、精神修養道場に、愛鷹山麓須山村を中心として青年農場建設に奔走中とのことだ。

「駿遠豆」の記事には、昭和13年2月に資生堂ギャラリーで開催された、「第一回富士山画展覧会」の招待状の文章大部分がそのまま引用されています。

資生堂ギャラリーでの第一回個展については、どのような経緯で開催できるようになったか、本人は何も書き残しておらず、詳細は不明です。 ここからは推測になってしまいますが、 長尾嶽陽翁を見舞ったのち、磯谷商店二代目の長尾一平さん、もしくは佐藤久二さんとの知己を得て、資生堂ギャラリーあてに紹介状、もしくは推薦状のようなものを書いていただき、そのおかげで、初の個展開催が実現した可能性も考えられます。

大森明恍と佐藤久二_1

白いスーツ姿の佐藤久二さん

昭和14年(1939年)7月26日から30日まで、東京銀座資生堂ギャラリーで開催された、 第二回富士山画展の会場で、大森明恍と佐藤久二さんが並んで立っている写真が残っていました。大森明恍は黒いスーツ、佐藤久二さんは白いスーツを着ています。

第二回 富士山画展会場内
向って右の白服はフレームデザイナーとして権威ある、磯谷額縁店の佐藤久二氏。
佐藤氏は小生のの最も敬信する霊友にして、尊崇篤き先輩なり。展覧会はもちろん総て人生芸術上の唯一無二のオヴザーバーである

戦前、銀座で個展を開催するようになった時点で、すでに大森明恍と、磯谷商店の額縁デザイナー佐藤久二さんとは交流があったことがわかります。大森明恍が資生堂ギャラリーで個展を開催するにあたって、何らかの形で佐藤久二さんに助けていただいたのかもしれません。

直き心

戦後まもなくの頃、大森明恍は「直心 Naoki Kokoro」という地域の同人紙のようなものを発行していたようです。「不盡香」と名付けられたスクラップブックには、昭和24年1月に発行された、「直心」第5号の一部の切り抜きが残っていました。

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直心
NAoKi KokoRo
昭和二十四年一月
第五号
一面
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拝春
なほき心の 友どちと
互に手をとり 心を捧げ
天地宇宙の 御前に
祖国の乱脈 衰頽を
肺腑の底から祈りたい

 

かくありてかくなることも
御神意なりと 甘受して
感謝報恩 一念に
ただただ 御心のままに
救はせ給へと 合掌せん

明恍
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直心画会開催
開期 昭和二十四年 二月一日より二月五日まで
会場 東京銀座七丁目
資生堂美術部ギャラリー
主催 大森明恍
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◎御案内
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展覧会出品画 目録
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一面の中央には、資生堂ギャラリーで2月1日から2月5日まで開催された展覧会「直心画会」の案内が掲載されています。1995年に発行された「資生堂ギャラリー75年史」では、「不詳」となっている展覧会です。

「資生堂ギャラリー75年史」の発刊にあたっては、当時の新聞や美術雑誌をくまなく調べたようです。そして、広告がのっていた場合には「典拠」として示しています。「不詳」と書いてあるということは、当時の主要な新聞や美術雑誌には、一切広告が出なかったことを示しています。

「直心画会」の作品目録を見ると、出展されたのは大森明恍の絵ばかりのようです。「直心画会」とはありますが、実質的には「大森明恍、富士山画個展」だったようです。

作品目録の下には、佐藤久二さんが「直心と額縁精神」と題して、文章を寄せています。佐藤久二さんは、日本を代表する額縁デザイナーだったようです。また、佐藤久二さんは、大正2年(1913年)に日本最初の画廊「日比谷美術館」を開いた、日本における画廊経営の先駆者でもあったそうです。日比谷美術館では東郷青児の個展などが開かれていたようです。ちなみに、資生堂ギャラリーは、現存する日本最古の画廊だそうですが、それでもオープンは大正8年(1919年)とのこと。それ以前にすでに画廊を開いていたことになります。

さらに変わったところでは、大正1年か2年に、松方コレクションが日本に到着した直後、秘密裏に松方邸に呼び出されて、絵画作品の整理や補修を頼まれたこともあったそうです。このような経歴から、あるいは職業柄、佐藤久二さんは、当時の美術界の動向に大変詳しい方だったのでないかと推測されます。

ちなみに、戦後まもなく大森明恍が日本橋の三越で富士山画の個展を開いたとき、GHQの民間情報教育局(CIE)による査察がありました。その時に通訳をして下さった方々のうち、お一人が佐藤久二さんでした。佐藤久二さんは、戦前、米国に滞在した経験があり、英語に堪能だったために、GHQから通訳を頼まれたのかもしれません。そのときの御縁で、その後も大森明恍との交流が続き、「直心」に掲載する原稿の執筆を打診されたのかもしれませんが、なぜ、このようなローカルな出版物にわざわざ原稿を書くことを引き受けたのか、少々不思議な感じも受けます。

また、「直心画会」での展覧会出品画目録には、「黎明 油絵25号」という作品があります。この作品のために、佐藤久二さんは特別に額縁を作ってくださったようです。しかしながら、なぜ、佐藤久二さんは、当時の新聞や美術雑誌に広告が出ないような展覧会のために、わざわざ額縁を作ってくださったのでしょうか? 佐藤さんが寄稿してくださった文章のなかに、何かヒントがあるのかもしれません。


◇直心と額縁精神(一)

フレーム デザイナー
東京 佐藤久二(62)

額縁というものは、絵画に対してあたかも人間に必要な着物の役目をするもので、いかに美人でも裸体では始末が悪く、また衣服を着ただけでは効果はない、やはりその人その人の顔形に似合うように工夫して始めて役に立つもので、額縁もその通り、各人の顔の異なるように各人の画風も異なり、その中でも春着冬着と違うように画面もまた違うので、それに似合うように工夫して作るのが第一条件、そこに額縁精神と言うようなものがある。

何物にも精神のないものはない。人間は自分で勝手に悪くも良くも精神を取り扱うことができるが、物体はさようにはいかない。自分自体ではいかんともすることはできないが、そのものの役目は立派に果たしている。中にはあまり役にたたないものもある。その違いは皆作者の精神の持ち方の現れである。悪い考えの人の作品は永遠に不良品として残り、始末が悪い。人間と違って自ら良くなるということはできない。その反対に「直心」の持ち主の作品は永遠に保ち、何百年の今日もなお人を喜ばせ、また役立ちて、その内容精神は生きている。人間は悪い精神の持ち主でも時には改めることもできるが、物体はそれ自体自発的には如何にすることもできない。ただ作者の意思を伝えるのみで青江下総は後世人をあやめ、同じ刀でも正宗は至尊の護刀となる。故にかかる悪品が世に充満すれば悪人よりも却って始末が悪く、かかる国は必ず滅亡するものと私は確信しておった。私は学者でも宗教家でも美術家でもない、ただの工人だが、仕事から物を見ると、およそその国の気持ちが解るような気がした。

かつて米国にいた時、税関に行って荷造りの見学に行った。そして完全なものを見たいと頼んだら、役人がABCと国別にしてある倉庫を順々と渡り、Jの部すなわちジャパン倉庫に案内、そこに大破せる荷造りを見て驚いたが、私は丈夫な荷造りを参考のために見たいというと、役人曰く「他のいずれの国のものも破れていない。ただ日本ばかりだから、こんなのをつくらなければ良いのだ」と言われて非常に恥かしかった。我国では感じられないような国辱を感じた。遠くまで来てはじめて解った。そして有難いものを見せてもらったと、かえって役人に感謝した。必ずこんな物を再び作らない日本にしたいと堅く決心をした。これも品物に対する精神の現れである。品物はモノを言わぬが日本人の信用は失墜する。米国はまたあまりに機械的である。人間がある以上これもどうかと思う。英国に行ってみると実に驚く。手袋でも靴でも機械等すべて手堅く国民の気風が頼もしく思われて美しかった。それに引きかえてパリでは見かけは良いがもちが悪く、見た目が良いだけ日本よりもまだましだと思った。その国全体が思いやられる様な気がした。

私は作品に現れた国体と言ったが、その後およそ作品の通り国情が変わったので密かに驚いた。そのうち一番ひどいのが我国であった。米国で見た荷造りの時すでにそう思った。幸い今後米国にあった日本荷造りのような事をしないよう、全ての作品に注意すること、今後「直心」をもって各人が仕事をすれば、文化国家の実をあげられると思う。顧みて悔いなきか?自分たちでも直心をもって仕事をしているつもりだ。一人ということは小さいようだが、考えようによっては全部のことだ。一人ぐらいと思うことは一番恐ろしいことである。

自分は自分の仕事を世界で一番良いものにしたいと精進している。出来る出来ないは私の知ったことではない。神様の知ったことで、私は自分で一番ベストを尽くせばよいのだと確信して仕事をしている。そこに安心と楽しみとなり、世間的には難事の仕事も面白く、かえって楽な仕事は面白くないような気がする。難事ということは、あんかんな空虚より考えようによってはやりがいがあるゆえ、したがって後味がある。大変だと嘆くのは直心のないから起こる横着な考えからくる産物だ。私は自分の仕事は何物よりも楽しみで仕方がない。その上仕上がると代価がもらえてあまりうますぎるような気がするときもある。

私の作った額縁が、昨年クリスマスに米国のニューヨーク市にあるリーダーズ・ダイジェスト社の社長に送られ、間に合わないで飛行機で送って今はそこの社長室に懸っているそうだが、それが目に見えるようで無限に楽しい。もし壊れると私の恥、いや復興後の日本の恥をかの国の知識階級の前にさらすことになるのだが、私はその前に商工業試験所で乾燥および熱度など米国と同じ状態で六十時間化学的に検査して送ったので安心している。かつての荷造りのようなことは絶対にしない。何か自分の責任の一部を果したような気がして愉快でならない。

美しいということは国境のないもので、私が滞米中一番頭に残ったものが二つある。一つは鶏で、一つは美術品である。当時は何十万の日本人があちらでもこちらでも排斥され、町を歩くにも小さくなって歩いていた。ある日動物園に行ったら大勢人が集まってワンダフル、ワンダフル(ステキ)と言っているものがあるので、私も行って見たら何とJAPANESE HEN(日本のにわとり)と書いた金網の中で高い木の枝の上にとまり、一丈あまりの長尾を下げた尾長鶏が悠然と構えている姿を見た時、涙の出るほど嬉しかった。

またボストン美術館で特別陳列の日本美術部の部屋を見た時ほど良いものを作らなければならないと思ったことはない。先輩の仕事の美しきた後来同国人の面目如何ばかりかと追憶の念限りなし。万事斯くのごとし。農作物でも直心の人の作ったウドは香り高く驚いたことがかてあったことを思い出して愉快だ。何にしても良いものを作って死にたいものだ。額縁が何で(直心と額縁精神)と言うかということは他の工芸品中最も直心の心がけがなければできないという事を次回に書きたいと思います。額縁といっても日本には国情の関係で二、三種しか無かったが、外国では古くから発達して何千種中には国宝級のものも多くあり、日本人の考えた額縁とは雲泥の差であることを次回にお伝えしたい。ただ単に遠く欧米で調べた苦心談を額ということだけでなしにあらゆる物の方面から話してみたいと思います。(つづく)


「直心と額縁精神」によると、佐藤久二さんは、戦前アメリカに滞在していたときに、日本からきた荷物の荷造りが粗悪だったことにショックを受けて、これからは良いものだけを作ろうと心がけていたそうです。その甲斐があって、戦後、佐藤さんが作った額縁が、クリスマスの贈り物としてニューヨークのリーダーズ・ダイジェスト社の社長室に飾られることになったことが、大変に名誉なことと思われていたようです。佐藤久二さんにとって、米国人に評価される、ということには、他にも増して特別な意味合いがあったようです。

詳しい経緯は書いてありませんが、ニューヨークの出版社の社長へのクリスマスの贈り物に選ばれるということは、少なくとも戦後、日本に駐留・駐在していた米国人の間でも、佐藤久二さんが作られていた額縁が高く評価されていた可能性が高いことを示しています。佐藤さんは、GHQの民間情報教育局(CIE)が芸術関係の査察、あるいは検閲をするときに、通訳を頼まれたようなので、当時日本に駐在していた米国人の間で、どのような美術品の評判が良かったのか、良く知ることのできる立場におられた可能性が高いと思われます。そして、その中には、大森明恍の富士山画も含まれていたのかもしれません。大森明恍が、資生堂ギャラリーで富士山画の個展を開くことになれば、きっと多くの米国人が見に来るに違いない。したがって佐藤久二さんが作った額縁も米国人の目に止まる可能性が高い、是非米国人に日本人が描いた絵だけでなく、日本人が作った額縁も見てもらいたい。そのように考えて、大森明恍の富士山画のために額縁を作ってくださったのかもしれません。

大森明恍と佐藤久二_2

昭和37年(1962年)の12月、大森明恍が個展を開催した会場のなびす画廊あてに、佐藤久二さんから手紙が届きました。当時、佐藤さんは熊本に住んでいたようです。個展には行くことができず残念だが、個展の成功を祈っている、という内容でした。

(表)東京都銀座西1の7 なびす画廊内 富士山画展覧会 大森明恍様 速達便, (裏)熊本市保田窪本町xxx^x 佐藤久二 十二月九日
拝啓、この度は個展ご開催の由、おめでとうございます。またご案内状を賜り、当地に転送されてまいりました。遠くから、ご成功を切に祈ります。この前は、高血圧でお目にかかれず、残念に思いおりましたところ、今回、また九州で残念続き。当地では富士山は珍しいので玄関へ懸けてある絵ハガキ型の夕陽の富士、資生堂展*の際、東北の青年が買約したものと同等くらいの出来栄えで、磯谷の木彫り本金の額に入れてあるもの、来る人毎に感嘆の声を放ち、その度に富士の難しさを説明すると、学識のある人士は納得する。今日もその前でこの案内状を読んでおり、私も貴殿と富士とは永い因縁で今更感慨無量。近作はいろいろかけ違い、拝観の栄は得ずとも、おそらく貴殿ほど富士を多く描いた人は、未だかつて無く、さぞかし今回の個展には心強きものあることと拝察つかまつります。今後一層のご努力のほど、祈り上げます。二つとない良いモデルと取り組んでいることはうらやましき限りです。昔大阪の世界的骨董商山中で高麗焼きの写真を見たが、今なお頭の中に現れる逸品
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*) 資生堂展: 資生堂ギャラリーでの展覧会
で、もちろん写真士も当代の名人だったが、土鍋を写したのでは、あの高貴さは出ないと、今更、貴殿の選んだモデルの偉大さには羨望の極みです。なにとぞ最後の境地に達せんことを切望してやみません。富士の見えない当地でみる富士の画は、今まで気の付かない美しさとまた格別の趣を、毎日私の生活に生かしてくれます。私も、もはや余生短いが今までの経験を生かして、今までの人生より長い人生を暮らす決心でおります。まずは個展のご成功を祈りつつ、近況お報らせまで。末筆ながら皆様によろしくお伝えたまわりたく。敬具
十一月九日
毎朝台所の窓から遠く燦蚕と前の富士とは裏腹な阿蘇を見て私の心に響く
不比内割人* 七十四才となれり
懐かしき 大森大兄机下
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*) 不比内割人は佐藤久二さんのペンネーム

原文は、カタカナ交じりの独特の文体で書かれています。当時の熊本のお住まいの玄関には、富士山の絵がかけてあって、毎日ご覧になっていたとのことです。


大森明恍が亡くなった後も、ときどき、日出子夫人あてに佐藤久二さんから手紙が届いていたようです。

(表) 静岡県御殿場市東山504 大森日出子様, (裏) 佐賀市xxxx 佐藤久二 一月八日
拝復ご無沙汰の段、平に御免。皆様お元気の様子、頂上ご次男君はいかがお暮し候や。さぞかしご成人の事と拝察つかまつり候。私も親しい友人はニ、三人となり、他はほとんど他界。月には行けそうになったが、私には誠に寂しい世界となりました。私も馬齢八十一才となりましたが、一週間ごとに血圧を調べてるが、140-75、五十才程度、気持ちは三十才、自動車の前を通るときは、八十一才老。もうろくしないため、常に勉強しているが、九州の文明は福岡までしか来ないので、ちょっと不便。目下新聞と、佐大口座と、テレビが頭の薬。他に長い人生ではないが、最後までは頑張る。有史以来の月旅行の夢も生きてるうちには難しいが、確実に行けるということが分かっただけでも、生き甲斐はあった。これからはうまく死ぬことだが、大森君のようにうまくいくとよいが。長患いは御免だ。そのために一生懸命頭を使うことにしているが、うまくいくか、神のみ知る。我は努力するのみ。勝手なことのみ申し上げ失礼。御身大切のほど祈り上げ候。 大森様 佐賀にて 久二
お問い合わせの(レンブラント)あれは始めて大森君を児島先生に紹介したとき、勉強の参考にといただいたもので、「ルーブルにあるものと同じもので」美術家や美術愛好家にはまたとない参考品ですが、ルーブル美術館で土産品として多産、販売しているので、したがって参考品としては何万金に値するが「市価はほとんどないものです」 芸術的エッチングでは美術家の良心で始めから何十枚と少ない数しか印刷しない「限定版」で終わると原版を責任をもってこわしてしまう。しかも五十枚限定なら初版はインキの付きが悪いから格安で中程になるほど最高値、終わりに近いものはまた始めと同じくらいの格安となる次第で、従ってオリジナルには本人のサインとともに、何枚目の何枚と10/50とか50/50
とか必ず記してあるものでそれ以外は市価は無いことに成っております。つまり専門家の参考品で財産ではないわけです。 また額縁もその通り。額縁美術館というものが、世界中にあるが、まだ日本にはない。しかしそのうち必ずできるに決まっているが、その時はまたその額はまた市価はないが参考品としては私だけが作れた特許品でそこには時間と費用が莫大にかかったもので、これから作り始めようとしたとき、急に外国行きとなり、あの試作品だけとなり、帰朝したときは忙しくて、とうとうあれだけとなって仕舞ったので、額縁美術館が誕生すれば、唯一の参考品となるわけです。また三越展のときの竹づくりの額縁も特許を取って最初に大森君の個展に使ったもので、三越では各団体の審査員級の画家以外は展覧会ができない
規則になっていたのだそうで、重役連が見て問題となり、大森氏が何の団体にも属さないので重役会議で問題となり美術部長の桜井氏が責任上大事となり。私が推薦したから審査員級かと思い調べもせず貸したわけと善後策を相談されたが、私が自信をもって紹介したと強調すると、三越では社会的地位がないでは困ると、大変問題となった。とたんGHQの美術部長から三越に電話で開催中の大森氏の富士展を是非見たいと、GHQから使者がきて、大騒ぎとなり、当時GHQは昔の天皇以上の権威のあったもので、途中警戒などなかなか大騒ぎとなり、三越の重役連も面喰い出迎えの支度するやら、約一時間というはずが、三時間にもなったので、帰る途中の警戒に警視庁番狂わせとなり、三越重役
連は面目をほどこし、前の問題は解消、美術部長桜井君の首もつながり、その上、一週間を二週間も開催され、また竹の様々な額縁にも興味を覚え、制作者に会いたいと言い出され、私を三越から迎えに来て特許竹額の由来を説明すると、同博士は大喜び、こんなものは日本に来て竹の国とは聞いていたが、初めてと握手を求められ、美術部長も面目たって大喜びの中に閉会。その時の額も本家の私の所には一個も残らず、大森君の所にあればそれが額縁美術館に出せる唯一のものとなる。 これも色々の事で忙しく、特許は取ったがあまり作らなかった。和田三造先生の絵を入れて、米国トルーマン大統領の官邸に一枚あり。また鈴木文司郎リーダーズダイジェスト日本支部長の世話でニューヨーク同本社長の部屋に
一枚あるくらいのもの。当の本家にはレンブラント額も竹製額も一枚もない。あるのは同特許証と図面があるだけ。これは額縁製作上初めてのもので非常に費用が掛かったが、できたのは一枚だけの作品で、竹額も100/100くらいしか作らないが日本額縁の歴史的ものとなることでしょう。我々の周りには参考品としては珍しいものばかりだが、市価にはあまり関係のないものばかりで。品物ばかりではなく、人間もまたしかり。可可。 昭和四十四年一月八日 佐賀にて 号不比内割人 旧日比谷美術館主 大森様

戦後まもなく、三越で開催された大森明恍の個展の経緯について書かれています。

明治大学の図書館にて大森明恍絵画鑑賞会

昭和24年(1949年)6月25日(土)、26日(日)の二日間、東京の神田駿河台の明治大学、図書館の自習室において、明治大学映画研究会主催の絵画鑑賞会、という名目で数十点の富士山画による個展が開催されたとの記録が残っていました。展示会場での記念写真と、ガリ版刷りの案内状です。

Meiko_Ohmori_052s
「不盡香」より
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明治大学内にての富士山個展
昭和二十四年六月
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Meiko_Ohmori_051s

「不盡香」より
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謹啓、新緑溢るる初夏の候となって参りました。
皆々様には益々ご清栄の事とご察し申上げます。
扨て、今回当映画研究部におきましては、従来の映画理論のみにとどまる研究方式の旧殻を脱皮し、新なる分域絵画芸術より深く映画芸術の剔抶研究に努力致して居りますが、此の度、不図も当研究部に於て種々御指導を賜っております大森明恍(桃太郎)画伯の心よき御承諾を得て、画伯の熱情深き筆致による作品数十点を学生一般に開放して頂くこととなりました。つきましては、映画研究部主体のもとに絵画鑑賞会を開催し、皆々様と絵画芸術との好誼を計りたいと思います。
左記の通り時日を定め皆様の御鑑賞の栄を賜らん事を切に御願いいたします。

期日 六月二十五日(土) 二十六日(日)
時間 午前十時より午後六時まで
会場 神田駿ケ台明治大学図書館四階自習室
入場料 無料
明治大学映画研究部
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同じ年の10月に開催された富士屋ホテルでのGHQ向けの個展、11月に開催された宮内庁総合美術展での参考出品も不思議な展覧会でしたが、大学図書館での個展というのもまた不思議な展覧会です。この年に限って、三回も不思議な展覧会が開催されたことになります。

写真の前列中央には大森明恍がスーツ、ネクタイ姿で座っており、その両脇には学生服を着た学生と思われる二人が腕組みをして座っています。後列には女性が二人、左端にはネクタイ姿の顧問の先生らしき人も写っています。後方には、図書室の自習用の机が並んでおり、机の上に椅子を乗せ、椅子の背もたれに絵が固定されているようです。何枚かの絵には富士山が描かれているように見えます。また絵の下には白い紙が貼ってあり、絵のタイトルが書かれているのかもしれません。それにしても、いかにもにわか仕立ての展覧会場です。作品数は多く、この写真からだけでも二十数点の絵画が確認できます。

絵画の個展としては、場所も不自然ですが、展示の仕方としても不自然です。週末とはいえ、図書館の自習室で絵の展示会を開催することを大学が簡単に許可するものなのでしょうか? そもそも、なぜ映画研究会が、映画の鑑賞会ではなくて、大森明恍の富士山画の鑑賞会を開催したのでしょうか? 御殿場から神田駿河台まで、誰がどのようにして数十点もの絵画作品を運搬し、その費用は誰が負担したのでしょうか? 大学の図書館で絵を販売するわけにはいかなかったでしょうから、大森明恍にとっては、どのようなメリットがあったのでしょうか? 詳しいことは何も残っていませんでした。

もし仮に、富士屋ホテルでのGHQ向けの個展がマッカーサー夫妻に見ていただくため、宮内庁総合美術展での参考出品が皇后陛下にご覧いただくため、不自然な形であっても、強引に開催されたものだったとしたら、この明治大学での個展も、絵画鑑賞会の体裁を借りてはいるものの、実は他の誰かに見ていただくことが隠れた目的だったのかもしれません。顔を知られた著名人が、人目につかないように、静かに絵を鑑賞するためには、土曜日曜の大学の図書館は好都合かもしれません。一般の人にとっては、気軽に入り込めない場所でしょうから…。仮にそうだったとしても、それはいったい誰に見せたかったのか? そうまでして見せたかった理由はなぜなのか? 新たな疑問が湧いてきます。

戦後まもなく、三越で開催した富士山画の個展に、GHQのロバート大佐が調査に来た際、通訳として碧川道夫という方も立ち会われたとの記録がありましたが、この方は映画のカメラマンだったとのこと。あるいは、この方とも何か関係があったのかもしれません。

宮内庁の総合美術展に富士山画を100点参考出品

昭和24年(1949年)11月24日から26日まで、宮内庁の講堂で開催された、総合美術展覧会において、富士山画を100展、参考出品したという記録が残っていました。一つは、ガリ版刷りの展覧会の出品目録、もう一つは、本人の手書きの記録です。

Meiko_Ohmori_F055mMeiko_Ohmori_F056s
「不盡香」より
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(左)
総合美術展覧会出品目録
(昭和二十四年十一月二十四日→二十九日正午於講堂)
….
参考出品
富士山 (御殿場の画家) 大森明恍
(100点)

主催
宮内庁職員組合文化部
絵画同好会
華道研究会
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(右)本人の直筆
昭和二十四年十一月
宮内庁内文化部主催絵画展に
特別出品し
特に皇后陛下に拝謁し
富士山製作二十数年の苦心談を
申上げる
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大森明恍本人が残した記録では、このとき、皇后陛下(当時は昭和天皇の皇后陛下)に直接お目にかかって、富士山画の説明をさせていただいたとのことですが、家人の間には、皇后陛下から「何故、この富士山は赤いの?」とのご質問をいただき、大森明恍は「朝焼けだからでございます」と、答えたとの話が伝わっていました。

証拠が残っているので、このような出来事が実際にあったことについては、疑いようのない事実なのですが、素朴な疑問が、次から次に、いくつでも湧いてきます。ところが、関係者に聞いてみても、きちんと答えられる人はいませんでした。はっきりしたことは誰にも伝えられてはいなかったようです。また、本人がどこまで開催の経緯を把握していたのかも不明です。

このような展覧会は、毎年開かれているものなのか? 開かれているとしても、参考出品という形で宮内庁とは関係のない外部の者が展示できるものなのか? それにしても参考出品数が100点というのはあまりにも多く、本来の職員の同好会の作品数とバランスが崩れていないか? そもそも、当時、他にもっと著名な画家はいくらでもいたと思われるのに、なぜ大森明恍だったのか? 100点もの大量の絵画を誰が、どのようにして運搬し、展示したのか? 考え始めると、あまりにも多くの疑問が湧いてきます。

唯一、ヒントとなりそうなのは、開催時期が、GHQ向けに開かれた富士屋ホテルでの個展から、わずかに1ケ月後に開催されたということかもしれません。展覧会としては、あまりにも開催時期が近いので、まるで、お互いに示し合わせていたようにも見えてしまいます。

当時は、戦後まもなくの混乱期でもあり、皇室の在り方について、GHQと宮内庁の関係者の間では、頻繁に話し合いがもたれていた可能性も考えられます。皇居と当時GHQの本部が置かれていた第一生命ビルの間も、直線にすれば距離的にも近い。ロバート大佐の三越での個展の調査の報告から、大森明恍の富士山画が、まずはGHQの内部で評判となり、それが何時しか宮内庁にも伝えられ、そのお話がたまたま皇后陛下の御耳に入り、ご興味をもたれ、参考出品というイレギュラーな形で、急きょご覧いただくことになったのかもしれません。

恐らく、戦後の混乱期ならではの出来事だったのかもしれません。しかしながら、奇しくも結果的に、大森明恍の絵は、大正天皇の皇后様と、昭和天皇の皇后様のお二人に、直接ご覧いただける機会に恵まれたことになります。

接収下の富士屋ホテルで富士山画の個展

大森明恍自身のスクラップブック「不盡香」には、箱根の宮ノ下にある富士屋ホテルでの展示の写真が残っていました。

Meiko_Ohmori_F054Meiko_Ohmori_F054
大森明恍本人のアルバム「不盡香」より
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昭和二十四年十月下旬
箱根宮ノ下
富士屋ホテルに於て
交通公社あっ旋のもとに三日間
個展開催し米人に展示す

ホテルの客室なのかロビーなのか定かではありませんが、ふかふかの椅子にスーツを着た大森明恍が、やや緊張した顔つきで腰掛けています。後ろの壁にはフレームに入った富士山の絵が展示されていますが、展示場所が足りなかったのか、椅子の背もたれにも額無しの絵が2枚ほど立てかけてあるようです。油彩か水彩かは判然としません。その下には暖房用のスチーム配管らしいものも見えており、当時の高級ホテルらしい雰囲気が感じられます。しかしながら、もしこれが個展の展示会場だとしたら、いかにも急ごしらえであったという印象を受けます。

当時、富士屋ホテルは進駐軍に接収され、進駐軍専用の保養施設として使用されていたそうです。なお、家人の間では、この時、マッカーサー総司令官と富士屋ホテルに、富士山の絵を購入していただいたと伝えられています。

それにしても、何故、進駐軍に接収されていた富士屋ホテルで、大森明恍の富士山画の個展が、わずか3日間のみ開催されたのでしょうか? 本人は具体的なことは何も語っていません。

ただし、戦後の一時期、大森明恍とGHQの関係を示す資料は、いくつか残されていました。昭和22年9月の静岡新聞には、次のような記事が掲載されました。

Meiko_Ohmori_F041

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静岡新聞
昭和二十二年九月十二日
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富士に魅る
大森画伯・十五年の精進
観光日本の紹介に富士の麗姿を描き続けること十五年、貿易再開に力を得て今その採管に一層の油が乗つた変り種の洋画家がある、現在御殿場町新橋四反田にアトリエを営む明恍大森桃太郎氏(四七)がその人
青年時代、富士への憧れから画家を志し昭和八年九州から岳麓へ移り住んで朝な夕な富士を睨み精魂を尽して描写に努め、既に描きあげた富士は三千を越え戦前毎秋東京に開いた個展出品の傑作中には海を渡つたものも多く、富士観光の世界紹介にはかくれた大きな力となつていた
「日本精神の表象は富士である、生涯を通じ自他共に許す会心の作を一枚だけ描き上げたい」というのが画伯の念願、戦雲去つたいま”観光日本の表徴、民主日本平和国家日本の表象としての富士”を描く事に朝な夕な更にこんしんの努力をそそいでいる。
富士は尊い日本の宝だ、昨年六月三越で開いた個展に総司令部教育情報部長ロバート大佐がわざわざ見えられ、自分は終戦当時ドイツにいたが憧れの富士への念願が叶って日本へ来た、それほど世界の人達は富士へ憧れを持つていると語られた、それだけに美しい富士を描き上げて世界に紹介する責任を感じている
と大森画伯はしみじみと語つている【写真は富士を描く大森画伯】
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この記事によると、前年(昭和21年)に三越で個展を開いた際、GHQ教育情報部長のロバート大佐がわざわざ見に来られたとのことです(教育情報部とは、恐らく「民間情報教育局(略称CIE)」のことを指すと思われます)。戦後まもなくの頃は、言論だけでなく、文化全般、あらゆる分野にわたって統制対象となっていたようなので、単にロバート大佐が絵が好きなので見に来た、というわけではなさそうです。例えば、将棋なども統制すべきかどうかの調査の対象となっていた、というエピソードも残っているようです。ところが、さすがに富士山の絵を統制の対象とする必要まではないと判断されたようで、逆に、大森明恍をおおいに励まして帰っていったようです。

他にも、こんな切り抜きも残っていました。

Meiko_Ohmori_047c

大森明恍のアルバム「不盡香」の切り抜きより
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●報導
(新春心の友会計画予告)
一、直心画会開催
会期 昭和二十四年二月一日より二月五日まで
会場 東京銀座七丁目
資生堂美術部画廊にて
主催 大森明恍
〇展覧会開催の会場期日が決定しました。追て其折皆様へご招待案内状を差上げますが。一先ず予告致します。この度の出品画は大体油絵、水彩素描の七、八点の近作です
〇黎明の富士 油絵二十五号
(御殿場の画室にて冬の朝えがく)
一九四七年春より一九四八年春への製作
△先輩佐藤久二大兄(我国額縁界の権威者)の力作に係る額ぶちに入り、真情こもつたデザインに引立てられて、発表出来ることと感謝に堪えません。
その他今夏伊豆西海岸舟山村での楽しい写生画
〇舟山の海 油絵十二号
〇南の窓 同八号
〇九十一翁の肖像 素描
その他小品数点の出品です
この度は水墨画は割愛して発表を見合わせました。ご存じのごとく個展は戦争前より十年来殆ど毎年一回は東京で開催の記録を持つております。従つて其の間に資生堂ギャラリーで催したことも此の度が四度目ではないかと思います。
一昨年度東京三越本店(日本橋)で、水墨画と、油絵併せて五十点を以て個展を開催し、当時、GHQの教育情報部長イーボデン少佐その他のご指導を頂きましたが(東京朝日新聞社のコンネクションで)特に民間情報部長ロバート中佐は御多忙の中を態々三越展覧会場に秘書役を連れて観覧され、長時間に渉って熱心に観照され、望外の賞賛を受けました。そして、ミスター大森の富士の画を将来アメリカに持つて行つて、ニューヨークやワシントンで展覧会を開きたいものだと、懇切に申されました。(当時新聞にこのことが出ました)ほんとうに有難く、何んとも云えぬ元気が湧出ました私共日本人の芸術が遠く海外に進出のお許しが下ることもいづれは実現されるであろうことを、胸中にえがき、一層精進せねばならんと熟熟思います。
その時の立合者は碧川道夫氏小川清澄氏(賀川豊彦先生の前秘書で幸に通訳の労をとつて下さいました)及びフレーム、デザイナーの佐藤久二兄でありました。
この度の開会中是非とも会員諸兄姉のご来場鑑賞をお待ちして居ります。
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(注1) 佐藤久二、当時額縁の代表的なデザイナー。大正2年(1913年)日本最初の画廊(日比谷美術館)を開いた先駆者でもある。
(注2) 碧川道夫(みどりかわ みちお、明治36年(1903年)2月25日 – 平成10年(1998年)3月13日)は日本の映画カメラマン。日本の映画色彩技術の草分け的存在。多くの名作映画の撮影を担当し、『地獄門』で1954年度文部省芸術祭文部大臣賞。
(注3) 賀川豊彦(かがわ とよひこ、1888年(明治21年)7月10日 – 1960年(昭和35年)4月23日)は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。茅ヶ崎の平和学園の創始者である。
(注4) イーボデン少佐、GHQ民間情報教育局新聞課長、インボーデン少佐と同一人物か?
(注5) ロバート中佐、GHQ民間情報教育局言語課長で、当時ローマ字化を計画したとされている、ロバート・キング・ホール少佐と同一人物か?
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この記事は大森明恍自身が発行していた「直心」という同人紙の切り抜きのようです。発行は昭和24年1月となっています。一昨年に日本橋の三越で個展を開いたとありますが、原稿を書いていたのが昭和23年だとすると、一昨年というのは昭和21年ということになり、上の静岡新聞の記事と一致します。こちらの記事では、大佐ではなく、ロバート中佐になっていますが、同一人物と思われます。米国に留学経験のある二人の通訳、しかも一人は宗教関係者(小川清澄氏)、もう一人は芸術関係者(佐藤久二氏)を連れてきたのですから、準備は万端で、単なる富士山画の鑑賞が目的であったとは思われません。例えばですが、富士山信仰と軍国主義の関係を明らかにする、ぐらいの目的はあったのかもしれません。ところが、大森明恍の富士山画を見て、話を聞くと、アメリカに持って行って、ワシントンやニューヨークで展覧会を開きたいものだ、とまで言ったとのこと。もし、それが本当だとすると、大変な褒めようです。

ところで、マッカーサー夫人は吉田博の版画のファンだったと、伝えられています。これは推測ですが、当時ロバート大佐の報告などから、GHQの中で大森明恍の絵も評判となって、その後、マッカーサー夫妻が富士屋ホテルを訪れるタイミングに合わせて、大森明恍の富士山画個展が短期間限定で開催された、という可能性も、もしかするとあるのかもしれません。したがって「交通公社の斡旋」というのは、実態はGHQからの依頼(命令?)であったと解釈するのが自然ではないかというような気がします。

ほぼ同じ時期に、芦ノ湖ごしに白い富士山を描いた線画が残っていました。

Meiko_Ohmori_436b

K#436
Mt. Fuji from Hatone Hotel,
Meiko Ohmori (1901-1963), Pen on paper, Dec. 1949.
箱根ホテルよりの富士山,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙にペン, 29.5 x 21 cm, 昭和24年12月.
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左下に「箱根ホテル新館の見える M. Ohmori 1949-12」と説明・サイン・日付があります。当時、富士山画の中にわざわざ建物を描き、しかも「箱根ホテル新館」と具体的な説明まで入れた絵は、他にはほとんどみられません。この年(昭和24年)10月下旬には, 同じく箱根の富士屋ホテルにおいてアメリカ人を相手に富士山画を展示しましたが、個展とこの絵のサインの間に、2ヵ月のずれがあります。もしかすると箱根に滞在中に鉛筆でスケッチをして、帰宅したのち線画に仕上げた、という可能性も考えられます。もしそうだとすると、大森明恍自身は宮ノ下の富士屋ホテルには宿泊せず、芦ノ湖畔の箱根ホテルに滞在して、3日間、そこから富士屋ホテルに通っていたのかもしれません。

大森明恍と山下清

大森明恍と山下清

大森明恍自身のアルバムに、「放浪のちぎり絵画家」として知られる、山下清さんといっしょに写っている写真が残されていました。阿蘇山をモチーフにして描こうと九州を旅行中、偶然、山下清さんとお会いした、ということのようですが……。

Ohmori_Meiko_Album_001c
(本人の手書きのメモ)放浪の画人 山下清との対談の時, 熊本日日新聞掲載写真.
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右から二人目: 大森明恍, 三人目: 山下清さん

さらに、この写真と全く同じ写真が掲載されている新聞の切り抜きも保管されていました。すでに、紙がかなり黄ばんでいました。

大森明恍_熊本日日新聞002b
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(上の切り抜き) 熊本日日新聞
昭和31年11月14日(水曜日)

大熊画伯が來熊

富士を描いて三十年という”富士山画家”大森明恍さん(五五)=静岡県御殿場市=がこのほどひょっこり熊本を訪れた。来年の一月、東京銀座で開く個展の出品山のひとつとして九州の山と海を描こうというもので”阿蘇を主題としてことしいっぱいの予定でけん命に描いてみたい。いいのが出来たら熊本でも個展を開くつもりだ。油でも水彩でも墨絵でもそのときの印象で描いてゆく”と語っていた。
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(下の切り抜き) 熊本日日新聞
昭和31年11月17日

初めての背広姿で
山下さん 緒方さんにお礼訪問

来熊中の”放浪画家”山下清さん(三四)が弟辰造さん(二六)と一緒に十六日夕方熊本市大江町本一六七緒方辰記さん(五五)=芳久旅館主=方を訪れた。昨年二月初め山下さんが熊本に来た時一カ月近く緒方さんの家に泊って面倒みてもらったお礼にだが、今度も熊本へ来るなり「早く緒方さんに会いたい」とばかり言っていた。
緒方さんはじめ奥さんのカツエさん(五五)二女良子さん(二一)二男達郎さん(一七)=第一高二年=ら家族に囲まれた山下さんはすっかり喜んで良子さん姉弟と腕相撲したり、背くらべしたり大はしゃぎ。来熊中の画家大森明恍氏(五五)=静岡県御殿場市=も来合せて一時間近く歓談した。
この日山下さんは大洋デパートから贈られた鉄紺色のしぶい背広を着てリュウとしたいでたち。「生まれてはじめて背広着たけど、やっぱりツツッポ(筒袖)の和服がラクだね」といっていたが、なかなか板についた紳士ぶりだった。
(写真は緒方さん宅に背広姿で訪れた山下清さん=右から三人目)
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確かに、背広にネクタイを締めた山下清さんの写真は、珍しいのかもしれません。山下清さんは、戦争中、徴兵を逃れるために、日本各地への放浪を始めたそうです。昭和31年当時は、東京の大丸デパートで山下清さんの作品展が開催されて、大変な人気者となり(入場者は80万人を越えたとか…)、個展には当時の皇太子も訪れたそうです。もしかすると、背広を贈った熊本の大洋デパートでも「山下清作品展」の巡回展が開催されていたのかもしれません。

大森明恍と山下清さんの接点は、このとき以外には無いようです。しいて共通点をあげるとすれば、二人とも風景画家であり、いわゆる中央画壇とは、ほとんど縁がなかったことくらいでしょうか。

一方、大森明恍は、このときの九州旅行で、他の有名人にも会っていたようです。

Ohmori_Meiko_Album_008c
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(大森明恍本人のメモ)
横綱 吉葉山関に抱かれて
十二月五日の夜
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吉葉山潤之輔は第43代横綱で、1920年生まれ、北海道出身。この写真が撮影された昭和31年(1956年)当時は、実際に横綱に在位していました。
1942年に幕下優勝を果たして十両昇進が目前だったときに、応召されてしまい、戦地で少なくとも銃弾2発を浴びたそうです。日本国内では吉葉山の戦死を伝える情報まで流れ、高島部屋の力士名簿からも除籍されていましたが、1946年に復員し、その後相撲界に復帰して、横綱まで登りつめたとのこと。当時は、まだ戦争のいろいろな記憶を抱えながら、活躍されていた方も多かったようです。

一方、吉葉山の後ろにいるのは、安念山治さん(あんねんやま おさむ、1934年生まれ北海道出身)とのことです。安念山関の最高位は関脇で、引退後は立浪親方となりました。昭和31年(1956年)当時は, 幕内力士だった思われます。

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(本人によるメモ)
仕事に疲れ, 降雨を幸に 阿蘇内ノ牧温泉に休憩して はからずも 安念山治君と対面
阿蘇産交バス名ガイド 下田央子嬢を伴ひて
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旅行中に出会う人物として、山下清さんといい、横綱吉葉山といい、安念山関といい、(名バスガイドさんといい、)偶然にしては、少々できすぎているようです。大森明恍には、熊本日日新聞に知り合いがいて、これらの出会いをアレンジしていたのかもしれません。もしかすると、大森明恍には、出身の旧制中学校、現在の福岡県立東筑高校の同窓生の友人(あるいは先輩、後輩)が新聞社に勤務していたのかもしれません。例えば上の写真で、吉葉山に抱かれているもう一方の紳士とか…..。地方の新聞社が、地方のデパートの絵画展開催をプロデュースしていた、という可能性も十分に考えられます。

大森明恍のアルバムには、他にも、阿蘇外輪山でジープの中から画を描いている写真や、日出子夫人と阿蘇山の火口に登った時の写真も残されていました。

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阿蘇外輪山
ジープの中で作画す
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ジープは熊本営林局からお借りしたとのことです。

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風雪の阿蘇噴火口に日出子を連れて登り火口底をのぞいて視た時
十二月二十六日
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12月26日とのことで、風も強そうです。地面には積雪も見えますが、こんなときにも、日出子夫人は和服にぞうりを履いていたようです。