大森明恍と磯谷商店

昭和8年(1933年)、家族とともに御殿場に移住したのち、大森明恍(本名: 桃太郎、画号: 海門)は、野中至阿部正直渡辺徳逸梶房吉、などなど、富士山に関わる多彩な人脈を広げていったようです。しかしながら、これらの人々との交流を、どんなに延長していっても、昭和13年(1938年)に開催された銀座での第一回富士山画の個展にはつながらないようにも見えます。

昭和9年(1934年)11月、大森明恍が名強力・梶房吉と冬の富士山五合目の避難小屋に滞在したのち、無事に下山したことが、新聞記事として掲載されました。偶然ですが、その記事の隣には、静岡美術協会役員の常任理事として長尾一平さんが選ばれたとの記事もあり、切り抜きにはその部分に赤線が引かれていました。長尾一平さんは、額縁製造・販売を手掛けられていた、磯谷商店の二代目の方のようです。

長尾翁に藍綬褒章

翌年、昭和10年(1935年)4月には、長尾建吉(嶽陽)翁に藍綬褒章授与を申請するために、洋画壇のお歴々が奔走した、との記事の切り抜きも、赤い線で囲まれて残されていました。長尾建吉さんは明治時代の初期、万博に出展するためにフランスに渡った経験があり、のちに国内で初めて額縁製造のための磯谷商店を始められた方です。赤い枠線は大森明恍自身が引いたものです。この記事には、大森明恍の恩師である岡田三郎助の名前が出てきますが、大森明恍本人の名前はでてきません。それではなぜ、この記事を切り抜いて、大切に保管していたのでしょうか?

東京朝日新聞 昭和十年四月三日
洋画のお爺さん
長尾翁に藍綬褒章
画壇のお歴々が奔走

和田英作、和田三造、岡田三郎助氏等を始め現在の洋画壇のお歴々多勢を世話した洋画壇のお爺さんで通る静岡市川辺町長尾健吉翁(六七)の恩に報いるため地元の人々が叙勲の運動を起こしたことは既報したがその後和田英作氏等が奔走、静岡市商工奨励館藤村館長、静岡女子師範学校三澤教諭等と協議の結果我国額縁製作界の草分けとして洋画壇に貢献したる産業功労者として藍綬褒章授与を申請することとなりこれが基礎調査のため同館長から全国百余の主要都市へ目下調査方を依頼中で調査を進めて居るが、近く資料を取り纏めの上和田英作氏の手を経て申請することとなり、死を前に洋画壇の恩人も多年の功労が酬いられることとなった

この記事によりますと、長尾翁はこのとき67才、死を前にしている、とのことなので、 すでに不治の病に侵されていたのかもしれません。

「大森桃太郎君と語る」

ところで、ある朝、この記事を読んだ大森明恍は、突然はたと思いつき、御殿場からてくてく歩いて、 静岡市の長尾翁を見舞ったらしいのです。「ある朝、急に…」とのことなので、事前の約束などしないまま、突然訪問したようです。その時の様子が、「駿遠豆」という月刊誌の記事として残されていました。

静岡県人社月刊「駿遠豆」 昭和13年6月号掲載
富士山研究画家 大森桃太郎君と語る

清水柳太

渾身、熱と意気を以て包んだ、大森君、円な眼底から放つ光は、人を魅し、その口唇から洩れる微笑は、童心の笑だ。人生の苦難何処にかあるか、考えすぎてはいけない。万事は意気を以て処断いたしましょうと、福岡イズムを有つ大森桃太郎氏(福岡県)は昭和八年の秋、富士山麓、御殿場在、諸久保村に、帝都から居移し、霊峰富士写生に没頭した。
あらゆる角度から眺た、富士と、富士特有の雲の去来を研究し、夏期は山頂にこもり測候所に起居して、霊峰富士の感情に接し、雪を冒して寒風と戦い、極寒四ケ年間の富士山霊の収穫(油絵、素描等)百点を携えて、東京において、富士山の個展を開催した。
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富士山を画きて
かかる御時世に遭遇いたしまして、私は自分の常日頃研究しております「富士山」の作画を、世の多くの人々に観ていただくことは、あながち無意義なことではないと考えます。
我国民性発達の上に、永くかつ深く植え付けられて来ました愛国純情の精神に、どうしても「富士山」を離して考えることは出来ません。むしろ金甌無欠の日本国体に、一入光彩を放つ尊い役割を持っていることは勿論であります。仰げは高き富士ケ峰の、有史を超越した崇高、秀麗しかも神ながらの霊姿こそは、大八州の我同胞のひとしく全世界に誇りうる天与の恩恵として。(略)
私の富士を画かんとする志は余程若い時からの宿願でありました。生涯を通じ必ず真実感のある(精神的)富士の作画を目的として、岳麓御殿場在の一寒村に居を卜しまして、四季を通じ、かつ夕霊峰の不可思議なる魅力に魂魄を惹かれつつ、懸命に感激を続け、画業につとむること早満四ケ年を過ぎました。
書聖雪舟、奇才北斎の富士の名画は世人の良知するところでありますが、現代富士を画きて、真に堂々一家をなせる画人のあるを未だ見出さないのであります。故に私の富士に対する希望、抱負は正しくこれからであります。
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過去四ケ年間の、山麓生活は、物質的の苦闘生活だったそうだ、山から木材を筏って来て、アトリエの建築にかかった、大工の真似もした、左官の手伝もした。ともかくアトリエは出来あかった、友来りならば一夜の宿に足る得るねぐらは設けられたのだ。畑を耕し、自給、自足の日常生活、そして、油絵の具まで、手製の絵の具で富士の容を揮毫する。
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その大森君が、四月二十九日の天長の佳節に、筆者の青山草居を訪れてくれた。その数日前、芝の磯ケ谷額縁店において相語り、意気の当意をみた。筆者より、機を計って岳麓御殿場に訪れる可く相約したるのに、同君の来訪は、洵に恐縮に堪えなかった。
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大森君の断片的逸話を挙げてみる。
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吾が国洋画界の大恩人、洋画壇知名の多数の士を養成し、老後を静岡に静居する磯ヶ谷岳陽翁を、大森君は訪ねた。或る朝、急に、岳陽翁を訪ねてみたくなったからのことで、翁を見舞ったにすぎなかったと、無雑作に同君は言ったそうだが。その訪れかたが、ふるっている。
ふるっている、汽車で行けば何の苦もなく静岡駅に行けるのを、同君は、意外にも御殿場から徒歩で、西に向かって旧東海道をてくった、一寸、これは、人真似の出来難い純情の発露だ。この純情の境地は、画人ならでは味うことの出来難い境地であろう。かつて、磯ヶ谷第二世の長尾一平氏から聴いた、記憶を、今、記すのだ、その当時、自分は大に感激したのだ。
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霊峰富士に漂う四時の千態、万状の雲の去来を描くのについて、阿部雲気流研究所(御殿場在)主理学士、伯爵阿部正直氏に化学者の立場からの雲の説明と気流の関係を説明されて富士の惑情描写に大に得る所があり、頂上の測候についても多くの便宜を与えくれた阿部所主の徳を同君は感激していた。……希に見る、華冑界の新人で篤学の士である、富士雲態の千変万化するところを写真に蔵め、その数、千種以上に達し、世界的の雲の研究記録を現し、学界人に益するところが多大であったとのこと。今夏六月頃を期して富士総合理学研究の気象学、動植物その他の研究材料文献一切を展観富士アルピニストに公開の美挙を決行する予定で目下準備中だとのこと。
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因に理学博士藤原咲平の雲に関する文献材料は同所主の寄与するところが多かったそうだ。
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近代科学の一端を理解する若いアルピニストの連中に富士登山の時代思想化して来たことがハッキリして来たそうだ。若いアルピニストたちが登山する山は、例の日本アルプス方面か黒檜渓谷に限られ、また、アルピニストの本領であるかのごとき登山心理があったのが、近来は違って来たとのことを、権威ある先輩登山家間に話題の種となっているそうだ。富士登山は、月並的なものだと即断していた、修験者或は道者の一部の人と迷信家のグループだけが登る、所謂、伝統的江戸月並的の登山心理と曲解していたのが、最近では富士アルピニストにあらざれば、語るに足らずとのこと……。
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とにかく、近代、富士の文献に異常なる努力を払っている人は、小島烏水氏が第一人者であろう、洋画家中村清太郎氏、また、登山画家として令名あり、理学博士武田久吉氏も富士研究者であり、理学博士牧野富太郎氏富士高山植物のの権威者であることは世間周知のことである。
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政客 松本君平氏は目下、精神修養道場に、愛鷹山麓須山村を中心として青年農場建設に奔走中とのことだ。

「駿遠豆」の記事には、昭和13年2月に資生堂ギャラリーで開催された、「第一回富士山画展覧会」の招待状の文章大部分がそのまま引用されています。

資生堂ギャラリーでの第一回個展については、どのような経緯で開催できるようになったか、本人は何も書き残しておらず、詳細は不明です。 ここからは推測になってしまいますが、 長尾嶽陽翁を見舞ったのち、磯谷商店二代目の長尾一平さん、もしくは佐藤久二さんとの知己を得て、資生堂ギャラリーあてに紹介状、もしくは推薦状のようなものを書いていただき、そのおかげで、初の個展開催が実現した可能性も考えられます。