富士山画の個展(戦後-1)

昭和24年(1949年)には、不思議な富士山画の展覧会が三回開催されました。

これに先立って、同じ年の2月にはこれら一連の不思議な展覧会の伏線のような、少しだけ不思議な個展が、資生堂ギャラリーにおいて開かれていたようです。

大森明恍は、当時、「直心」という同人紙のようなものを発行していましたが、本人が残していた切り抜きには、次のような記載がありました。
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●報導
(新春心の友会計画予告)
一、直心画会開催
会期 昭和二十四年二月一日より二月五日まで
会場 東京銀座七丁目
資生堂美術部画廊にて
主催 大森明恍
〇展覧会開催の会場期日が決定しました。追て其折皆様へご招待案内状を差上げますが。一先ず予告致します。この度の出品画は大体油絵、水彩素描の七、八点の近作です
〇黎明の富士 油絵二十五号
(御殿場の画室にて冬の朝えがく)
一九四七年春より一九四八年春への製作
△先輩佐藤久二大兄(我国額縁界の権威者)の力作に係る額ぶちに入り、真情こもつたデザインに引立てられて、発表出来ることと感謝に堪えません。
その他今夏伊豆西海岸舟山村での楽しい写生画
〇舟山の海 油絵十二号
〇南の窓 同八号
〇九十一翁の肖像 素描
その他小品数点の出品です
この度は水墨画は割愛して発表を見合わせました。ご存じのごとく個展は戦争前より十年来殆ど毎年一回は東京で開催の記録を持つております。従つて其の間に資生堂ギャラリーで催したことも此の度が四度目ではないかと思います。
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これを裏付けるように、「資生堂ギャラリー75年史」の292ページにも、次のような簡単な記載がありました。
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4902A 1949.2.1-2.5
不詳
【典拠】契約書(契約者は大森明恍*)
*大森については大森桃太郎を参照(3802A)。
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両者とも日付がぴったり一致しているので、開催されたことに間違いはないはずなのですが、資生堂ギャラリーには、何故だか展覧会に関する詳しい記録が一切残っていなかったようです。

「75年史」は、資生堂企業文化部により1995年に発行されました。編集にあたっては、当時の新聞や美術雑誌に掲載されていた開催案内などをくまなく調べたらしく、掲載記事が見つかったものについては、必ず「典拠」としてあげられています。大森明恍は戦前にも資生堂ギャラリーで二回、富士山画の個展を開催しましたが、そちらの記録については、新聞や美術雑誌掲載の記事が「典拠」として、あげられていました。昭和24年に開催された展覧会に限って、契約書しか記録が残っておらず、新聞や雑誌に案内記事が一切出なかったようです。資生堂の企業イメージを上げることが資生堂ギャラリーの存在意義ならば、どんな展覧会であっても、新聞や雑誌に開催案内をニュース・リリースするのが当然のような気がします。まして、大森明恍の富士山画の場合、すでにGHQの民間情報教育局(CIE)からのお墨付きをいただいているようなものだったので、検閲によって削除される心配は皆無だったはずです。

「75年史」の同じページには、同じく「不詳」とされた展覧会が、同じ年の4月1日から5日まで開催されていたようです。こちらの契約者は「日本美術国際鑑賞会」とあります。推測するに、当時日本に滞在していた外国人向けに、日本美術の作品を資生堂ギャラリーを借りて展示したということのようです。外国人向けなので、日本人にはできるだけ来てもらいたくはない。それで日本の新聞や雑誌には一切、案内を出さないよう、主催者側から依頼されていた、ということかもしれません。

大森明恍自身の記事にも、不思議なところがあります。なぜ展覧会の名前を「大森明恍、富士山画個展」ではなく「直心画会」などとしたのでしょうか? 「直心」などという同人紙は、東京では全く知名度はなかったはずですし、実質、大森明恍の絵しか展示しないのですから、「大森明恍、富士山画個展」とすればよいような気がします。これは、考えすぎかもしれませんが、たまたま展覧会場の前を通りかかった日本人が「富士山画個展」が開催されていることを知れば、興味をひかれてふらりと個展会場に立ち寄るかもしれません。「直心画会」であれば、通りがかりの人は、まずは、入ってこないだろう、ということが狙いだったのかもしれません。

これは推測ですが、当時、日本に滞在していた外国人、特にアメリカ人の間では、日本の美術品に対する関心が高くなっていたのかもしれません。伝統の古美術品はもちろんのこととしても、富士山だけを描いていた大森明恍も、興味の対象としてアメリカ人の間で話題になっていたのかもしれません。そこで、主に日本に滞在中のアメリカ人を対象とした富士山画の個展を、戦後再開したばかりの資生堂ギャラリーを借りて開催した、ということかもしれません。日本の新聞や雑誌には開催案内がでなかった代わりに、当時日本に滞在していた米国人向けの新聞・雑誌には何らかの形で案内が出ていたのかもしれません。

前年の昭和23年(1948年)、戦後間もなくの東京の街の様子がわかる写真が残っていました。

Meiko_Ohmori_042
「不盡香」より
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昭和二十三年六月八日朝
銀座新橋マエにて
如一を連れて
父 四十八才 如一 十九才
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右が大森明恍本人、左は長男の如一さんです。通りには和服を着た人の後ろ姿も見えます。如一さんは、当時19才、すでに御殿場を離れ東京に出てきていたそうです。大森明恍が颯爽とした正装姿なので、この時期、昭和23年(1948年)6月にも、新橋の界隈で個展を開催していた可能性もあります。如一さんからお聞きした話では、東京で個展を開催するときには、絵の運搬などを手伝ったことがあったそうです。