大森明恍と阿部正直

雲の伯爵 阿部正直との出会い

大森明恍(本名、大森桃太郎)が、雲の研究家として知られる阿部正直伯爵(1891-1966年)の知己を得たのは、昭和8年(1933年)に富士山麓に移り住んでから、ほどなくのことであったようです。そのいきさつについては、大森明恍本人が寄稿した「富士を描いて三十年」(芸術新潮第7巻第8号, 昭和31年8月, 35ページ)に詳しく記されています。
念願の富士山の麓に住み始め、さあ、これからは思う存分富士山を描くぞと意気込んではみたものの、当初、少しも筆が進みませんでした。次第に焦る気持ちが募っていった時に、ふと、富士山もさることながら、富士山の周りの雲に注目してはどうかと、思いつきました。みると、麓には気象測候所のような建物が建っています。何か雲についてわかるかもしれないと考え、思い切って、訪ねてみることにしました。


富士を描いて三十年(抜粋)

大森明恍

………前略………

貸して貰った別荘に住んで、二か月、三か月、ちっとも富士が描けない。毎日、朝から晩まで富士を眺めては「富士はいいなあ」とほれ込んでいるのですが、筆をおろすことが出来ない。手が出ないのです。あの単純な姿の富士が複雑微妙、変幻万化、生き物のようなのです。ジリジリしたような日が続きました。私の生涯での、一番苦しんだときです。そのときハッと思い当ったことは、風景画家として富士を描くなら、まず雲を知らなくてはならない。絵かきは空気が描けたら一人前の絵かきです。(印象派に傾倒していた私は、光線と空気については、それまでも勉強していました。)風景の場合、空気は空と雲だ。雲を掴まなくちゃいけない。積乱雲とか層雲とか、そんな常識的なことしか知らなかった私は、富士山には富士独特の雲があるに違いないと雲の研究を始めたのです。そんな矢先、裾野の一角に、小さい西洋館のあるのを見つけて近づいて見ると屋上に風信機、風速機が見える。これは測候所に違いない。何か参考になる気象のことを教えて貰えるかも知れないと訪ねて行くと、若い所員が出てきて「ここは阿部雲研究所といって、個人経営の雲、気流の研究所だ」という話で、一週間に一度東京から主人が来るから、そのとき相談してみましょうということでした。数日して、使いの人が来て、遠慮なく来てくれということで、行ってみると、何千枚という雲の写真がある。学術写真ですから、空の部分を黒く焼きつけてあるのですが、富士山独特のつるし雲とか笠雲、雲海などが四季にわたって、こまかく撮影してあるのです。私か雲を勉強したいと言うと、温厚篤学の紳士である主人は大いに私を励まして下さって、興味深い話をいろいろ聞かせてくれるのです。初対面から私たちは非常に親しくなり、その紳士が東京から来る度に連絡してもらって、雲の形態について個人講義のような話をきいたわけです。半年ばかりして、ようやく私の四十号ばかりの絵が出来たので持って行くと西風の吹いた場合には、こういうふうに雲が動いてゆくので、この絵で間違っていませんというように、科学的な立場から私の絵が嘘でないことを証言してくれたのです。そして大森君、外国のことは知らないが、日本人で君ほど雲を知っている絵かきはいないだろうと喜んでくれました。私は阿部さんの身分など知らずにおつき合いをさせていただいていたのですが、後に聞くと酒井忠正伯爵の兄さんで、やはり伯爵、理学博士、阿部正直という方ときいて、私はびっくりしてしまいました。その方の紹介で華冑界の方たちに絵を世話していただく機会も出来、月々の絵具代を後援されるなど、いろいろと面倒をみて下さいました。どうも運命論的な言い方のようですが、私の人生は富士山画家となるべき不思議なコースが与えられていたようです。
………後略………


ウェブサイト、誠之館人物誌「阿部正直」によりますと、
阿部正直は、明治24年(1891年)に東京で生まれ、24才のとき、父親の死去に伴い家督を相続して伯爵となりました。子供のころ父親に連れられて当時輸入されたばかりの映画を初めて見る機会があり、深く興味を示したそうです。その後、大正11年(1922年)東京帝国大学(現在の東京大学)理学部物理学科を卒業、大正14年(1925年)、研究テーマについて寺田寅彦に相談したところ、映画の技術で 雲の動きを 研究するように勧められたとのことです。そして昭和2年(1927年)、富士山にかかる雲の動きを研究するため、富士山麓(現在の御殿場市)に、私設の阿部雲気流研究所を設立しました。その西洋館風の建物が、近くに移り住んできた大森明恍の目に偶然留まり、思い切って訪問してみた、といういきさつのようです。阿部正直は自らを伯爵と呼ばれるのを好まず、「雲の研究家の阿部さん」と言われると上機嫌になる、というような方でしたので、大森明恍が出会ってからもしばらくの間は、阿部伯爵の身分のことなど露知らぬままお付き合いをさせていただいた、という理由も、必ずしも大森明恍がうかつであったから、というわけでもなさそうです。

阿部正直と出会ってから、大森明恍は、しばしば、阿部雲気流研究所に通っては、研究の手伝いとして富士山や雲の絵を描くようになったようです。そのころの思い出を長男の大森如一さんは、次のように語っています。(御殿場市教育委員会、文化財のしおり第32集富士山に関わった人々61ページからの引用)

「父は、阿部雲気流研究所、阿部正直の依頼による富士山画の制作によく通っていました。ころあいを見計らって三時のお茶とおやつを運ぶのが私の役目でした。父にとって母が作った蒸しパンとお茶を届けられるのが、何よりの楽しみであったようです。キャンパスには、鉛筆で碁盤の目が入れられて、父は、手を富士に向かってかざしては、キャンパスに写し取っていく姿に子供心に感心したものである」

大森如一さんに、そのころのお話しを伺ったところ、当時、自宅から阿部雲気流研究所まで、子供の足で歩いて片道約30分の道のりであったそうです。如一さんは昭和5年(1930年)生まれですので、昭和10年といえば、まだせいぜい4-5才だったはずです。愛妻が手作りしたおやつを、かわいい我が子がはるばる歩いておやつを届けに来てくれる、さぞかしうれしかったことでしょう。

このころに、乙女峠から描いた富士山の絵が残っていました。如一さんの思い出にあるように、確かに、碁盤目の上に富士山が描かれています。

Meiko_Ohmori_426c
#K426
Mt. Fuji from Otome-Path,
Meiko Ohmori (1901-1963), Pencil on paper, May 5, 1935.
乙女峠よりの図構,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に鉛筆, 昭和10年5月5日, 45 x 31 cm.
御殿場市蔵

左下に「昭和十年五月五日 乙女峠よりの図構」、「一尺五寸:8寸五分」とあります。当時は、阿部雲気流研究所に通って、阿部伯爵の手伝いとしても富士山を描いていた頃です。マス目に基づいて, 正確に模写しようとしていた様子がうかがわれます。昭和10年は、郷土研究誌「北駿郷土研究」が「富士山」に改題された年でもあります。また、大森明恍(ペンネーム: 大森海門)が、野中到とA伯爵との間を仲介したのも、おそらくこの頃のことであったろうと思われます。

大森明恍が諸久保に住んでいたころに、家の近辺を描いたと思われる風景画も残されていました。

Meiko_Ohmori_K563c
K#563
Scenery,
Meiko Ohmori (1901-1963), Pen on paper, March 17, 1939.
風景,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙にペン, 16.3 x 23.8 cm, 昭和14年3月17日.
御殿場市蔵

背景の小高い丘の上に見える洋風の建物は阿部雲気流研究所のようです。 画面右下に「昭和十四年三月十七日 桃」とあります。 画面右側には大森明恍の子供達が描かれているようです。ちなみに、この絵が描かれていた紙の裏には、少年の顔が描いてありました。

Meiko_Ohmori_K563backsidec
K#563(backside)
Child,
Meiko Ohmori (1901-1963), Pen on paper, 1939.
子供,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙にペン, 16.3 x 23.8 cm, 昭和14年.
御殿場市蔵

画面右下に「39 O. MomotaRo」とあります。 説明はありませんが、長男の如一さんを描いたものにほぼ間違いはないと思われます。

一方、大森明恍のスクラップブックには、阿部雲気流研究所の全景を写した写真が残っていました。

昭和十二年六月写
阿部雲気流研究所全景
向かって左の遠くの建物は旧館研究観測所
中央 参考館 建築工事中なり
右側新館研究所
遠景は箱根外輪山長尾峠及び丸岳
左側写真の切れるあたりが乙女峠なり
雲気流研究所入口
左の建物は参考館
右は旧観測所
新観測所
———-
背景の山は箱根の外輪山とのことですが、その形は手書きのスケッチ(K#563a)と良く一致しているようです。

写真や映画の技術を駆使して、富士山の雲の形や動きを科学的に研究するという、物理学者、阿部正直の先進的な手法を間近に見聞きしたことは、その後の富士山画家、大森明恍の作風にも、少なからず影響を与えていたのかもしれません。また、大森明恍自身が運命論的な言い方と書いているように、もともと縁もゆかりもなかった二人の出会いは、富士山が二人を麓まで引き寄せて、出会うようにと、運命の糸をあやつっていた、という言い方もできるかもしれません。


科学と芸術の結合

昭和12年(1937年)7月10日の東京朝日新聞に、阿部雲気流研究所の敷地内に「参考館」という展示を目的とした建物を建設中という記事が掲載されました。

東京朝日新聞
昭和十二年七月十日
科学と芸術の結合
山麓に”雲の殿堂”
「雲の伯爵」と大森画伯とのコンビで
生まれる貴い参考館
富士山麓に莫大な私財を投じて建設した本邦に唯一つの雲の研究所から富士の山雲を睨んで十年、幾多尊い資料を世界気象学会に送り出してきた「雲の伯爵」阿部正直氏はいま研鑽十年のうづ高い資料を整理して近く日本及び世界気象学会に発表すべく東京本郷西片町本邸内研究所と富士山麓御殿場の研究所との間を往来しているが伯はこれを機会に山麓研究所構内に巨費を投じて参考館を建設、門外不出の秘宝、山雲の立体写真、立体映画等を陳列公開すべく工事を急いでいる【写真は上から雲を睨む阿部伯、彩管を揮う大森画伯、竣工近き参考館】
阿部伯が御殿場町野中に雲の研究所を建てたのは昭和二年、五百メートル隔たる第二観測所との間を電線でつなぎ高原特有の山雲をあるいは立体写真にあるいは立体十六ミリ映画に、あるいはスタンダード三十五ミリ映画に収めて雲を、そして雲と気流との研究に精進し、この間伯の手に収められた立体写真は七千余枚、ヒルムも一万余尺に達し、その尊い研究の結果は幾度か学会に送られて世界の科学者たちを驚かせたものである。本年二月には中央気象台委託観測所となりその存在感に重きを加えてきたが伯は更にこれを機会としてこの尊い資料を一般に公開、これに志す人達への参考たらしめ学界に貢献すべく総工費一万余円を投じて山麓研究所構内に大参考館を建設すべく去る四月工を起こし、本月末竣工の予定であるが
伯は同研究所に程近き富士岡村にアトリエをてて富士を睨んでカンバスに絵筆を振るうことこと四年に及ぶ洋画家海門大森桃太郎氏(三七)との奇遇から科学と芸術とが結ばれ、伯の単一色の写真による研究の物足らなさを色彩を以て補っている大森画伯の作品も陳列する事となり、画伯はいまアトリエに閉じ籠って研究所と呼応精魂を打ち込んで富士と山雲に彩管を揮っている。
雲の伯爵は研究所の高台で語った
雲の研究を始めて既に二十年この山麓研究所を建てて十年になるが、思う様に進まない、今十年の研究を整理している、数十種類の名も無い雲その他色々の疑問の点にもぶつかっているので藤原博士とも相談して何とか整理しようと思っている、参考館はこうした研究を一般に公開することによって幾分でも世のためになればと願って建てた
×
大森画伯は語る
尊い阿部伯の研究を拙い自分の絵筆で幾分でも補えればと精魂を傾けています、まだ初歩で思う様にゆかず伯の期待に副い得ないが将来への自信はあります。

大森明恍のスクラップブックには、このとき新聞記事に使われた写真の実物も残っていました。

昭和12年6月2日
東京朝日新聞記者撮影
富士山麓御殿場町在
阿部雲気流研究所内
阿部正直伯
(旧福山城主)
御殿場在富士岡村諸久保
大森桃太郎
アトリエ内にて

このとき新聞記者によって撮影されたという大森明恍の写真は、後日、御殿場市教育委員会が発行した文化財のしおり「第32集 富士山に関わった人々」「 第33集 御殿場の人物事典」などの中でも使われました。

大森明恍のスクラップブックには、参考館の内部で展示の様子を写した写真も残っていました。雲の写真の他にも、立体写真を見ることができる装置(立体写真箱)がいくつも展示されていたようです。また油絵については、後日、御殿場市に寄贈されることになった「笠雲が二重になる変化(L83)」や「連続つるし雲(L84)」の絵なども展示されていたようです。(御殿場市教育委員会「阿部正直博士没後50年記念 雲の博爵 -伯は博を志す-」より)

参考館内
雲に関する写真陳列場(常設)
参考館内
雲に関する油絵陳列場(常設)
御殿場駅より諸久保に向かう途中の旧家

科学と芸術の十字軍

さらにその翌月の昭和12年8月13日、東京日日新聞の静岡版には、「科学と芸術の十字軍」と題して、阿部正直伯爵と大森明恍とが富士山中から山雲を観察したとの記事が掲載されました。

東京日日新聞
昭和十二年八月十三日
静岡版
科学と芸術の十字軍
霊峰富士の山雲研究
霊峰富士を中心に山雲研究の権威として知られている東京市本郷区西片町10理学士阿部正直伯(四七)は昭和二年以来御殿場在諸久保に自費を投じ山雲気流観測所を建設、すでに十年間にわたり貴重な研究資料を収録し学界に貢献しているが阿部伯の研究心はいよいよ真摯熱意を加え従来の地上よりの観測だけで満足し得ず、これも「霊峰富士」描写を畢生の事業に同所のアトリエに籠って精進している洋画家大森海門氏(三六)とタイアップして一瞬の美に変幻の妙味を見せる山雲をキャッチすべく科学と芸術の十字軍を組織、阿部伯は愛用のカメラを大森画伯はカンバスを携えてこのほど御殿場口から富士登山を決行し山頂観測所や五合五勺の避難小屋に籠って得難い天界からの貴重な写真と画業を充たして十一日下山したがはじめての試みだけに山雲研究に新境地を開拓するものと期待されている(写真は五合五勺で撮影する阿部伯(上)と雲の絵を描く大森画伯)

大がかりな写真撮影のための機材を富士山に運びあげるのは、そう簡単ではないはずです。恐らくこの時も梶房吉さんら強力の助けを借りたものと推測されます。


直心

第二次世界大戦後、昭和24年になって、大森明恍は富士山画制作のかたわら、自らが編集人となり、直心という会員制の地元同人紙を発行していました。その編集後記に、次のような短い消息記事がみえます。

鎌倉浄明寺町に新住居を卜された、理博阿部正直先生御夫妻を訪れることが許されました。最早や十六・七年の永い御縁であり、想い出尽きない有難い追憶ばかりです。

昭和24年当時は、すでに中央気象台を退官されており、戦後の混乱期、華族制度の廃止、農地解放などの改革は、阿部正直の研究環境にも大きな影響を及ぼしていたようですが、それでもなお、富士山画家大森明恍との親交は続いていたようです。


大森明恍は昭和38年(1963年)、阿部正直伯爵は昭和41年(1966年)に亡くなりました。 長男の大森如一さんの自宅には、阿部正直伯爵の夫人直子さんから、大森明恍の夫人日出子さんにあてた、昭和47年(1972年)から52年(1977年)にかけての年賀状が 5枚保管されていました。本人が亡くなった後も、少なくとも10年以上、夫人どうしの年賀状のやりとりが続いていたようです。


雲の博士 阿部雲気流研究所資料展

時は流れ、平成22年(2010年)、御殿場市のNPO法人富士賛会議が主催して、雲の博士 阿部雲気流研究所資料展が開催されました。昭和41年(1966年)には阿部正直が亡くなっていますから、没後40年以上の歳月が経過していたことになります。(大森明恍も、さらにその3年前の、昭和38年(1963年)に亡くなっています。)

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雲の博士 阿部雲気流研究所資料展ポスター
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開催日時: 平成22年(2010年)11月21日(日)-23日(火)10:00-17:00
場所: 御殿場市民交流センター、ふじざくら第1・2会議室
同時開催: 阿部氏と交流のあった富士山画家、大森明恍画伯展
主催: NPO法人富士賛会議
共催: 御殿場市社会教育課、諸久保歴史研究会
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このポスターは長男の大森如一さんのご自宅に保管されていた実物を撮影したものです. ポスターの大きさは42 cm x 60 cm.
ポスターの左上には阿部正直博士の顔写真, 右下には大森明恍の若き日の自画像が使われています. なおこの自画像の実物は, 長い間 次女の小林れい子さんのご自宅に保管されていました(K#37).

また、この展覧会が開催される直前、NPO法人富士賛会議の理事長、山本逸郎さんという方が、わざわざ神奈川県川崎市に住む大森如一さんを訪問され、当時のことなどをいろいろと聞いて帰られたとのことです。

このような形で、雲の博士阿部正直と富士山画家大森明恍との交流については、つい最近まで、御殿場市の地元の人々の間では、郷土史の一コマとして記憶されていたようです。


雲の伯爵—富士山と向き合う阿部正直展

これは余談となってしまいますが、2016年、雲の伯爵—富士山と向き合う阿部正直展が東京大学総合研究博物館の主催で開催されました。

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東京駅の近くのJPタワー(東京中央郵便局)の商業施設KITTE内のインターメディアテク2階で開催された阿部正直展のポスターを撮影したもの. 富士山にかかる巨大な雲の写真が使われています.

阿部正直が富士山にかかる雲の観察に実際に使っていた特殊な機材や、撮影された雲の写真、雲の動きを記録した生々しい動画など、かつて昭和初期、大森明恍が富士山麓の諸久保の西洋風の建物を初めて訪れ、その目にしたに違いない、様々な資料が展示されていました。