富士山画の個展(戦前-1)

第1回 富士山画展

大森明恍は戦前、何回かに渡り、東京銀座で富士山画の個展を開いたようです。 第1回の富士山画個展は、昭和13年(1938年)2月1日から5日まで、 東京銀座資生堂ギャラリーで開催されました。

案内状(表)
大森桃太郎作 第一回 富士山画展覧会
昭和十三年 自二月一日 至二月五日 (午前九時ヨリ午後六時マデ)
於東京銀座 資生堂ギャラリー
案内状(裏)
拝啓
時下厳冬のみぎり、いよいよご清適の段、慶賀奉り候
陳者今回小生作画「富士山」を主としたる油絵、素描その他約百点をもって展覧会を開催いたし候間、ご多忙の折からながらご家族ご知友お誘いあわせの上、ご来臨賜りたく、この段謹んでご案内申し上げ候
敬具
昭和十三年一月
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富士山を画きて
かかるご時世に遭遇いたしまして、私は自分の常日頃研究しております「富士山」の作画を、世の多くの人々に観ていただくことは、あながち無意義なことではないと考えます。
我が国民性発達の上に、永くかつ深く植え付けられてきました愛国純情の精神に、どうしても「富士山」を離して考えることはできません。むしろ金甌無欠の日本国体に、一入光彩を放つ尊い役割を持っていることは勿論であります。仰げは高き富士ケ峰の、有史を超越した崇高、秀麗しかも神ながらの霊姿こそは、大八州の我同胞のひとしく全世界に誇りうる天与の恩恵として、ご同慶の至りにたえない感を深く致します。
思いますに、歌聖赤人の昔より、神洲の意気燃ゆる鎮国の象徴とも信奉されてきました、このくすしき不尽の霊峰は、いろいろと詩文画によって、国民精神の成長に幾多の貢献をしてきたかを顧みますなれば、誰しも尽きせない思いを禁じえないでありましょう。
さて画家としての私の価値を説明してくれるものは、もとより私の作品でありますが、私の富士を画かんとする志はよほど若い時からの宿願でありました。生涯を通じ必ず真実感のある(精神的)富士の作画を目的として、岳麓御殿場在の一寒村に居を卜しまして、四季を通じ、かつ夕霊峰の不可思議なる魅力に魂魄を惹かれつつ、懸命に感激を続け、画業につとむること早満四ケ年を過ぎました。今日に至り、いささか自得する所ありといえども、若輩未だもって、技神倶になお浅しというべきでありましょう。相手が世界一の富士山では、なるほど大きすぎるには違いありませんが、幸いにして私の意気にはいよいよ壮なるものがあります。
書聖雪舟、奇才北斎の富士の名画は世人の良知するところでありますが、現代富士を画きて、真に堂々一家をなせる画人のあるを未だ見出さないのであります。ゆえに私の富士に対する希望、抱負は正しくこれからであり、またこの第一回の発表によって、今後ますます所定の計画に邁進してゆきたいと深く期するのであります。幸いに大方諸賢のご鞭撻を切望してやみません。この時局多端のおりにあたりまして、不肖の画事微力なりといえども国民精神総動員の一役ともならば、作者の本懐またこれに越した悦びはないと存じます。
以上
静岡県御殿場在富士岡村諸久保
大森桃太郎識

資生堂ギャラリー75年史」(資生堂文化部編)によると、開催案内は、当時の新聞や、美術雑誌『みづゑ』などにも掲載されたようです。


資生堂ギャラリー75年史p.292より引用/
1938(昭和十三年)
3802A 1938.2.1-2.5*
大森桃太郎氏富士山画展
【概要】大森の富士山画展の第一回展。
大森桃太郎(号明恍)は1901(明治34)年福岡県生まれ。本郷洋画研究所に学ぶ。1921(大正10)年二科展に「浪懸夏光」を出品。1933(昭和8)年富士山研究のため、御殿場に一家で移住。この個展開催後、北海道、九州など各地で富士山画個展を開いた。
【典拠】東京日日2月1日、読売2月1日、東京朝日2月2日、アトリエ3月号、美術[東邦美術学院]3月号、 みづゑ 3月号、美術眼4月号
【文献】「芸術新潮」4巻7号「富士を描いて30年」
*2.2-2.5=東京日日2月1日


第2回 富士山画展

翌年の昭和14年(1939年)にも、同じく東京銀座資生堂ギャラリーで、第2回の富士山画展が開催されました。その時の案内状も残っていました。

(表)大森桃太郎作
第二回 富士山画展覧会
昭和十四年 自七月二十六日 至七月三十日(午前九時-午後九時)
於 東京銀座資生堂ギャラリー
(裏)粛啓 時下いよいよご清適の段、慶賀奉り候
陳者このたび「富士山」を主とした素描、油絵の近作をもって来る七月二十六日より三十日まで(五日間)銀座資生堂ギャラリーにて展観仕り候
いとささやかなる発表には候えど、酷暑の折からながらご家族ご知友お誘いあわせの上、是非ともご高鑑ご後援を賜りたく候
右謹んでご案内申し上げ候
敬具
昭和十四年七月
富士山研究画家
大森桃太郎

この時の個展についても 「資生堂ギャラリー75年史」 に記事の掲載がありました。


「資生堂ギャラリー75年史」p.192より引用/
3907G 1939.7.26-7.30
大森桃太郎富士山画展
【概要】富士山一筋に描き続ける大森が、前年(3802A)に続き第二回富士山画展を開催。
【典拠】美術[東邦美術学院]9月号、 みづゑ 9月号


第3回 富士山画展

第3回と第4回の富士山画展については本人によるスクラップブック「不尽香」にも比較的詳しい記録が残っていました。第3回は、昭和16年(1941年)9月9日から13日まで、青樹社画廊で開催されました。

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第三回 富士山画 個展開催(「不盡香」より)
上の写真には, 本人が画廊の窓から外を見ている様子が写っているようです. 看板には「油絵 工芸 青樹社」と書かれています.
下の写真は画廊の入口のようです. 手書きのポスターには, 「大森桃太郎近作個展、自九月九日至九月十三日於当画廊階上」と書かれているようです. 戦前は、画号として本名の「大森桃太郎」を使っていました. 窓越しには額装された富士山の絵が見えるようです.

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御案内
大森桃太郎
近作個展
期日 昭和十六年(1941年)
自 九月九日 午前九時ヨリ
至 九月十三日 午後七時マデ
会場 東京銀座四丁目 於青樹社画廊
拝啓
将に時局愈々多難緊迫の折柄、貴堂益々御健勝御自愛の御事と拝察お欣び申上げます。さて小生こと日頃各位の御恩愛を辱ふ致し、画筆報国の微衷、聊か努力をつづけて居ります處、茲に初秋の好季に當り、近作品を以て発表、個人展覧会を開催いたしました。幸にご来観を賜はり、倍旧のご指導をご鞭撻を垂れさせ玉はんこと、謹みて御願い申し上げます    敬白
大森桃太郎
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青樹社画廊は、鈴木里一郎(のちに衆議院議員、プリンス自動車の社長)がオーナーで、当時、大森明恍の師である、岡田三郎助の絵なども扱っていたようです。この画廊は戦後には、無くなってしまったようです。
この年、昭和16年(1941年)には真珠湾攻撃があり(12月)、太平洋戦争が始まった年でもあります。この個展の案内状の文面の端々からも、緊迫した世相が感じられます。逆に言えば、このような世相であったから、画廊としても富士山画の個展であれば、比較的無難だったのかもしれません。なお、この年の1月、美術雑誌『みづゑ』には、「国防国家と美術 ―画家は何をなすべきか―」という名の座談会が掲載されました。軍部からは、当時の絵がフランス絵画の影響が強すぎるとの批判があったようです。

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大森桃太郎 近作個展 出品目録
1 富士残光 (油) 八号
2 富嶽 (同) 四号
3 富嶽 (同) 四号
4 芙蓉白雪 (同) 十号
5 雲表絶嶺 (同) 四号
6 函湖雨後 水墨淡彩 玉版小紙
7 夏の富士 水墨 月明紙
8 初夏の富士 (油) 十号
9 淡光 (油) 四号
10 三島の夕富士 (油) サムホール
11 山湖雨霽 水墨 月明紙
12 湖上の朝富士 (油) 六号
13 晩春の富士 (油) サムホール
14 初島の富士 (油) サムホール
15 湖水 (油) 八号
16 中秋の富士 (油) 十号
17 蘆ノ湖畔 (油) 八号
18 不盡夏光 (油) 八号
19 幼児 (油) 三号
20 湖上暁明 (同) 三号
21 富嶽 水墨 月明紙
22 湖上の富士 (油) 四号
23 湖畔の家より (油) 四号
24 笠雲の富士 水墨淡彩 月明紙
25 山湖 (油) 十二号
26 大涌谷の富士 ペン画淡墨 木炭紙二切
27 湖畔夏景 ペン画淡彩 木炭紙四切
28 夏山不二 水墨 画仙紙
29 湖上の富士 水墨 月明紙
30 身延山上の富士 (油) サムホール
31 湖影仰嶽 (油) 二十五号
32 森林高地 セピヤペン画 四つ切
33 湖上舟中よりの富士 (油) 四号
34 湖畔 (油) 十号
35 富士 (油) サムホール
36 厳冬暁の富士 (油) 十五号
37 晴れゆく湖上 ペン画淡彩 木炭紙二切
38 身延七面山頂よりの富士 (油) 四号
期日 昭和十六年
自 九月九日
至 九月十三日
会場 東京銀座四丁目 於青樹社画廊
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作品目録を活字にして印刷した、ということは、画廊としても相当の来客を見込んでいた、と想像されます。この作品目録から、作品数は38点。タイトルから想像する限り、作品の大半(少なくとも24枚)が富士山を描いたもののようです。また、油絵以外に水墨画やペン画なども出品したようです。一番大きい絵でも25号(80.3 x 65.2 cm)、4号(33.3 x 24.2 cm)やサムホール(22.7 x 15.8 cm)ぐらいのサイズが多かったようです。

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(「不盡香」より)
大森桃太郎 近作個展
東京銀座四丁目 青樹社画廊 展示室内
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(「不盡香」より)
開期中毎日会場に来たり 熱心に声援惜しまない尾崎行輝氏(往年の名飛行家)
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(注)尾崎行輝 (1888年1月14日 – 1964年6月3日): 尾崎行雄の四男。参議院議員、飛行機研究家、パイロット。
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個展の会場では、著名人とも話をする機会があったようです。とはいえ、画壇の方ではなく、飛行機のパイロット、というところが、大森明恍らしいのかもしれません。もしかすると、飛行機から見た富士山の話をしていたのかもしれません。

短いとはいえ、新聞の文化欄にも個展の開催が紹介されたようです。

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(「不盡香」より、新聞の切り抜き)
昭和十六年九月十二日
東京日日新聞
文化
学芸消息
▽大森桃太郎氏 近作個展
十三日まで、銀座青樹社画廊
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