富士山画を陸海軍に献納

昭和17年(1942年)10月28日の朝日新聞に「霊峰を陸海軍に献納」という記事が掲載されました。すでに前年、昭和16年(1941年)の12月には太平洋戦争は始まっていました。

記事の内容は、大森桃太郎(明恍の本名)が描いた富士山画(水墨画)を、野上報美堂の野上菊松という方が表装し、10月27日から上野松坂屋で5日間展示した後に、陸海軍に献納するというものです。戦争中とその前後、大森明恍(大森桃太郎)は、富士山の水墨画を描く機会が多くなったようです。もしかすると、油絵用の画材が入手しにくくなっていたのかもしれません。

野上菊松という人物について調べたところ、サンフランシスコで発行されていた「日米」という新聞の1930年(昭和5年)9月11日付け、3面に「表装の秘密を米人間に野上氏紹介する」という記事が載っていました。戦前、サンフランシスコを訪れたこともあったようです。

ちなみに、この翌年(昭和18年)3月に、野上菊松が、大森桃太郎、梶房吉とともに銀座を歩く写真が残っていました。洋風の帽子に和服、白足袋に草履という独特の姿です。スーツ姿の強力、梶房吉とは、また違った意味で珍しいいでたちです。

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「不盡香」より
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朝日新聞 昭和十七年十月二十八日
 

「霊峰」を陸海軍へ献納

富士をにらんでカンバスに絵筆を揮う事十年、その富士山画家が熱誠こめて画き上げた霊峰二つの作品が陸海軍へ献納される—御殿場駅に程近い富士岡村諸久保にアトリエを営む洋画家大森桃太郎画伯(四二)で今度東部表装研究団体宏心会が主催して陸海軍への献納画の企てを知るや欣然これに参加、赤誠こめて尺八横もの水墨画陸軍への東表黎明の富嶽、海軍への旭日昇天の表富士を描き上げた、この二巾は表装展審査員野上報美堂主野上菊松氏が腕を振い他の同志三十画伯等の作品八十点と共に二十七日から五日間上野松坂屋で展覧会の後それぞれ陸海軍へ献納される【写真は海軍へ献納のもの】
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レイアウトが異なりますが、朝日新聞の静岡版にも同じ記事が掲載されました。

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「不盡香」より
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朝日新聞 [静岡版] 昭和十七年十月二十八日
 

「霊峰」を陸海軍へ献納

富士をにらんでカンバスに絵筆を揮う事十年、その富士山画家が熱誠こめて画き上げた霊峰二つの作品が陸海軍へ献納される—御殿場駅に程近い富士岡村諸久保にアトリエを営む洋画家大森桃太郎画伯(四二)で今度東部表装研究団体宏心会が主催して陸海軍への献納画の企てを知るや欣然これに参加、赤誠こめて尺八横もの水墨画陸軍への東表黎明の富嶽、海軍への旭日昇天の表富士を描き上げた、この二巾は表装展審査員野上報美堂主野上菊松氏が腕を振い他の同志三十画伯等の作品八十点と共に二十七日から五日間上野松坂屋で展覧会の後それぞれ陸海軍への献納される【写真は海軍へ献納のもの】
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さらに、昭和17年の秋に、富士山画の油彩画を靖国神社にも献納する約束をしたとの記録がありました。

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「不盡香」より
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昭和十七年 秋
靖国神社、社務所に於て 松本君平氏介添えのもとに 鈴木宮司閣下に面接
親しく貴賓室正面の壁面に富士山の油絵額面を揮毫の上献納す可き儀の誓約を行う
当時先輩知己に此の事を報告す。
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(注1) 松本 君平(まつもと くんぺい、明治3年4月10日(1870年5月10日) – 昭和19年(1944年)7月28日)、静岡県出身のジャーナリスト、政治家、教育者、思想家。文学博士、衆議院議員。(ウィキペディアより引用)
(注2) 鈴木孝雄(すずき たかお、明治2年10月29日(1869年12月2日) – 1964年(昭和39年)1月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功三級。砲兵監・第14師団長・陸軍技術本部長・軍事参議官を歴任。
現役を退いてから靖国神社第四代宮司(昭和13年から昭和21年まで)及び大日本青少年団長を務め、戦後は偕行社会長となる。(ウィキペディアより引用)
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