大森明恍と梶房吉_2

梶房吉の案内で冬季の富士登山に挑む

北駿郷土研究昭和10年(1935年)1月号から4月号まで4回にわたり、梶房吉(文中ではK君の名前で出てきます)の案内で、大森明恍が冬の富士登山に挑戦したときの紀行文、御山の厳粛が掲載されました。

実際に二人が富士山に入ったのは、昭和9年(1934年)の11月中旬のことだったようです。5合目付近までとはいえ、文章からは、冬の富士登山の厳しい様子が伝わってきます。また、文章中「ピッケル」や「アイゼン」などの記述が出てきますので、昭和の初期とはいえ、しっかりと冬山装備を整えたうえで登山にのぞんだ様子も、うかがわれます。

新田次郎の小説「凍傷」によれば、佐藤順一が梶房吉の協力を得て、冬季の富士山頂で気象観測を行ったのは、昭和5年の1月から2月。この佐藤の成功を受けて、中央気象台が通年観測を開始したのは、昭和7年からなので、その2年後のことです。さらに、そのわずか2年後に大森明恍と梶房吉が富士登山に挑戦したことになります。

なお、この登山では、宿泊場所として、中央気象台の避難小屋を利用していますが、あらかじめ気象台の了解を得ていたことがわかります。おそらく、気象台職員が交代で山頂で勤務するために、万一の場合に備え、すでに登山道にはいくつか避難小屋が整備されていたようです。あるいは高山病を防ぐために、職員が途中で高地順化するという目的もあったかもしれません。文章中には、避難小屋と頂上の気象観測所との間で、電話連絡をするシーンがでてきます。梶房吉は、単なる荷物や物資の運搬という役割を越えて、富士山頂気象観測所の安全や機能を維持する上で欠かせない、重要な役割を担っていたらしいこともうかがわせます。


 

御山の厳粛

大森海門

『六根清浄!!』
先に立ったガイドK君の声は元気だ。横なぐりに吹きつける風雪、夕闇は迫って、ほのかにそれらしいわずかの痕跡を留める登山道も、次第に降り嵩む白雪のため、息せき切れる難行である。

『お山は雪だね!!』
数十歩後から声を張りあげてKの後を追う。寒さは募る。呼吸はますます怪しい。四合五尺を通り過ぎた頃は頂上にも相当嵐の襲来が起こったものか、頂上の姿はおろか六、七合目以上は雪におおわれて、阿修羅の猛り狂うがごとき険悪な山の姿である。

五合目の石室の前にたどり着いた時は五時に近い。雪が白いので割合に足元がほんのり見える。雪もこんな時はもっけの幸いだ。ピッケルを握る手袋を通して冷たい感覚。のどが渇く。一握りの雪を口にほおり込む。先頭のKは雪のある所は凍って滑るから、なるべく岩の出ている所を歩け、と教えてくれる。この嵐のこの闇の近づく中にぐずぐずしているといわゆる命があぶない。それでも元気一杯だ。下から
『六根清浄!!』
と太く叫んで後をつける。たちまちまた突風の襲来、顔も上げ得ず、立ち往生のまま風向きに背を向けて、一本のピッケルに全身の重荷を傾げる。

通り過ぎた突風の後を透かして前方を見れば、十貫目(約37.5 kg)以上の荷物をショイコにして前進するKも突風にあえいで闘っている。
『頑張れ、頑張れ』、
Kは後方の僕を力づけてくれる。五合五尺の石室が近づいた。いよいよ夕闇も濃くなってきたが、ここまでこぎつければ勇気がでる。石室から二曲がり登れば目的の避難所だ。ぐずぐすしていたら、凍死だ。ソレ、もう一息、頑張れ頑張れ。

雪風の中でKは元気よく避難所の表戸をこじ開けると
『おお、着いた』
とうなっている。同時にドーンと僕も戸口にリュックサックをほおり込んだ。そして第一声、
『万歳!!』

用意の懐中電灯をひねると室内は急に明るくなった。中央気象台第二避難所と記した札がかけてある。時計を見れば五時二十分、太郎坊出発一時十分から数えてまさに四時間と三十分、Kは
『普通こんな時、強力は相当な荷を背負って、この行程に五時間かかる。割合に早い方でした』
と言う。

重い登山靴を脱いで、室内にランプの灯をつける。吹雪をついて水を汲んでくる。囲炉裏に木炭を焚く。二人はむしろの上にゴロリとなった。しばらく無言。

戸外はいよいよ深いくら闇、そしてごうごうたる風の音。けたたましき吹雪まじりの窓に叩きつける物凄い騒音、また騒音! 冬山にふさわしき、予想外のセレナーデの序曲が奏でられていく。中に、かくて山籠もりの第一夜が始まる。

守れ浅間、鎮まれ富士よ
冬は男の度胸だめし

五合目の避難小屋
昭和9年11月中旬 富士山ガイドナンバーワン梶房吉君を案内として、第一回の雪中登山をなす。 中央気象台の許可を得、雪中アイゼンを履いて山中に戦うこと一週間。 五合五勺気象台避難所前に立てる私。 雪中 三保の松原 御前崎を眺む

『ご来光だ。』
いつか窓が明るくなっている。疲労の眠りからさめての第一声、表戸を開けて駆け出す。
晴天。白雲皚々(がいがい)。白雲重畳。大波小波の大雲海。ただただ大自然の偉観。
旭日ひんがしに昇天せんとして、今まさに雲表に懸らんとす。地上万物一切無礙(むげ)。我はひたすら、おろがみ奉ることより、何も知らず。

Kも出てきた。
『永い年月の山の生活ですが、何時見てもこの景色に飽きませんよ』
『いや全くの絶景だ。こうして我々二人にのみこの壮観はもったいなさすぎる。世の人々に、いや下界の人類にひとり残らずに、この雄大無辺な宇宙の現象を見せてやりたいものだ。』
と僕も負けずに相槌を打つ。
『でも、ここまで来るには昨日のような苦しいめをみなければ……』
とKが言う。それを想い出しては、ちょっとぞっとする。

が、我々は確かに何物かを征服したという気持ちだ。ゆうべの嵐はあとかたなく、零下十五度の寒冷も一夜明ければ雪上春暖のごときあたたかさである。

雲海にもところどころに変化が起こった。見る間に東北面にあたって、ありありと手に取るごとく、御正体山(みしょうたいやま)の連山が現れる。大群山(おおむろやま)が顔を出した。その右が丹沢連峰だ。北の方に秩父連山が紺青に朝日をうけて、ぽっかりと浮き出したよう。

げに山上のひと時こそは、はてしなく飽かぬ眺めである。

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勃然として画慾の衝動! 絵の具箱は開けられた。近景に大富士のスロープの一角を入れて、眼下の連山を写すことしばし。

陽は次第に高く昇った。やがて御山の裾を取り巻いていた淡黄色の密雲が晴れたかと思うと、眼前にぽっかり、出た、出た、紺碧の水をたたえた山中湖、築山に泉水、天上界の盆栽だ。

早速、素画にかかる。連山のしわをていねいに入れて、淡彩で空の透明な色と山のコバルト、しばらくして心地よいスケッチに忘我の境涯にいること久し。

ギラギラ雪の反射が強くなって眼が痛い。囲炉裏の傍に駆けこんだ。そこではKが心得顔に圧力釜で朝餉の飯を蒸らかせている。

『さあ、飯にしよう!』
とて、ともに箸をとる。鍋のふたをとれば、これはまた温かさが鼻をつきキャベツの味噌汁、
『こりゃー、ばかにうまいねー』

×××

『もしもし、頂上ですか。そちらは大変な雪でしょうね。ええ、こちらは昨晩相当に積もりましたよ。下の方も二子山まで真っ白です。二合目あたりまで降ったでしょう。はあはあ、では五合五勺でしばらく御厄介になります。はあ、もしもし。そのうち一日二日して、七合八勺まで参ります。ぜひ頂上へはお訪ねする考えです。はあ、では皆さんによろしく、さよなら』

これは食後、頂上観測所の技手さんへかけた、電話を通じてのご挨拶。

地上俗塵を断つこと、海抜九千余百尺、背後には白衣のまとえる女神の立像にも似たる富士の立ち姿。眼下を俯瞰すれば、蕞爾たり北駿の盆地。高く仰げば大空の雲の動きに、ただ恍惚として現実を忘る。

忽然として霧を吐き、悠然として雲をのむ。まこと御山は宇宙の大怪物なり。ただ片時たりと御山と語り、お山と笑うことが吾人の生活の全部となった。

墨をすり、水絵の具を溶かし、戸外寒風に拮抗して一筆えがけば計らざりき紙面氷の結晶。滑稽なる失敗。油絵にかかっても永く耐えられぬ厳寒の威圧。かくして囲炉裏の周囲には何時とはなしに雑然として七つ道具が散積する。

西側窓の下に宝永山の頂が、折からの夕照に映えて黄金色にその尾根伝いの雪庇が美しく輝き始めた頃、宝永山の東面のスロープが逆光になって、青紫の雪の肌に暮れていく。薄暗がりの室の中にもランプが点いた。その燈下で今日一日での数枚の図稿を片付ける。そばからK君が
『第一日目からずいぶん描きましたねえ』
と言う。
『こんな場所ではほかに何も考えず仕事にのみ屈託する故でしょう。何時日が暮れたさえわからなかった。こんな断片スケッチが何十枚となく経験されてから、何年か後に、画らしい画が一枚でも生まれてくれれば、せめてそれが僕のこいねがうところですがね』

そこには用意のあぶり燗が炉端に突っ込んである。先ず山での第一杯をやろう。二人はお互いに無事な山の生活を祝福しあった。K君は山男らしい雄々しい赭色(しゃしょく)の顔、しかも杯を目八分(めはちぶん)を捧げた時のその笑顔。(未完)


初日は、厳しい風雪に見舞われましたが、二日目の朝には、天気が回復して、素晴らしい眺望を満喫することができたようです。刻々と変化する山上からの風景を満喫しつつ、一方では、滞在時間を惜しむかのように、絵画の制作に没頭した様子がうかがえます。

 

文章中、『ただ片時たりと御山と語り、お山と笑うことが吾人の生活の全部となった。』という表現から、大森明恍がすでに生活の中心を富士山画に据えていたことがうかがえます。「御山の厳粛」というタイトルには、冬の富士山の厳しい自然を意味すると同時に、富士山に賭ける画家の後にひけない厳しい決意が込められていたのかもしれません。

Meiko_Ohmori_014_c 
K#13, K#14, K#15 Mt. Fuji in Mid-Winter with Clear Sky, Meiko Ohmori (1901-1963), lithograph on paper, 1962. 晴れた日の厳冬富士, 大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙にリトグラフ, 56 cm x 39 cm, 昭和37年.

 

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