大森明恍と野中到_1

野中到を茅ヶ崎に訪問

大森明恍(本名: 大森桃太郎、1901-1963)は、昭和8年(1933年)、富士山画を描くために富士山麓に移り住みましたが、その翌年の昭和9年(1934年)には、静岡県の北部を中心に発行されていた北駿郷土研究という雑誌の10月号の9ページから11ページにわたり、大森海門というペンネームを使って、野中到翁を訪ふ(とぶらふ)という文章を寄稿しています。雑誌の表紙には、大森明恍が野中到を訪問した際にスケッチした肖像が採用されました。

北駿郷土研究_第2年10月号_表紙s
北駿郷土研究、第二年十月号の表紙。表紙絵は大森明恍(海門)が描いた、野中到の肖像。

野中到(1867-1955、ペンネームは野中至)は、明治28年(1895年)に妻の千代子夫人とともに、冬の富士山頂で最初に気象観測を試みた人として知られています。当時は、まだ富士山の頂上に気象観測所などは一切なく、私財を投じて山頂に小屋を作り、越冬を試みました。しかしながら、冬の富士山頂における気象観測は、想像を超えて厳しいもので、途中で、やむなく断念せざるを得ませんでした。夫妻は、新田次郎の小説芙蓉の人のモデルとなり、また、何度か映画化、テレビドラマにも取り上げられています。

昭和9年(1934年)、33才の若き富士山画家大森明恍(海門)は、長年あこがれていた気象学者、野中到を訪問しました。当時、野中到はすでに68才、引退して湘南の茅ヶ崎に住んでいました。茅ヶ崎からも、晴れた日には富士山が近くに見えます。しかしながら、富士山頂での越冬をともに試みた千代子夫人は、残念ながら、すでに亡くなられた後でした。

野中到翁を訪ふ【上】の中で、大森明恍は、野中到にぜひお会いしたいと思うようになった理由や、ようやくお住まいを探し当てた経緯、などについて、述べています。


野中到翁を訪ふ【上】

大森海門

とまれ一偉人の投じたる影は、
永劫に大いなる波紋を描きて尽きぬ。

昭和九年八月九日、神意遍く祈願の朝、嶽麓御殿場駅を発った時の余の胸中には、歓喜希望交々禁じ得ないものがあつた。
建武の昔、錦旗の下に皇道絶叫、雄々しくも竹之下の野末の露と消え果て給ひし英霊を窓窃に瞑祷しつつ、一途吾人の汽車は茅ヶ崎へ着いた。名強力梶房吉君に教へられし茅ヶ崎町高砂と、之を唯一の手がかりと先ず駅前角の莨屋(たばこや)で尋ねたるに、店の主海岸の松原の方を指して、此の方なるが誰の家を捜し玉ふやと言ふ野中到氏と云へる老人也野中さんなれば斯斯と、いと詳く教導しくれた。喜びに躍る訪問者の背後に、野中さんは今朝の新聞に載つてるねなど今の店の主人らしく語る声を聞き乍ら砂道をザクリザクリと歩き行きぬ。
海岸への道を辿ること暫、右へ野中とした札在り、それを右へ折れるといと静かなる小門の家に野中の表札を見出す。胸の轟を押さえつつ玄関に訪ふ程に、一青年出で来たる。ご老人は御在宅ですかとて刺を通じぬ。
待つ間無く、どうぞ御上り下さい玄関に這入ると、一人のワンピースの断髪女人、令嬢らしき方にいと鄭重に奥の部屋へ案内された。室毎皆開け放ちて、到る所に椅子やソフアが所在されている。右手前面の庭は海岸の松林を取入れて、芝生やテニスコートなど造られてある。閑静なお住まひだ、など直観される。其処には老後安居にして、斯かる静寂の生活裏に自適される翁を即座に感じて、余の心底に名状し難き安堵の気持ちが生じ、祝福に堪えないものがあつた。
待つ間無く、庭の仕事から無雑作な浴衣姿の主人公登場だ。其処は陽が差して暑い、さあこちらに翁は縁端の籐椅子に腰掛けていた余に声をかけた。そして座敷の中の椅子に移つされた。それは仲よく二つ並べられたもので、翁と余とは対座でなくて、並座しての応接対談である。
挨拶の後に、私は画家である、富士を生涯何としても画きたい、此の決心は相当若い時からの願望でありました。回顧すれば早や十年前、斯かる意味で、富士に因んでの事項をいろいろ、当時上野公園の図書館で調べた中に、特に私の脳裏に深く刻まれたのは、明治二十七八年寒気風雪と戦つて、富岳頂上に気象観測を敢行された、決死的苦闘の貴下の物語でありました。ひどく感激しました、忘れることの出来ない、勇敢にして悲惨なる野中氏夫妻の実行物語でありました。
歳は遷り、年来私の希望を達する時が参り、近頃岳麓に居を卜し、専念富士を畫く身とはなりましたので、時に触れ、往年野中氏の事項などを岳麓の人々に聞き尋ねますが、不幸にして人々がこのことを案外識つていないのには、自分乍ら少なからず気を腐らしていた。然るにその際、雪中救援に登山した勝又某なる村長のあつたことを想出した。
顧へば最早四十餘年の昔なれば、野中氏も多分故人ならん、又当時之が救助に登つた、勝又村長並にその他の人々も多く物故したに違ひないと決めていた處、不図も同村長は未だに七十餘歳にして存命と聞き、之は幸ひと直に岳麓玉穂村に同老村長を訪ねて、当時の追懐談を聞かんとしました。然るに老村長も、古い話での!とその記憶も至つて朧げである。だが驚喜したのは、野中到氏が未だに存命であるといふことでありました、僕の歓喜は例へるにものなきである。
相州茅ヶ崎に老後を静養していられること、同千代子夫人は先年逝去されたこと等等、聊か近状を探知する事が出来たが、茅ヶ崎の何處にいられるか?、それが分からなかつたので少々悲観していたのでしたが、最近御殿場の梶君といふ富士案内者に依つて貴宅の場所が判明したので、実は声咳に接することが出来ればと存じてお邪魔に上つた次第であります。庶幾、当時の追憶談を拝聴出来れば、洵(まこと)に欣快の至りでありますが
と訪問の主意を縷々具に語り述べたのであつた。
翁は一応余の意を聞かれて、承知したといふ表情をされた。見るからに、体躯の立派な壮年時代の剛健さを想像し得る体格である。頭髪の黒さ、その中にチラホラ白毛の見える、所謂胡麻塩的、眼光は何物かを射る鋭さあり、併もその眼球は異常に赤く血走っている。顧へば古い話です過にし遠い昔に追憶は走せる翁の瞼は、寸時瞑想されるが如く、而してボツリボツリと語り出された。尚又頂上観測所代々の建物も、写真によつて説明をして下された。
以下、余の断片質問に対する翁のお答へを総括して見る。翁は九州福岡市の出身(黒田藩)であることは、偶然にも余と同県人であつた。当時大学の予備門と云つた時代(即ち一高の前身)、在学中翁二十二才の時、既に高層気象観測の必要を切実に痛感し、是が実現に大いに勉強、以て他日自己の大事業と決意を堅められたこと、今だ邦国に此の高層観測の計画の無いことは、当時野中到にとつては慨嘆そのものであつたであらふ。勇猛発心、一身以て是が遂行大成に一大決心を立てて先づ学生時代より欧米各国の高山観測所の構造を研究された。特にモンブランの高層観測所の参考書等は、如何に血気盛りの此の南国生れの青年の向上発展を、いやが上にも衝動して止まなかつたことと想像するに難くない。
富士は我が日の本の最高の霊峰である、此の山頂での観測こそ我が志の断行さる可き所であると…………。
それには先づ身体の強健を計らねばならぬ、ランニング、ボート、野球と、当時のスポーツのあらゆることを盛にやられた。
先づ富士山には百回位は登つて置かねばならぬ、斯く言つた。之が翁の青年期に於ける雄々しい意気と覚悟であつた。
儂は思つた、自分一代で此の企が成功しなかつたなら、自分の子供に依つて継承させよう、子の時代にも果たさなくば孫の時にまでも………….と、翁の当時の決意抱負の並々ならぬ程を伺ひ偲びては、まこと凡人愚夫にとり啓蒙躍起の妙薬にしたいものである。翁は二十九才、時恰維明治二十八年十月、愈々多年の宿望たる其端緒実現が企てられた。富士の最高峰、剣ケ峰のしかも絶頂に、六坪の小屋が建築される迄には、永い歳月が準備その他依つて閲されていた。頂上に建てるにも一度麓で先づ組立てて置いて、それを取くづして、山頂に多数の人夫を使用して運搬させた、運搬されたものは直に組立に立かからねば、何時暴風に見舞はれて、何処かへ持つて行かれるか解らぬ、その恐れがあるので仕事を急ぐ、やれ大工が一人負傷した、石工が一人病気したとて、職人一人の休業は竣工の上に大変な蹉跌を来たすことになる。
新に職人を麓から呼び寄せる丈でも、三日や四日は罹かつたそうだ。柱一本、ハメ板一枚も斯る場所では、如何に貴重に取扱はれたことか、然して当時此の建築費が約三千円近い額で、しかも一個人の自費で敢行されたと聞く時、唯厳然として襟を正しくせざるを得ない。野中氏夫妻の超人的一大奉国の事業は、今更吾人の喋々する迄もなく世上人士の熟知するところ乍ら、事にあたつて英断、不撓不屈、死を恐れざる底の熱情は直に勇夫の典型として、讃えても讃えても、尚餘り付きざるものである
【下】に続く


北駿郷土研究(富士山)

昭和8年(1933年)から11年(1936年)まで、静岡県の北部で発行されていた月刊の郷土研究誌です。全部で37冊発行されました。平成7年(1995年)11月になって、鈴木恒治さんという方が尽力され、散逸していた元本を収集、限定500部で完全復刻版が発行されました。復刻版の巻頭には、当時の御殿場市の教育委員会教育長、鈴木賢治さんがお祝いの文を寄せています。

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「北駿郷土研究(富士山)」の復刻版発行(限定500部)の宣伝チラシ。発行日は平成7年11月23日、発行者は鈴木恒治さん。

なお、復刻版の編集後記には、野中至と大森海門の二人について、次のような紹介文が記されています。

☆野中 至(気象観測家)
気象観測家、富士山測候所生みの親、天候変化の予測には、高層気象観測が必要であると、富士山頂で気象観測を行った。特に明治二十八(一八九五)年十月一日~十二月二十二日まで、日本最初の冬季高層気象観測を、夫人とともに行ったことはあまりにも有名。

☆大森海門(洋画家)
本名大森桃太郎、東京上野美術学校(現東京芸術大学)受験の途次、車中から望見した富士山に感激、戦前、御殿場町(当時)新橋新堀にアトリエを作り制作活動を行った。特に富士山の名作が多く、富士を最も愛した画家。


多くはありませんが、「海門」のサインのある富士山の絵が残されています。

Meiko_Ohmori_283c
K#283
Mt. Fuji,
Meiko Ohmori (1901-1963), Watercolor on paper.
富士山,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に水彩, 15.6 x 21.5 cm.
富士山こどもの国蔵
——
右下に「海門」のサインがあります. 海門を名乗ったのは, 「北駿郷土研究」に記事を投稿していた, 昭和初期(昭和10年前後)のころと思われます.