Archive for the ‘交流’ Category

大森明恍と小熊秀雄

土曜日, 1月 14th, 2017

やや唐突なのですが、小熊秀雄全集の19巻(すでに著作権が切れているらしく、ネットでも無料で読むことができます)の20章には大森桃太郎氏の芸術 旭ビル半折洋画展を観ると題する短い評論があります。要約すると、一昨年に見た南の街という大作は良かったが、今回、見た数点の作品の中には原宿風景を除けば、あまり良いものがなかったというものです。大森桃太郎は、大森明恍の本名なのですが、戦後の洋画(油彩画)については、ほぼすべて大森明恍の画号を使って発表しています。いったいいつ頃、どのような経緯で、このような文章が書かれることになったのでしょうか?

Wikipediaによりますと、
小熊秀雄(1901年(明治34年)-1940年(昭和15年))は、詩人、漫画原作者、画家で、1922年(大正11年)から1928年(昭和3年)まで北海道の旭川新聞社で新聞記者をしていたようです。 現在でも旭川市では、小熊秀雄の業績をたたえ、現代詩の詩集を対象として小熊秀雄賞を、毎年全国から公募しています。

また、旭ビルというのは、もっと知りたい旭川というサイトの4条通7丁目のビルという記事によりますと、大正11年に完成した旭ビルディング百貨店を指すようです。旭ビルディング百貨店時代のビルでは、盛んに美術展や写真展などが開かれ、 当時の文化発信の拠点になっていたとのことです。

ということは、戦前、北海道の旭川市で、大森桃太郎の油彩画の作品が、少なくとも2回は展示される機会があった、ということができそうです。小熊秀雄は昭和15年(1940年)に亡くなっていますので、遅くともそれよりも前、さらに、小熊秀雄が上京したのは昭和3年(1928年)ということなので、おそらく、それ以前に、この画評が執筆された可能性が高そうです。大森明恍が富士山麓に移り住んだのが昭和8年(1933年)なので、それよりも前、すなわち、まだ東京に住んでいたころのお話ということになります。このころのことは、大森明恍自身、ほとんど記録を残しておらず、また、どのような作品を描いていたのかも、ほとんどわかっていません。小熊秀雄によると、そのときに旭川で展示された作品名としては南の街原宿風景風景お堀端市街カーネーションアネモネとのことですが、タイトルから想像する限り、富士山を描いた作品はただの一枚もなかったようです。

小熊秀雄全集の19巻は、美術論・画論が集められています。1章のモジリアニから始まって、6章には伊藤深水、7章には奥村土牛、8章には上村松園、10章には小倉遊亀と続いています。この中に混じって、短い文章とはいえ、わざわざ大森桃太郎氏の芸術として、取り上げられたのは、すでに当時の大森明恍の作品には、なにがしか、詩人小熊秀雄の感性に訴えかけるものがあったから、と言ってもよさそうです。

さらに調べてみると旭川美術史というサイトには、簡単に大正から戦前にかけての旭川市における美術界の動きがまとめられています。この中には、第一回洋画展覧会(小熊秀雄も出品)という記述も見えます。このサイトから、高橋北修(ほくしゅう)という人物が浮かんできました。札幌市の画商小竹美術のサイトでは、高橋北修の経歴を紹介しています。それによりますと、高橋北修は、1898年(明治31年)、旭川生まれ1919年(大正8年)に上京、本郷の洋画研究所で洋画を学ぶ、とあります。実は、この年、大森明恍も本郷の洋画研究所に入所しています。すなわち、この二人は3才違いのほぼ同世代、しかも洋画研究所では同期生だった、ということになります。

ところが、高橋北修は、1924年(大正13年) 関東大震災に会い帰郷、すなわち、震災をきっかけにして、東京から旭川に戻ったとのことです(ただし、関東大震災そのものは1923年(大正12年)に発生)。上記の旭川美術史にも、東京から帰った高橋と関・坂野多佳治で大正12年赤耀会結成とありますから、旭川でも仲間とともに美術に関する活動を積極的に続けたようです。さらに、小熊秀雄全集の22章美術協会の絵画展を評すにも、(同人)高橋北修の出展作品に対する小熊秀雄の評論があることからも、その様子が裏付けられます。

ここからは推測となってしまいますが、高橋北修は大正時代の一時期、東京で洋画を学んでいたが、関東大震災をきっかけにして旭川に戻った。旭川で美術協会を設立し、旭ビルディング百貨店の会場を借りるなどして、しばしば展覧会を開催していた。あるとき、洋画研究所の同期生であった大森桃太郎に声をかけて、その作品を取り寄せ展示したところ、たまたま旭川新聞の記者であった小熊秀雄の目に留まり、小熊秀雄は、その感想を旭川新聞の画評として執筆し、後年、それが全集にも掲載された、ということのようです。この文章が現在にいたるまで残ることになったのは、いくつかの偶然が重なった結果のようです。

もしかすると、関東大震災で東京が焼け野原になってしまったとき、大森桃太郎もやむを得ず、一時期、郷里の九州に戻り、そこで制作した大作が南の街であったのかもしれません。

小熊秀雄によれば、

大森氏の南の街の画風をして未来派だらうと評した男があるがそれは嘘だ、氏は正真正銘の写実家である、歪んだものをさへ見れば未来派だ表現派だといふ愚な言である、氏の筆觴の生動しちよつと粗豪な行き方を見ての誤つた観察であり、近代精神文化の独立した一部門としての未来主義思想は別なものであることを知らないのだ。大森氏の芸術はかゝる顔を歪めた芸術とは別個な思慮深い写実主義に立脚してゐるものと断言できるのである。

とのことですが、大森明恍のその後の生涯にわたって制作し続けた富士山画を見るとき、小熊秀雄が大森桃太郎という同世代の若き画家が描いたいくつかの作品を見ただけで、正真正銘の写実家であると見抜いた目は、おおむね正しかったといえそうです。


なお、大森明恍は、昭和27年(1952年)、4か月にわたり、北海道の各地を訪れ、作品を制作しました(大森明恍の日本各地の風景_2, 北海道)。もしかすると、この時、大森明恍と高橋北修は、旧交を温め、また絵画について語り合う機会があったかもしれません。

Meiko_Ohmori_069c
K#69 ,
Mountains in Hokkaido?,
Meiko Ohmori (1901-1963), oil on canvas/board,
北海道の連山?,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 板キャンバスに油彩, 45.5 x 27.3 cm (M8).
———-
額が入っていた段ボール箱には「北海道の連山?」の文字がありました. 制作年, 山名は不明です.
裏板のベニヤ板に”MATSUBARA SANGYO CO.”の印字がありました. 松原産業株式会社は、北海道夕張市に本社がある合板の会社のようです.

どこの山をどこから描いたものか、全く不明ですが、もし、同じ場所から撮影した写真と比較することができれば、おそらく、かなり写実的に描かれたものと確認できるのではないかと推測しています。

大森明恍と野中到_1

金曜日, 12月 30th, 2016

野中到を茅ヶ崎に訪問

大森明恍(本名: 大森桃太郎、1901-1963)は、昭和8年(1933年)、富士山画を描くために富士山麓に移り住みましたが、その翌年の昭和9年(1934年)には、静岡県の北部を中心に発行されていた北駿郷土研究という雑誌の10月号の9ページから11ページにわたり、大森海門というペンネームを使って、野中到翁を訪ふ(とぶらふ)という文章を寄稿しています。雑誌の表紙には、大森明恍が野中到を訪問した際にスケッチした肖像が採用されました。

北駿郷土研究_第2年10月号_表紙s
北駿郷土研究、第二年十月号の表紙。表紙絵は大森明恍(海門)が描いた、野中到の肖像。

野中到(1867-1955、ペンネームは野中至)は、明治28年(1895年)に妻の千代子夫人とともに、冬の富士山頂で最初に気象観測を試みた人として知られています。当時は、まだ富士山の頂上に気象観測所などは一切なく、私財を投じて山頂に小屋を作り、越冬を試みました。しかしながら、冬の富士山頂における気象観測は、想像を超えて厳しいもので、途中で、やむなく断念せざるを得ませんでした。夫妻は、新田次郎の小説芙蓉の人のモデルとなり、また、何度か映画化、テレビドラマにも取り上げられています。

昭和9年(1934年)、33才の若き富士山画家大森明恍(海門)は、長年あこがれていた気象学者、野中到を訪問しました。当時、野中到はすでに68才、引退して湘南の茅ヶ崎に住んでいました。茅ヶ崎からも、晴れた日には富士山が近くに見えます。しかしながら、富士山頂での越冬をともに試みた千代子夫人は、残念ながら、すでに亡くなられた後でした。

野中到翁を訪ふ【上】の中で、大森明恍は、野中到にぜひお会いしたいと思うようになった理由や、ようやくお住まいを探し当てた経緯、などについて、述べています。


野中到翁を訪ふ【上】

大森海門

とまれ一偉人の投じたる影は、
永劫に大いなる波紋を描きて尽きぬ。

昭和九年八月九日、神意遍く祈願の朝、嶽麓御殿場駅を発った時の余の胸中には、歓喜希望交々禁じ得ないものがあつた。
建武の昔、錦旗の下に皇道絶叫、雄々しくも竹之下の野末の露と消え果て給ひし英霊を窓窃に瞑祷しつつ、一途吾人の汽車は茅ヶ崎へ着いた。名強力梶房吉君に教へられし茅ヶ崎町高砂と、之を唯一の手がかりと先ず駅前角の莨屋(たばこや)で尋ねたるに、店の主海岸の松原の方を指して、此の方なるが誰の家を捜し玉ふやと言ふ野中到氏と云へる老人也野中さんなれば斯斯と、いと詳く教導しくれた。喜びに躍る訪問者の背後に、野中さんは今朝の新聞に載つてるねなど今の店の主人らしく語る声を聞き乍ら砂道をザクリザクリと歩き行きぬ。
海岸への道を辿ること暫、右へ野中とした札在り、それを右へ折れるといと静かなる小門の家に野中の表札を見出す。胸の轟を押さえつつ玄関に訪ふ程に、一青年出で来たる。ご老人は御在宅ですかとて刺を通じぬ。
待つ間無く、どうぞ御上り下さい玄関に這入ると、一人のワンピースの断髪女人、令嬢らしき方にいと鄭重に奥の部屋へ案内された。室毎皆開け放ちて、到る所に椅子やソフアが所在されている。右手前面の庭は海岸の松林を取入れて、芝生やテニスコートなど造られてある。閑静なお住まひだ、など直観される。其処には老後安居にして、斯かる静寂の生活裏に自適される翁を即座に感じて、余の心底に名状し難き安堵の気持ちが生じ、祝福に堪えないものがあつた。
待つ間無く、庭の仕事から無雑作な浴衣姿の主人公登場だ。其処は陽が差して暑い、さあこちらに翁は縁端の籐椅子に腰掛けていた余に声をかけた。そして座敷の中の椅子に移つされた。それは仲よく二つ並べられたもので、翁と余とは対座でなくて、並座しての応接対談である。
挨拶の後に、私は画家である、富士を生涯何としても画きたい、此の決心は相当若い時からの願望でありました。回顧すれば早や十年前、斯かる意味で、富士に因んでの事項をいろいろ、当時上野公園の図書館で調べた中に、特に私の脳裏に深く刻まれたのは、明治二十七八年寒気風雪と戦つて、富岳頂上に気象観測を敢行された、決死的苦闘の貴下の物語でありました。ひどく感激しました、忘れることの出来ない、勇敢にして悲惨なる野中氏夫妻の実行物語でありました。
歳は遷り、年来私の希望を達する時が参り、近頃岳麓に居を卜し、専念富士を畫く身とはなりましたので、時に触れ、往年野中氏の事項などを岳麓の人々に聞き尋ねますが、不幸にして人々がこのことを案外識つていないのには、自分乍ら少なからず気を腐らしていた。然るにその際、雪中救援に登山した勝又某なる村長のあつたことを想出した。
顧へば最早四十餘年の昔なれば、野中氏も多分故人ならん、又当時之が救助に登つた、勝又村長並にその他の人々も多く物故したに違ひないと決めていた處、不図も同村長は未だに七十餘歳にして存命と聞き、之は幸ひと直に岳麓玉穂村に同老村長を訪ねて、当時の追懐談を聞かんとしました。然るに老村長も、古い話での!とその記憶も至つて朧げである。だが驚喜したのは、野中到氏が未だに存命であるといふことでありました、僕の歓喜は例へるにものなきである。
相州茅ヶ崎に老後を静養していられること、同千代子夫人は先年逝去されたこと等等、聊か近状を探知する事が出来たが、茅ヶ崎の何處にいられるか?、それが分からなかつたので少々悲観していたのでしたが、最近御殿場の梶君といふ富士案内者に依つて貴宅の場所が判明したので、実は声咳に接することが出来ればと存じてお邪魔に上つた次第であります。庶幾、当時の追憶談を拝聴出来れば、洵(まこと)に欣快の至りでありますが
と訪問の主意を縷々具に語り述べたのであつた。
翁は一応余の意を聞かれて、承知したといふ表情をされた。見るからに、体躯の立派な壮年時代の剛健さを想像し得る体格である。頭髪の黒さ、その中にチラホラ白毛の見える、所謂胡麻塩的、眼光は何物かを射る鋭さあり、併もその眼球は異常に赤く血走っている。顧へば古い話です過にし遠い昔に追憶は走せる翁の瞼は、寸時瞑想されるが如く、而してボツリボツリと語り出された。尚又頂上観測所代々の建物も、写真によつて説明をして下された。
以下、余の断片質問に対する翁のお答へを総括して見る。翁は九州福岡市の出身(黒田藩)であることは、偶然にも余と同県人であつた。当時大学の予備門と云つた時代(即ち一高の前身)、在学中翁二十二才の時、既に高層気象観測の必要を切実に痛感し、是が実現に大いに勉強、以て他日自己の大事業と決意を堅められたこと、今だ邦国に此の高層観測の計画の無いことは、当時野中到にとつては慨嘆そのものであつたであらふ。勇猛発心、一身以て是が遂行大成に一大決心を立てて先づ学生時代より欧米各国の高山観測所の構造を研究された。特にモンブランの高層観測所の参考書等は、如何に血気盛りの此の南国生れの青年の向上発展を、いやが上にも衝動して止まなかつたことと想像するに難くない。
富士は我が日の本の最高の霊峰である、此の山頂での観測こそ我が志の断行さる可き所であると…………。
それには先づ身体の強健を計らねばならぬ、ランニング、ボート、野球と、当時のスポーツのあらゆることを盛にやられた。
先づ富士山には百回位は登つて置かねばならぬ、斯く言つた。之が翁の青年期に於ける雄々しい意気と覚悟であつた。
儂は思つた、自分一代で此の企が成功しなかつたなら、自分の子供に依つて継承させよう、子の時代にも果たさなくば孫の時にまでも………….と、翁の当時の決意抱負の並々ならぬ程を伺ひ偲びては、まこと凡人愚夫にとり啓蒙躍起の妙薬にしたいものである。翁は二十九才、時恰維明治二十八年十月、愈々多年の宿望たる其端緒実現が企てられた。富士の最高峰、剣ケ峰のしかも絶頂に、六坪の小屋が建築される迄には、永い歳月が準備その他依つて閲されていた。頂上に建てるにも一度麓で先づ組立てて置いて、それを取くづして、山頂に多数の人夫を使用して運搬させた、運搬されたものは直に組立に立かからねば、何時暴風に見舞はれて、何処かへ持つて行かれるか解らぬ、その恐れがあるので仕事を急ぐ、やれ大工が一人負傷した、石工が一人病気したとて、職人一人の休業は竣工の上に大変な蹉跌を来たすことになる。
新に職人を麓から呼び寄せる丈でも、三日や四日は罹かつたそうだ。柱一本、ハメ板一枚も斯る場所では、如何に貴重に取扱はれたことか、然して当時此の建築費が約三千円近い額で、しかも一個人の自費で敢行されたと聞く時、唯厳然として襟を正しくせざるを得ない。野中氏夫妻の超人的一大奉国の事業は、今更吾人の喋々する迄もなく世上人士の熟知するところ乍ら、事にあたつて英断、不撓不屈、死を恐れざる底の熱情は直に勇夫の典型として、讃えても讃えても、尚餘り付きざるものである
【下】に続く


北駿郷土研究(富士山)

昭和8年(1933年)から11年(1936年)まで、静岡県の北部で発行されていた月刊の郷土研究誌です。全部で37冊発行されました。平成7年(1995年)11月になって、鈴木恒治さんという方が尽力され、散逸していた元本を収集、限定500部で完全復刻版が発行されました。復刻版の巻頭には、当時の御殿場市の教育委員会教育長、鈴木賢治さんがお祝いの文を寄せています。

北駿郷土研究_003s
「北駿郷土研究(富士山)」の復刻版発行(限定500部)の宣伝チラシ。発行日は平成7年11月23日、発行者は鈴木恒治さん。

なお、復刻版の編集後記には、野中至と大森海門の二人について、次のような紹介文が記されています。

☆野中 至(気象観測家)
気象観測家、富士山測候所生みの親、天候変化の予測には、高層気象観測が必要であると、富士山頂で気象観測を行った。特に明治二十八(一八九五)年十月一日~十二月二十二日まで、日本最初の冬季高層気象観測を、夫人とともに行ったことはあまりにも有名。

☆大森海門(洋画家)
本名大森桃太郎、東京上野美術学校(現東京芸術大学)受験の途次、車中から望見した富士山に感激、戦前、御殿場町(当時)新橋新堀にアトリエを作り制作活動を行った。特に富士山の名作が多く、富士を最も愛した画家。


多くはありませんが、「海門」のサインのある富士山の絵が残されています。

Meiko_Ohmori_283c
K#283
Mt. Fuji,
Meiko Ohmori (1901-1963), Watercolor on paper.
富士山,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に水彩, 15.6 x 21.5 cm.
富士山こどもの国蔵
——
右下に「海門」のサインがあります. 海門を名乗ったのは, 「北駿郷土研究」に記事を投稿していた, 昭和初期(昭和10年前後)のころと思われます.

大森明恍と野中到_2

日曜日, 1月 1st, 2017

野中到とA伯爵の間を橋渡し

引き続き、北駿郷土研究の第2年の11月号には、7ページから9ページにかけて、野中到翁を訪う【下】が掲載されました。しばし富士山頂での冬季気象観測に関する苦心談をうかがった後、野中到に肖像画のモデルになっていただきたいと依頼したところ、快諾をいただきました。この時に描いた肖像画が、前号(10月号)の表紙を飾ることになった、ということのようです。
さらに、東京のA伯爵が野中到に面会したがっている旨お伝えしたところ、野中到からは、以前より伯爵の熱心な研究には敬意を抱かれていた、との回答をいただきました。A伯爵とは、当時、富士山麓に阿部雲気流研究所を設立し、当時非常に貴重であった映画の技法を使って、富士山の雲や気流の変化を研究していた、のちに雲の伯爵と呼ばれることになった阿部正直伯爵のことと、思われます。大森明恍は、このときすでに、阿部伯爵の知己を得ていたばかりか、野中到との仲介を依頼されるほど、かなりの信頼を得ていたようです。
このようにして、大森明恍は、中央画壇とは全く異なる場所で、富士山に基ずくつながりを軸としながら、着々と独自の人脈を築いていったようです。また、野中到や梶房吉といった、実際に自らの命をかけて富士山に立ち向かっていった人たちとの交流を通じて、次第に、画家として富士山に対峙する際の独自の姿勢を確立していったのかもしれません。


野中到翁を訪う【下】

大森海門

第一回の山頂の試練は、此青年に幾多の尊い経験を産ませ、冬季山上での耐久力ある建築物の設計等に一大収穫を齎らした。この際の涙なくしては綴れぬ若い夫妻の辛酸甞盡の体験記は、他にいろいろよき著書あれば餘は御遠慮したい。後年山頂賽の磧(さいのかわら)に第二回の観測所を造り、愈々翁の事業は白熱化して行つた。此の拡張に五萬圓の私財を以て当らんとされたるに、遇々昭和三年の大不況時、某銀行没落に禍されこの資金の途は絶たれて了つた。翁の落胆一方ならぬものであつたと察することが出来る。翁は此処まで語られた時、
然し、全く天祐とも申しませうか!! それは、昭和四年頃よりコツペンハーゲンに於ける万国気象学会議にて、世界一斉に構想観測の説隆起し、我国にも愈々その重大任務を覚醒し、富士山頂の観測所も遂に政府の力の及ぶ所となりましたと申された。これより後、昭和七年山頂観測所の拡張は愈々具体化し、一野中到氏の基礎を築ける該観測所も、日本を代表せる高層観測所として広く世界的の存在を此処に確保することとなつた。
回想此処に四十有餘年、日本魂の発露する所、燦として旭日の赫々たるものがある、その裏面史に、一介の青年の奮起と、か弱い一女性の内助の力とに依り万代不易の礎を築きたることは、ただ其苦闘辛酸の一物語として伏す可く餘りに尊き実話のものである。
世界に誇る富嶽の霊容、其崇高、玲瓏たる、よく我皇国の鎮めの象徴であり、且亦我国民性の依って生るる基因である。
而かるが故に、一野中氏の生れたるも亦至当たる可く、有ゆる意味での真の我民族精神の発展進歩皆、無意識の中に絶大の感化に、涵養飼育されて成長又増進するものと信ず。
世の識者は更なり、来たれ日の本の民よ、厳然として東海の雲表に王座する、くすしきかも此の不盡の高嶺を仰ぎ見るや!!
而して、三嘆声を惜しまざる異国人をして、大いに誘致す可きものなり。
不二は国民の信仰なり、神国の真の姿なり。
× × × ×

野中翁の両眼球は真赤に充血している。如何になされしやと聴けば、彼の時雪中に戦ひし折、いつか血膜炎を起し、その儘四十年後も斯は全治せざる也、尚又当時酷い風の為め耳も餘程冒されて未だによく聴きとり難きこと多しとて片手の掌もて、片耳を半おほはれしその姿ぞ尊し。
そは誠に尊き記念也、国の寶ならずやと、餘はつくづくと心の奥に思ひたり。
翁との会談愈々尽きず、一日の訪問にしてよく十年の知己を得たるが如きとは斯かることをや言はん。千代子夫人逝去されて早や十二年、
妻が書いた当時の日記を骨子として、落合直文氏が高嶺の白雪と題したる書を著しましたが、儂も此の年月、時折に詠じたる和歌が少しありますので、一度佐々木信綱さんにでも見て貰つて一冊とし、親戚知己にでも記念に頒たんものと思つていると言われた。それは何よりのことである。貴き体験より生れたる言葉には、常人のうかがひ知られざる境地が披瀝されているに違ひない。斯くて談偶々闌けた時、
私は富士山の畫を世に遺すとともに、貴下の肖像をも共に後世に遺し伝へる必要を感じています、願くは為にモデルになられんことをと請ふた。
それは全く光栄ですと。翁は即座に余の願望を快諾された。
少時たれど倶に語り合ひて、心のゆくりなく結びあへた偉大なる先輩と若輩の余とは、一人のモデルであり一個の畫人として、先づ一枚の鉛筆肖像畫がスケッチされた。
翁はいたく悦ばれた。まして二人の子息、令嬢も出て来られて、お父様に似ていると申された。翁は餘の畫鉛筆をとりて、

志達忘世 現代無求
千載待知 倦耘興讀
昭和九年夏 萬千岳人到。

と認められた。
そして、これが現在私の心境であると申された。
苦折苦屈四十歳月、今翁の志は達せられ、その功績は萬代の礎をつくるに至つた。
翁本年六十八歳也。伴侶の夫人も他界され、現在は子息、令嬢の教育が唯一の仕事であるのみ、嘗ては死を賭けての仕業も今となりては、世人の認め尊敬し惜かざる所である。
百歳千載の後に知己を待つことはおろか、現にその知己は益々増へて行くばかりである。
倦めば耕し、興起れば読む。斯くて現在の翁は悠々自適して閑日月を友とし生ける也。
萬千岳は一万三千尺、即ち芙蓉の峰である。翁が蒔きし種子、高嶺の雪に死を賭して蒔き培はれし一個のふさくとも、削肉流血の奮闘努力あつてこそ、全世界気象学界に雄々しくも、日本が率先して斯界に多々新学説を貢献するを得たる結果の動機を醸したのである。
殉教聖徒の如き翁夫妻の名とその功績は、我が富岳の霊名と共に、永遠に尽きざる宇宙の主賓でなくて何とや言はん。
最近一時問題となつた、頂上観測所継続問題もとやかくと翁身辺の心配であつたであらうが、今や某財団の救助応援のもとに、幸ひ永続の路を打開されたる由、翁の喜悦や顔面に彷彿と表れいたり。
それから、瀧ケ原にある翁の別宅の話題出でて語ること尽きず。
娘が折角用意しました様だから、お疏菜ばかりで…………と、いつか食事が運ばれた。翁自ら楽しみ玉ひし菜園の収穫物也。格別と美味しき馳走を、難有語り乍ら頂戴する。
東京のA伯又翁に面会されたき希望や切なり、翁も亦同伯の熱心なる研究に敬意を抱かれるや是復切也。
御両人の会合の渡橋し労を、不肖に依つて其の機を得たるを感謝す。引止め給ふ翁と再会を約して意味深き今日の訪問を辞去しぬ。よき記念の肖像畫を大事に持ちて、茅ヶ崎の浜の松籟を心持よき思ひ出に、後日翁の肖像の力作をせんと希望に然えつつ…………。
余熟々惟らく、現在富士頂上観測所の継続問題とかくる起るの秋、国家是に当るに、一個人の犠牲純潔をも鑑みて、国際的意味よりしても、全世界に愧ぢざる底の善処置を執り賜はらんことを、熱望して止まざる次第である。
我れに一友あり。彼は畸人と称す可き真の男也。常に語ること往々辛辣にして、人の肺腑を撃つ名言を吐く。偶々拙作野中到翁の肖像を入れたる額を見て曰く
此れなる人の眼瞼は普通の人の瞼に不非、先年来朝せし、アムンゼンがこんな眼をしていた。それから今一人いた、さうだ、日本に来てただ富士と桜花とを賞賛して行つた、印度の詩人タゴールがやはりこんな眼瞼を持つていたよと、
なる程一脈の真理相通ずるものがあるが如し。
さあれ、宇宙の流転は果しなく進展して尽きないであらふ。
大霊を感じて勇躍一番、正義の前に一身を擲うつものよ、
汝の栄光は不滅である。
翁よ幸ひに健全たれ!。   完
(一九三四孟秋)
岳麓・諸久保の書房にて


その後、新田次郎の小説芙蓉の人で知られる野中到(1867-1955)と、雲の伯爵と知られる阿部正直(1891-1966)との会談が、果たして実現したのか、もし実現したのであれば、どのような内容のものであったのか、大変興味深いところです。

なお、文章の最後には、突然畸人と称す可き真の男が登場し、大森海門が描いた野中到の肖像画を見て、その瞼がアムンゼンやタゴールに似ていると言います。これまでの文章の流れとは急に変わっており、この部分にはやや唐突な印象を受けます。
アムンゼンは、ノルウェーの探検家で、最初に南極点に到達した人として知られています。昭和2年(1927年)には、来日したこともあるようです。一方、タゴールはインドの詩人で、アジア人として最初にノーベル賞(文学賞)を受賞した人として知られています。こちらも、昭和4年(1929年)まで、計5回も来日しているようです。したがって、この文章が書かれた昭和9年(1934年)の時点で、この二人に会った経験のある日本人がいても全く不思議ではありません。とはいえ、このような世界的有名人が来日した際に実際に面会できる立場にいた日本人となれば、そう多くはないはずです。畸人と称す可き真の男とは、やはり、A伯爵こと阿部正直伯爵その人ではなかったかと推測されます。

文章中、大森明恍が野中到の肖像画を描くと、子息と令嬢が見て、「お父様に似ている」と喜んだとの記述が出てきます。一方、新田次郎の「芙蓉の人」のあとがきには、昭和8年夏の富士山頂で、新田次郎が初めて野中到に会ったときの様子が出てきます。当時、新田次郎は富士山頂の観測所に勤務する職員でした。そのとき、野中到は娘の恭子さんと一緒だった、とあります。また、新田次郎はその後、茅ヶ崎の野中到のご自宅を訪問して、御馳走になったこともあったとのことです。その時には、すでに千代子夫人は他界していて、新田次郎は直接千代子夫人にお会いしたことはなかった、それで「芙蓉の人」を執筆する際、千代子夫人にそっくりだと言われていた、昭和8, 9年頃の恭子さんの姿を思い出しながら、この物語を書いたそうです。そんな恭子さんに、大森明恍も、ほぼ同時期に茅ヶ崎のご自宅で会っていたことになります。新田次郎と大森明恍との間に、直接の接点があったかどうかは不明ですが、「富士山」を軸にして、同じ時代、同じ場所で、同じ交流関係を共有していたのは確かなようです。


郷土研究誌北駿郷土研究富士山に改題

大森海門のこの記事が掲載されて、二か月後の昭和10年(1935年)1月から、北駿郷土研究富士山に改題となりました。それと同時に、表紙の富士山の題字が野中到、また、大森海門が描いた富士山が表紙絵となりました。

北駿郷土研究_第3年01月号_表紙s
富士山に改題後、最初に発行された北駿郷土研究の表紙. 昭和10年(1935年) 1月発行. 富士山の絵の右下に(海門)の落款が押されています.

この号の目次の下には、改題のことばとして、雑誌のタイトルを変更した理由が記されています。それによると、私たちは、これまで郷土研究において、最も重大なものを忘れていたことを、最近になって悟った。(林苔郎、編集責任者田原林太郎のペンネーム)とあります。富士山の麓に暮らす人々にとっての富士山は、当たり前のように、いつもそこにあるものと、思い込んでいたものが、九州出身である野中到や大森海門らの富士山に対する熱い思いに接し、実は富士山こそが、これまでこの郷土の宝であったし、これからもずっと宝であると、あらためて認識しなおすことになった、ということなのかもしれません。

大森明恍と阿部正直

火曜日, 1月 3rd, 2017

雲の伯爵 阿部正直との出会い

大森明恍(本名、大森桃太郎)が、雲の研究家として知られる阿部正直伯爵(1891-1966年)の知己を得たのは、昭和8年(1933年)に富士山麓に移り住んでから、ほどなくのことであったようです。そのいきさつについては、大森明恍本人が寄稿した「富士を描いて三十年」(芸術新潮第7巻第8号, 昭和31年8月, 35ページ)に詳しく記されています。
念願の富士山の麓に住み始め、さあ、これからは思う存分富士山を描くぞと意気込んではみたものの、当初、少しも筆が進みませんでした。次第に焦る気持ちが募っていった時に、ふと、富士山もさることながら、富士山の周りの雲に注目してはどうかと、思いつきました。みると、麓には気象測候所のような建物が建っています。何か雲についてわかるかもしれないと考え、思い切って、訪ねてみることにしました。


富士を描いて三十年(抜粋)

大森明恍

………前略………

貸して貰った別荘に住んで、二か月、三か月、ちっとも富士が描けない。毎日、朝から晩まで富士を眺めては「富士はいいなあ」とほれ込んでいるのですが、筆をおろすことが出来ない。手が出ないのです。あの単純な姿の富士が複雑微妙、変幻万化、生き物のようなのです。ジリジリしたような日が続きました。私の生涯での、一番苦しんだときです。そのときハッと思い当ったことは、風景画家として富士を描くなら、まず雲を知らなくてはならない。絵かきは空気が描けたら一人前の絵かきです。(印象派に傾倒していた私は、光線と空気については、それまでも勉強していました。)風景の場合、空気は空と雲だ。雲を掴まなくちゃいけない。積乱雲とか層雲とか、そんな常識的なことしか知らなかった私は、富士山には富士独特の雲があるに違いないと雲の研究を始めたのです。そんな矢先、裾野の一角に、小さい西洋館のあるのを見つけて近づいて見ると屋上に風信機、風速機が見える。これは測候所に違いない。何か参考になる気象のことを教えて貰えるかも知れないと訪ねて行くと、若い所員が出てきて「ここは阿部雲研究所といって、個人経営の雲、気流の研究所だ」という話で、一週間に一度東京から主人が来るから、そのとき相談してみましょうということでした。数日して、使いの人が来て、遠慮なく来てくれということで、行ってみると、何千枚という雲の写真がある。学術写真ですから、空の部分を黒く焼きつけてあるのですが、富士山独特のつるし雲とか笠雲、雲海などが四季にわたって、こまかく撮影してあるのです。私か雲を勉強したいと言うと、温厚篤学の紳士である主人は大いに私を励まして下さって、興味深い話をいろいろ聞かせてくれるのです。初対面から私たちは非常に親しくなり、その紳士が東京から来る度に連絡してもらって、雲の形態について個人講義のような話をきいたわけです。半年ばかりして、ようやく私の四十号ばかりの絵が出来たので持って行くと西風の吹いた場合には、こういうふうに雲が動いてゆくので、この絵で間違っていませんというように、科学的な立場から私の絵が嘘でないことを証言してくれたのです。そして大森君、外国のことは知らないが、日本人で君ほど雲を知っている絵かきはいないだろうと喜んでくれました。私は阿部さんの身分など知らずにおつき合いをさせていただいていたのですが、後に聞くと酒井忠正伯爵の兄さんで、やはり伯爵、理学博士、阿部正直という方ときいて、私はびっくりしてしまいました。その方の紹介で華冑界の方たちに絵を世話していただく機会も出来、月々の絵具代を後援されるなど、いろいろと面倒をみて下さいました。どうも運命論的な言い方のようですが、私の人生は富士山画家となるべき不思議なコースが与えられていたようです。
………後略………


ウェブサイト、誠之館人物誌「阿部正直」によりますと、
阿部正直は、明治24年(1891年)に東京で生まれ、24才のとき、父親の死去に伴い家督を相続して伯爵となりました。子供のころ父親に連れられて当時輸入されたばかりの映画を初めて見る機会があり、深く興味を示したそうです。その後、大正11年(1922年)東京帝国大学(現在の東京大学)理学部物理学科を卒業、大正14年(1925年)、研究テーマについて寺田寅彦に相談したところ、映画の技術で 雲の動きを 研究するように勧められたとのことです。そして昭和2年(1927年)、富士山にかかる雲の動きを研究するため、富士山麓(現在の御殿場市)に、私設の阿部雲気流研究所を設立しました。その西洋館風の建物が、近くに移り住んできた大森明恍の目に偶然留まり、思い切って訪問してみた、といういきさつのようです。阿部正直は自らを伯爵と呼ばれるのを好まず、「雲の研究家の阿部さん」と言われると上機嫌になる、というような方でしたので、大森明恍が出会ってからもしばらくの間は、阿部伯爵の身分のことなど露知らぬままお付き合いをさせていただいた、という理由も、必ずしも大森明恍がうかつであったから、というわけでもなさそうです。

阿部正直と出会ってから、大森明恍は、しばしば、阿部雲気流研究所に通っては、研究の手伝いとして富士山や雲の絵を描くようになったようです。そのころの思い出を長男の大森如一さんは、次のように語っています。(御殿場市教育委員会、文化財のしおり第32集富士山に関わった人々61ページからの引用)

「父は、阿部雲気流研究所、阿部正直の依頼による富士山画の制作によく通っていました。ころあいを見計らって三時のお茶とおやつを運ぶのが私の役目でした。父にとって母が作った蒸しパンとお茶を届けられるのが、何よりの楽しみであったようです。キャンパスには、鉛筆で碁盤の目が入れられて、父は、手を富士に向かってかざしては、キャンパスに写し取っていく姿に子供心に感心したものである」

大森如一さんに、そのころのお話しを伺ったところ、当時、自宅から阿部雲気流研究所まで、子供の足で歩いて片道約30分の道のりであったそうです。如一さんは昭和5年(1930年)生まれですので、昭和10年といえば、まだせいぜい4-5才だったはずです。愛妻が手作りしたおやつを、かわいい我が子がはるばる歩いておやつを届けに来てくれる、さぞかしうれしかったことでしょう。

このころに、乙女峠から描いた富士山の絵が残っていました。如一さんの思い出にあるように、確かに、碁盤目の上に富士山が描かれています。

Meiko_Ohmori_426c
#K426
Mt. Fuji from Otome-Path,
Meiko Ohmori (1901-1963), Pencil on paper, May 5, 1935.
乙女峠よりの図構,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に鉛筆, 昭和10年5月5日, 45 x 31 cm.
御殿場市蔵

左下に「昭和十年五月五日 乙女峠よりの図構」、「一尺五寸:8寸五分」とあります。当時は、阿部雲気流研究所に通って、阿部伯爵の手伝いとしても富士山を描いていた頃です。マス目に基づいて, 正確に模写しようとしていた様子がうかがわれます。昭和10年は、郷土研究誌「北駿郷土研究」が「富士山」に改題された年でもあります。また、大森明恍(ペンネーム: 大森海門)が、野中到とA伯爵との間を仲介したのも、おそらくこの頃のことであったろうと思われます。

大森明恍が諸久保に住んでいたころに、家の近辺を描いたと思われる風景画も残されていました。

Meiko_Ohmori_K563c
K#563
Scenery,
Meiko Ohmori (1901-1963), Pen on paper, March 17, 1939.
風景,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙にペン, 16.3 x 23.8 cm, 昭和14年3月17日.
御殿場市蔵

背景の小高い丘の上に見える洋風の建物は阿部雲気流研究所のようです。 画面右下に「昭和十四年三月十七日 桃」とあります。 画面右側には大森明恍の子供達が描かれているようです。ちなみに、この絵が描かれていた紙の裏には、少年の顔が描いてありました。

Meiko_Ohmori_K563backsidec
K#563(backside)
Child,
Meiko Ohmori (1901-1963), Pen on paper, 1939.
子供,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙にペン, 16.3 x 23.8 cm, 昭和14年.
御殿場市蔵

画面右下に「39 O. MomotaRo」とあります。 説明はありませんが、長男の如一さんを描いたものにほぼ間違いはないと思われます。

一方、大森明恍のスクラップブックには、阿部雲気流研究所の全景を写した写真が残っていました。

昭和十二年六月写
阿部雲気流研究所全景
向かって左の遠くの建物は旧館研究観測所
中央 参考館 建築工事中なり
右側新館研究所
遠景は箱根外輪山長尾峠及び丸岳
左側写真の切れるあたりが乙女峠なり
雲気流研究所入口
左の建物は参考館
右は旧観測所
新観測所
———-
背景の山は箱根の外輪山とのことですが、その形は手書きのスケッチ(K#563a)と良く一致しているようです。

写真や映画の技術を駆使して、富士山の雲の形や動きを科学的に研究するという、物理学者、阿部正直の先進的な手法を間近に見聞きしたことは、その後の富士山画家、大森明恍の作風にも、少なからず影響を与えていたのかもしれません。また、大森明恍自身が運命論的な言い方と書いているように、もともと縁もゆかりもなかった二人の出会いは、富士山が二人を麓まで引き寄せて、出会うようにと、運命の糸をあやつっていた、という言い方もできるかもしれません。


科学と芸術の結合

昭和12年(1937年)7月10日の東京朝日新聞に、阿部雲気流研究所の敷地内に「参考館」という展示を目的とした建物を建設中という記事が掲載されました。

東京朝日新聞
昭和十二年七月十日
科学と芸術の結合
山麓に”雲の殿堂”
「雲の伯爵」と大森画伯とのコンビで
生まれる貴い参考館
富士山麓に莫大な私財を投じて建設した本邦に唯一つの雲の研究所から富士の山雲を睨んで十年、幾多尊い資料を世界気象学会に送り出してきた「雲の伯爵」阿部正直氏はいま研鑽十年のうづ高い資料を整理して近く日本及び世界気象学会に発表すべく東京本郷西片町本邸内研究所と富士山麓御殿場の研究所との間を往来しているが伯はこれを機会に山麓研究所構内に巨費を投じて参考館を建設、門外不出の秘宝、山雲の立体写真、立体映画等を陳列公開すべく工事を急いでいる【写真は上から雲を睨む阿部伯、彩管を揮う大森画伯、竣工近き参考館】
阿部伯が御殿場町野中に雲の研究所を建てたのは昭和二年、五百メートル隔たる第二観測所との間を電線でつなぎ高原特有の山雲をあるいは立体写真にあるいは立体十六ミリ映画に、あるいはスタンダード三十五ミリ映画に収めて雲を、そして雲と気流との研究に精進し、この間伯の手に収められた立体写真は七千余枚、ヒルムも一万余尺に達し、その尊い研究の結果は幾度か学会に送られて世界の科学者たちを驚かせたものである。本年二月には中央気象台委託観測所となりその存在感に重きを加えてきたが伯は更にこれを機会としてこの尊い資料を一般に公開、これに志す人達への参考たらしめ学界に貢献すべく総工費一万余円を投じて山麓研究所構内に大参考館を建設すべく去る四月工を起こし、本月末竣工の予定であるが
伯は同研究所に程近き富士岡村にアトリエをてて富士を睨んでカンバスに絵筆を振るうことこと四年に及ぶ洋画家海門大森桃太郎氏(三七)との奇遇から科学と芸術とが結ばれ、伯の単一色の写真による研究の物足らなさを色彩を以て補っている大森画伯の作品も陳列する事となり、画伯はいまアトリエに閉じ籠って研究所と呼応精魂を打ち込んで富士と山雲に彩管を揮っている。
雲の伯爵は研究所の高台で語った
雲の研究を始めて既に二十年この山麓研究所を建てて十年になるが、思う様に進まない、今十年の研究を整理している、数十種類の名も無い雲その他色々の疑問の点にもぶつかっているので藤原博士とも相談して何とか整理しようと思っている、参考館はこうした研究を一般に公開することによって幾分でも世のためになればと願って建てた
×
大森画伯は語る
尊い阿部伯の研究を拙い自分の絵筆で幾分でも補えればと精魂を傾けています、まだ初歩で思う様にゆかず伯の期待に副い得ないが将来への自信はあります。

大森明恍のスクラップブックには、このとき新聞記事に使われた写真の実物も残っていました。

昭和12年6月2日
東京朝日新聞記者撮影
富士山麓御殿場町在
阿部雲気流研究所内
阿部正直伯
(旧福山城主)
御殿場在富士岡村諸久保
大森桃太郎
アトリエ内にて

このとき新聞記者によって撮影されたという大森明恍の写真は、後日、御殿場市教育委員会が発行した文化財のしおり「第32集 富士山に関わった人々」「 第33集 御殿場の人物事典」などの中でも使われました。

大森明恍のスクラップブックには、参考館の内部で展示の様子を写した写真も残っていました。雲の写真の他にも、立体写真を見ることができる装置(立体写真箱)がいくつも展示されていたようです。また油絵については、後日、御殿場市に寄贈されることになった「笠雲が二重になる変化(L83)」や「連続つるし雲(L84)」の絵なども展示されていたようです。(御殿場市教育委員会「阿部正直博士没後50年記念 雲の博爵 -伯は博を志す-」より)

参考館内
雲に関する写真陳列場(常設)
参考館内
雲に関する油絵陳列場(常設)
御殿場駅より諸久保に向かう途中の旧家

科学と芸術の十字軍

さらにその翌月の昭和12年8月13日、東京日日新聞の静岡版には、「科学と芸術の十字軍」と題して、阿部正直伯爵と大森明恍とが富士山中から山雲を観察したとの記事が掲載されました。

東京日日新聞
昭和十二年八月十三日
静岡版
科学と芸術の十字軍
霊峰富士の山雲研究
霊峰富士を中心に山雲研究の権威として知られている東京市本郷区西片町10理学士阿部正直伯(四七)は昭和二年以来御殿場在諸久保に自費を投じ山雲気流観測所を建設、すでに十年間にわたり貴重な研究資料を収録し学界に貢献しているが阿部伯の研究心はいよいよ真摯熱意を加え従来の地上よりの観測だけで満足し得ず、これも「霊峰富士」描写を畢生の事業に同所のアトリエに籠って精進している洋画家大森海門氏(三六)とタイアップして一瞬の美に変幻の妙味を見せる山雲をキャッチすべく科学と芸術の十字軍を組織、阿部伯は愛用のカメラを大森画伯はカンバスを携えてこのほど御殿場口から富士登山を決行し山頂観測所や五合五勺の避難小屋に籠って得難い天界からの貴重な写真と画業を充たして十一日下山したがはじめての試みだけに山雲研究に新境地を開拓するものと期待されている(写真は五合五勺で撮影する阿部伯(上)と雲の絵を描く大森画伯)

大がかりな写真撮影のための機材を富士山に運びあげるのは、そう簡単ではないはずです。恐らくこの時も梶房吉さんら強力の助けを借りたものと推測されます。


直心

第二次世界大戦後、昭和24年になって、大森明恍は富士山画制作のかたわら、自らが編集人となり、直心という会員制の地元同人紙を発行していました。その編集後記に、次のような短い消息記事がみえます。

鎌倉浄明寺町に新住居を卜された、理博阿部正直先生御夫妻を訪れることが許されました。最早や十六・七年の永い御縁であり、想い出尽きない有難い追憶ばかりです。

昭和24年当時は、すでに中央気象台を退官されており、戦後の混乱期、華族制度の廃止、農地解放などの改革は、阿部正直の研究環境にも大きな影響を及ぼしていたようですが、それでもなお、富士山画家大森明恍との親交は続いていたようです。


大森明恍は昭和38年(1963年)、阿部正直伯爵は昭和41年(1966年)に亡くなりました。 長男の大森如一さんの自宅には、阿部正直伯爵の夫人直子さんから、大森明恍の夫人日出子さんにあてた、昭和47年(1972年)から52年(1977年)にかけての年賀状が 5枚保管されていました。本人が亡くなった後も、少なくとも10年以上、夫人どうしの年賀状のやりとりが続いていたようです。


雲の博士 阿部雲気流研究所資料展

時は流れ、平成22年(2010年)、御殿場市のNPO法人富士賛会議が主催して、雲の博士 阿部雲気流研究所資料展が開催されました。昭和41年(1966年)には阿部正直が亡くなっていますから、没後40年以上の歳月が経過していたことになります。(大森明恍も、さらにその3年前の、昭和38年(1963年)に亡くなっています。)

Kumono_Hakase001s
雲の博士 阿部雲気流研究所資料展ポスター
—–
開催日時: 平成22年(2010年)11月21日(日)-23日(火)10:00-17:00
場所: 御殿場市民交流センター、ふじざくら第1・2会議室
同時開催: 阿部氏と交流のあった富士山画家、大森明恍画伯展
主催: NPO法人富士賛会議
共催: 御殿場市社会教育課、諸久保歴史研究会
——

このポスターは長男の大森如一さんのご自宅に保管されていた実物を撮影したものです. ポスターの大きさは42 cm x 60 cm.
ポスターの左上には阿部正直博士の顔写真, 右下には大森明恍の若き日の自画像が使われています. なおこの自画像の実物は, 長い間 次女の小林れい子さんのご自宅に保管されていました(K#37).

また、この展覧会が開催される直前、NPO法人富士賛会議の理事長、山本逸郎さんという方が、わざわざ神奈川県川崎市に住む大森如一さんを訪問され、当時のことなどをいろいろと聞いて帰られたとのことです。

このような形で、雲の博士阿部正直と富士山画家大森明恍との交流については、つい最近まで、御殿場市の地元の人々の間では、郷土史の一コマとして記憶されていたようです。


雲の伯爵—富士山と向き合う阿部正直展

これは余談となってしまいますが、2016年、雲の伯爵—富士山と向き合う阿部正直展が東京大学総合研究博物館の主催で開催されました。

The_Count_of_Cloud_s
東京駅の近くのJPタワー(東京中央郵便局)の商業施設KITTE内のインターメディアテク2階で開催された阿部正直展のポスターを撮影したもの. 富士山にかかる巨大な雲の写真が使われています.

阿部正直が富士山にかかる雲の観察に実際に使っていた特殊な機材や、撮影された雲の写真、雲の動きを記録した生々しい動画など、かつて昭和初期、大森明恍が富士山麓の諸久保の西洋風の建物を初めて訪れ、その目にしたに違いない、様々な資料が展示されていました。

大森明恍と渡辺徳逸_1

水曜日, 1月 4th, 2017

愛鷹山の絵巻物を皇太后に献上

昭和15年9月1日の朝日新聞静岡版には、大森明恍が屋外で絵を制作する姿を撮影した写真が掲載されました。記事の内容は、渡辺徳逸氏が、大正天皇が生前、たびたび狩りの目的で訪れていた、愛鷹山周辺のゆかりの地に関する絵巻物(「愛鷹紀勝」)の制作を、画家の大森桃太郎(大森明恍の本名)に依頼していたところ、このほど完成したので、皇太后に献上する手続きをとった、というものです。


Meiko_Ohmori_018s
朝日新聞、昭和15年(1940) 9月1日【静岡版】C, 8面

大正天皇御遺蹟
絵巻物に収めて献上
◇…愛鷹山の主渡邊さん

愛鷹山の開拓者御殿場在須山村渡邊徳逸氏(40)は数年前から愛鷹やその付近に数多き大正天皇の御遺蹟を集録する念願を立て山麓富士岡村諸久保にアトリエを設ける海門大森桃太郎画伯(40)の快諾を得、爾来大森画伯は渡邊氏の案内で峻峰愛鷹六峰に立籠り曾て大正天皇御壮年の御砌り御狩猟あらせられた御遺蹟を描き集録した絵巻物二巻がこの程見事に出来上ったのでこれに詩聖国府犀東氏謹作の詩を添え更に明治四十四年六月十三日大正天皇が近衛部隊演習御観戦御当時の御写真数葉も加えて大正天皇ご誕生の日皇太后陛下の台覧に供すべく三十日岳陽少年団副総長中島鉄哉砲兵大佐が大宮御所に伺候献上の手続きをとった、渡邊徳逸氏は謹んで語る
畏いことながら大森画伯初め多くの人達のご支援を得て漸く多年の念願を果すことができました、この御遺蹟を聖地として何処までも守り続けることが私の使命と考えています【写真は畫く大森画伯・円内は献上の渡邊氏】


この新聞記事の切り抜きは、大森明恍本人が保存していたもので、説明書きも本人の自筆によるものです。さらに、このスクラップブックには、他にも箱に収められた二巻の絵巻物の写真も残されていました。

Meiko_Ohmori_017s
賜 皇太后陛下台覧(1)
絵巻物
愛鷹紀行
題字及び箱書
徳富蘇峰翁(2)
賛詩
国府犀東翁(3)
———-
(1) 貞明皇后(明治17年-昭和26年、1884年-1951年)、大正天皇の皇后
(2) 徳富蘇峰(文久3年-昭和32年、1863-1957)、ジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家
(3) 国府犀東(明治6年-昭和25年、1873-1950)、記者、官僚、漢詩人

静岡県の裾野市、富士山資料館が発行した岳人 渡辺徳逸翁 —富士と共に生きた人生—によりますと、
渡辺徳逸は明治33年(1900年)生まれ、裾野市の出身で、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に学んだ後、裾野市に戻り、生涯、富士山の歴史、文化の研究、富士山の須山口登山道の復興などに関わり、晩年には、富士山資料館の名誉館長を務められたそうです。2006年、105才までご存命であったとのことです。
新聞記事には、愛鷹山の開拓者、あるいは愛鷹山の主として紹介されていますが、昭和3年(1928年)に発生した愛鷹山の遭難事故を契機に、愛鷹山の登山道開発と整備を呼びかけ、登山基地となる山小屋整備に関わったことを指すようです。
富士山に関する登山や歴史・文化を軸にして、多彩な人脈を築き上げられた方のようで、愛鷹紀行の題字や賛詩を、当時の著名文化人であった、徳富蘇峰や国府犀東に依頼したことからも、幅広い人脈の一端をうかがい知ることができます。ともに富士山の麓に住み、ほぼ同じ年齢、しかも富士山にかける並々ならぬ情熱の持ち主、などの共通点から、渡辺徳逸と大森明恍が意気投合したのは、極めて自然の成り行きであったのかもしれません。
渡辺徳逸は郷土愛の強かった方のようなので、愛鷹紀行の制作には、登山道や山小屋の整備に関わった愛鷹山に、一人でも多くの方に関心を寄せてもらい、また訪れてもらいたい、という思いを込めた、プロモーションの意味もあったのかもしれません。それにしても、その発想と行動力は、並外れたもののようです。


時は流れ、それから半世紀も過ぎた52年後になって、平成4年(1992年)9月13日から10月25日まで、静岡県裾野市の富士山資料館で開館15周年記念事業として開催された、富士山麓の文学と芸術-明治、大正、昭和初期-の展覧会で、この愛鷹紀勝(2巻)が展示されたのです。

Fujisan_Shiryokan_006 (2)
平成4年(1992年)、富士山資料館内での展示風景. 手前のガラスケースに愛鷹紀勝(2巻)が, また, 奥の壁には大森明恍の作品が展示されています. この写真は次女の小林れい子さんが保管されていたものです.

当時、渡辺徳逸さんはすでに92才、かなりのご高齢にも関わらず、富士山資料館の名誉館長を務められていたようです。

Fujisan_Bugaku_Geijutsu_001s
裾野市立富士山資料館開館15周年記念事業
富士山麓の文学と芸術
-明治、大正、昭和初期-
平成4年9月13日-10月25日
裾野市教育委員会
裾野市立富士山資料館
———————–
展覧会の小冊子(全23ページ)の表紙. この小冊子は, 長男の大森如一さんが保管されていたものです.

この小冊子の4ページ目、愛鷹紀勝紹介には、この絵巻物制作の経緯について、次のような説明があります。

昭和に入ってから愛鷹山の開発や登山案内等をかねて、当館長(渡辺徳逸)が親交のあった大森画伯に愛鷹山行路之図をお願いしました。
昭和11年の晩春に第1巻の新緑編、盛夏に第2巻の夏景編を完成しました。
御殿場の自宅から通ったり、当時の清水旅館に宿泊したりして1か月ほどで描きあげました。完成した愛鷹紀勝は、多くの人々が観覧しその描画のすばらしさに感心しました。
中島鉄也(三島2連隊の隊長)の紹介で、子爵松平直富氏の手を経て、貞明皇后(大正天皇の御妃)の台覧に供しました。題字は徳富蘇峰。

こちらの文章によると、昭和15年に新聞記事が出る4年も前、昭和11年には、すでに絵巻物としては完成していた、ということになります。新聞記事の内容とは、かなりニュアンスが異なっているようですが、こちらの方が渡辺徳逸ご本人の記憶やお気持ちに正直に沿ったものではないかと思われます。おそらく、昭和初期の新聞記事の内容には、世相を反映したためか、ものの見方に、かなりバイアスがかかっていたようです。

また、この小冊子の5ページから6ページにかけて、長男の大森如一さんによる、父大森明恍の想い出をつづった、次のような文が寄せられました。


大森明恍の思い出

大森如一

父が逝ってほぼ30年になる。
私自身10代も終わり近く、御殿場をはなれ東京に出てしまったので、戦争の傷も癒えようやく活気を取り戻した父の戦後の創作活動を直に接する機会はうすらいでしまった。
絵かきとしての父に興味を抱いたのは学校に入る前頃からだと思う。その当時諸久保に小さな藁葺きの田舎家を借りていたが、そこから2キロ程御殿場側に戻ったところにある阿部雲研究所、阿部正直伯爵の依頼による富士山画の制作によく通っていた。
研究所自体、富士が真正面に見える小高い丘の上にあったが、父の写生物はその研究所をさらに見下ろせる箱根側の斜面にあった。
頃合いを見計らって3時のおやつを運ぶのが私の役目である。
父にとって母が作った蒸しパンとお茶が届けられるのが何よりの楽しみであったようだ。
キャンバスには鉛筆で碁盤の目が入れられていた。父は定規を富士に向かってかざしてはキャンバスに写しとっていく。
子供心にもなんて細かい仕事なんだろうと感心したものである。
阿部研究所の依頼の条件のひとつか、あるいはどの画家も必ず通る道筋かどうか定かでないが、その頃の父の絵は写実的であった。今もその当時の大真面目な作品として大切にしているのが諸久保の富士である。
われわれ子供仲間では学校橋で通っているが、富士岡小学校竈分校への通学路学校橋が鮮明に描かれている。また画面右には御殿場駅に近付く汽車の煙がある、澄んだ空気を裂いて汽笛が聞こえるようである。
芸術性には乏しい一枚の絵かも知れないが、若き日の父とわれわれの生活を想い出す上で貴重な一枚である。

School
諸久保富士(O#10), 御殿場市蔵.

写実に徹した富士と雲の多くは、ほどなく完成した研究所隣接の資料館に納められた。
富士岡村諸久保、車時代の今は何でもない距離だが、その当時は御殿場の街に出るのも大変だった記憶がある。こんな辺ぴなところによく来たもんだと少年期に入った私は少なからず両親を恨みがましく思ったものである。しかし二人共大して気にしている様子もなく、絵かきに貧はつきものと、むしろ楽しんでいる風情すらあったように思う。
九州生まれの父と諸久保は、どう見ても結び付きが薄いように子供心に謎としてあったが、戦後ある雑誌の寄稿文(注1)でそれを知った。
大正8年、画家への志を抱いて上京の途次、沼津近辺の車窓より仰いだ富士の秀麗さに感動、終生の仕事と決意したとか。
特に朝焼け富士が得意であった。というのも早暁の富士が一日の内で一番安定していたし父にとっては、お目覚めの富士から相対することが当然なことと生活の中に溶け込んでいた風であった。
狭い荒屋の雑魚寝の床から抜け出し、厳冬期は子供達を起こさぬようそっと炭火をイーゼルのある仕事部屋(アトリエといいたいがその体裁には程遠い)に運び入れるうしろ姿が今でも思い浮かぶ。幸いにして好天、真っ赤に染まった朝焼け富士とのひと時を満喫すると、機嫌のよい声がひびいてくる。
おーい、みんな起きろ!
亡くなった日も手を付けたばかりの朝焼け富士がイーゼルに掛かっていた。
明日の天気を気にしながら。

大森如一氏: 大森明恍画伯の御長男で、現在神奈川県川崎市に在住。

Meiko_Ohmori_43_c.jpg
富士山絵画(K#43), 富士山こどもの国蔵.
Meiko_Ohmori_138c
富士山絵画(K#138), 個人蔵.

(注1) 芸術新潮(昭和28年7月, 4巻7号)「富士を描いて30年」を指します。長男の大森如一さんも、この記事を読むまで、なぜ諸久保に住むことになったのか、その理由を知らなかったようです。

大森明恍と渡辺徳逸_2

木曜日, 1月 26th, 2017

渡辺徳逸との出会い

大森明恍は、北駿郷土研究の第二年十二月号(昭和9年12月1日発行)に、大森海門のペンネームを使って、岳麓漫歩ところところと題する文章を発表しました。ここには、大森明恍が渡辺徳逸さんに初めて会ったときの様子が、記されています。この文章から、初めて二人が出会ったのは、昭和9年の秋、赤い彼岸花が咲く9月ごろだったようです。

当時、渡辺徳逸さん(文中では渡邊獨逸君と表記)は、足高山保勝会の理事だったとのことです。その頃からすでに、渡辺徳逸さんが須山や愛鷹山を多くの人に紹介しようと熱心に取り組んでいたことがうかがえます。残念ながらインターネットで調べても、現在はそのような名前の組織は見当たりませんでしたが、もしかすると現在では、裾野市の富士山資料館に、渡辺徳逸さんの活動が引き継がれているのかもしれません。

大森明恍は、渡辺徳逸さんの案内で、須山の古寺に伝わる仏像や、古文書などを見せてもらいました。その中で、大森明恍が大いに興味を示したのは、江戸時代、まだ宝永山が噴火する前、須山口が冨士登山のルートとして栄えていたころに登山者に配られていたであろう、木版画でした。右手に聖徳太子、左手に日蓮の像が並んで描かれ、その上に富士山がそびえるという構図です。江戸時代に須山口からの富士登山が盛んだったころに、人々がどのような宗教的な気持ちで登っていたのか、を物語る資料だと考えたようです。あるいは、大森明恍自身が富士山に魅きつけられる理由を、富士山麓に数多く残された史跡に、あるいは資料の中に、探し求めていたのかもしれません。


 

岳麓漫歩ところところ

富士岡 大森海門

一雅人爐邊に座して茶を煎じ、窓外の煙霧軒端に消ゆる雨滴聲、此處草房の静閑、聴ゆるは只門前小渓のセセラギ、時をり中秋百舌鳥のケタタマシキ啼聲。
傍の畫架上、横長き畫布に秋晴の富士一とほり下塗を終えてあり、想出のままに莞爾たり。獨想三昧

〇一

ところ岳南黄瀬川沿ひ、幽境道心の輩と思ひ玉へ、その名を不二般若堂、としか言ふ。
富士の見える裏山へ御案内しませう
と、堂庵の主は僕を誘ひ立ちぬ。名瀑五龍の渓流を見下す幽居の禅室を直に小径を下り、渓流に沿ふて新道を登る、歩きつつ法衣の僧と僕との法戦もどきの珍なる一問一答也呵々、やがて虎谿三笑ならぬ新しきコンクリートの橋梁を渡りてほど高き地形に辿り着く、積翠深霞。一幅の水墨を擴げるが如し、而して正面に大富士の偉観を仰ぐ亦復絶景、西に愛鷹の連峰聳え、東に箱根の連山ゆるなかになだれて又その品格低くからず。
暫く此の絶景に見入る時、衣の袖を引く彼の僧曰く、この美景を眺め居る幸福は、此世乍らの極楽とこそ思はれます、僕心に思へらく、この坊さんちと變だな………
ふと足もとをみれば今を盛りに真赤な彼岸花、ところ狭きまでに咲き競ひたり。
左様、この通り曼殊沙華が咲いています
谿間トウトウ奔流走る。

〇二

南無妙法蓮華経
それは言はずもがな、大日蓮上人の一物語、国家主義を唱導した日蓮と我が富士の霊山とは、切つても切れぬ深い因縁があつたとの譚、彼がその法を世に擴めんとした思想根底には、世人の知る如く常に国家がモットーであつたと同時に、そこには富士山が主となり従となりて、不可分不可離の関係に置かれてゐた。
日蓮は房総半島の一漁村に呱々の聲をあげた。房州方面より朝焼に、夕映に仰ふぎ見る霊峰富士の姿は、直接間接彼を国家中心思想にいやでも、幼時修道の時より感化してしまつたことである。
何事にも人一倍すぐれて、感受性の強烈であつた彼日蓮にして宜なる哉であらふ。
幾度となく人間日蓮の錬磨の辛酸苦闘は積み重ねられ、間断なく襲ひ来たる法難、斯くて大日蓮が完成されつゝあつた時、彼にも理想安住の境が物色されつゝあつた。幼時より純真なる魂に、何時ともなく植えつけられた偉大なる引力、それは三国一の富士の山であつた。又それは彼にとつても、我が日の本の鎮めの象徴でもあつた。
彼の理想郷を築かんとするに、どうして此の霊妙なる消息を遮断し得やうや。
熱烈なる事火の如き日蓮も、勿論一個の立派な富士導者であつた。或る時は富士に登り、富士の麓を巡廻し、たゞ一心に国家安泰を祈願しつゝ歩いたことであらふ。嶮しき巌根に攀ぢ、古き樹根に縋りつゝも、法の為国の為、妙法蓮華経と唱へつゝ、全山に響き渡る信仰をもて……
山霊、山神之が為に定めし悦んだことであらふ。
登山道と云ふ登山道、下山道と云ふ下山道、
裏富士の湖畔、
富士川沿ひの土地、
御題目の聲を轟かして、理想の地を捜し歩いたと思ひ給へ。
されど其処にも此処にも、不幸にして日蓮の理想、即ち安住説法の境は終に実現されなかつた。
彼の計畫はそれより愈々広汎の地域に之を求め、富士を中心とする周囲の山々にまで及んで、遂に富士を眺めるに最も雄大、崇高の感を与える身延の山奥に、最後の決定を下したのであつた。
日蓮は身延の山中に、より憧憬の富岳を讃仰しつゝ………。それには期せずして彼の偉大なる法力を慕ひ寄る衆俗の多きを視るに至つた。
身延山開基の一因は茲にもある。
日蓮は単なる一佛徒ではなかつた、彼には日本帝国があつた。大富士の山があつた。
然して、彼には大霊能力が天恵されてゐた。

〇三

僕はこんなことを思惟し、足高山麓を探勝しつゝ、舊登山道であつたらう往還をめぐり登つて行つた。
御宿—中里—今里—下和田と
この地方の人々にはまだまだ昔の純朴さが多分に遺され、往きづりの里人に須山へと聞けば、いと叮嚀な言葉使ひで親切に教へて呉れる。
夕邉間近く、足高の群峰が秋の陽ざしに暮れかけた頃を旅人の心に、身になりすまして、往昔富士道者の信仰を思ひ姿を偲び、僕自身の疲れも覚えず、登りに登る。斯くしていつしか須山の村里に足を踏み入れた。
幽邃なる雰囲気に、霊峰岳南の門戸然として、遠い太古の秘話を胸中に蔵するが如く、静けき眠を幾千百年と続けて来たものかの様に、
『おゝ、伝説と秘密の鍵』、そんな気持ちを旅人に與えて呉れる山村であつた。
そのかみ諸国から集ひ来つた富士信仰の道者は、珠山(昔は須山でなく珠山又異伝に深山と云ひしとか)の宿で愈々登山の支度を勇ましく固めたであらふ。村の浅間神社付近には登山者の管理、即ち道者を世話する絶対の権威者御師(村では是をオシと呼ぶ)の邸宅が豪壮に勢力を張つて数軒あつたとのこと、語り来れば尽きない。斯かる尊い伝説は他日此地の適任者を煩して詳細記述を希ふこととし、豫て此処の足高山保勝会理事で斯道の熱心研究家、渡邊獨逸君のあることを耳にしてゐたので、同君に面会すると直に
『当村には古佛像がある、先づそれをお見せしたい、或は鎌倉時代の湛慶の作、或は行基の作との傳説がありますが』
とのことであつた。暫く待つて村の寺総代の老人数氏立合の上、愈々須山口の秘佛を拝むべく観音堂が開かれた。渡邊君と老人たちの差出す蝋燭の光に透し見れば、いか様時代物らしく、湛慶か行基かは知らねど、永い歳月度々の修繕に下手な細工をされ、殆ど原形をとゞめざるも憾なり。とは云へこの秘佛、僕の浅薄なる鑑識によるとも多くは徳川初期前後を遡らざるものと思はれた。たゞ一躰古色金箔もその儘に、最も古く床しき厨子のうちの観音像は就中有難き出来にて、この近郷にもさして得難き珍宝たるべし。即ち足利末期—-徳川以前の作と断ぜらる。たゞ右御手の余程後代に作り添へたるはいたく拙なかりき。後に耳にせしが此地古老もこの像を尤も古きものの由にい言へりとか。
暮色漸く濃く夜の帷の閉ざす頃渡邊君に案内され須山口の古墳、深山寺のありしと傳へらるゝ峡谷、比丘尼塚の跡等足早に探り得たが、九月の半と云ふに此所山間の僻村、夕ざれ来れば肌寒さ一人身に沁みて、暮れゆく藁屋根の下チラホラと燈火の瞬くも亦格別の風情あり。
渡邊君は人も知る、故郷須山口の開発に心を委ねて寧日なき前途有為、純情そのものゝ人である。この夜、山里の旅籠屋の一室にて僕のため山なす古文書を持参せられ、僕の問にいと熱心に答へられた博識には全く敬服させられた。とりわけ僕を喜ばせて呉れたは舊須山登山道の絵図面、一は寛文、一は延享この二葉に依つて僕は多大の収穫を得た。また須山口御師の伝記にも興味尽きないものが多くあつた。
尚これら古文書絵図の中に珍らしい軸物一幅を発見して僕は驚喜した。それは昔ながらの木版摺りであるが、向つて右手に聖徳太子が立たれ、左手に僧形の日蓮が合掌礼拝して居り、その上に高く富士山が画いてあつた。実に珍しい尊い参考資料であると思つた。いつ頃のものか知らねど此一幅は僕の富士研究、富士信仰に大いなる啓発をして呉れた、と同時に前記日蓮譚を裏書するよき資料ともなつた。
斯して万感尽きざる思考を抱き足高の根方に心地よき一夜を明した。

〇四

翌朝、また渡邊君を煩し、摩天の老杉亭々たる中に鎮座まします宮居に詣ず。有為転変の世の常とは言へ、富士道者に賑つた昔の珠山浅間神社は、今は既に見る影もなく頽廃してゐるかの如く思はれて、旅人即ち僕の心を寂しくさせた。
まこと、今の世の人々は、神国日本の過去の歴史を忘れ、信仰といふ真の無垢な赤心を喪失しかけてゐる。
おゝ、お山に雲が懸つた。いつかな晴れやうともせぬ中を、必ずまだ古い祠が遺ってゐるに違ひないと思はれたので、渡邊君をそそのかして僕は之が案内を乞ふた。やがて来たれば路傍草深き中に荒寥たる小祠(大山祗命を祭る)あり、祠前に額きて暫し黙祷す。
『此所も昔より何か由緒ありし所ならずや』
と問えば、君曰く
『この路も往昔登山道の一つなりし由にて古老の語り伝ふる所に依れば、当時登山の者或は馬乗ならばこの祠の所で必ず下乗して参拝し、通り過ぎて又乗馬せし所なりと聞く』と答へられた。
こんな話は妙に人の心を温め微笑ませるものである。
これで僕はかねて憧憬せし舊南登山口珠山の古事を聊かながら探知し得たので歓喜の念に耐えなかつた。村はづれまで見送つて呉れた渡邊君と別れ、一途徒歩、大野原へ!!


この文章が書かれた後、昭和11年ごろになって、渡辺徳逸さんの依頼により、大森明恍は愛鷹山の絵巻物の制作にとりかかりることになります。

 

「海門」のサインがある絵はあまり多く残されていません。北駿郷土研究に記事を投稿していた昭和10年前後に描かれた作品に限られるようです。

Meiko_Ohmori_383c
K#383
Mt. Fuji and Pine Trees,
Meiko Ohmori (1901-1963), Watercolor on paper, 1935.
富士山と松,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に墨, 9 x 18.2 cm, 昭和10年.
御殿場市蔵
——
左下に「海門」とあります. 台紙の左下には「昭和十年」とありました. 愛鷹山方面から描いたものかもしれません. 手書きの額を描くのもこのころの作品の特徴のようです. なおK#283の作品にも「海門」のサインがありました.

渡辺徳逸と遺族との交流

昭和38年(1963年)に大森明恍が62才で亡くなった後も、渡辺徳逸さんと大森明恍のご遺族の間には交流が続いていたようです。

Watanabe_Tokuitsu
大森明恍のご遺族が渡辺徳逸さんのお宅を訪問した際に撮影された写真。右から3人目が渡辺徳逸さん。平成4年(1992年)ころの撮影と思われる。次女の小林れい子さんが保管されていたもの。

また、平成7年(1995年)、北駿郷土研究(富士山)の復刻版が出版された際には、渡辺徳逸さんから長男の大森如一さんに、「大森海門先生の御霊前」にと一冊贈呈されました。その際に添えられていた手紙(写し)も残っています。

「ご無沙汰しています
皆さんお元気にお過ごしですか
小生もお蔭で恙(つつが)なく 資料館の充実に只管(ひたすら)努めていますので御安心下さい
さてこの度 御殿場の鈴木君のお骨折で 昭和年代の北駿郷土研究合本が出来ましたので
是非共 海門先生の御霊前に捧呈頂き度う存じます
九年には始めて先生が小生をお訪ね下さり 十一年には愛鷹の絵巻を..
等から富士山を対照に故先生の御活躍記事等多々収められています
何卒ご霊前に供えて下さい
平成七年十一月二十七日
渡辺徳逸96才
大森如一様」

その後もしばらくの間、渡辺徳逸さんと大森如一さんの間では年賀状のやりとりが続いていたとのことです。

大森明恍と梶房吉_1

土曜日, 3月 18th, 2017

梶房吉さんと銀座を歩く

北駿郷土研究昭和9年(1934年)10月号の野中到翁を訪ふには、大森明恍が富士山麓周辺で、野中到の住まいを探し尋ねても、誰も知らなかった、しかし、御殿場の強力の梶房吉だけは知っていた、との記述がでてきます。おそらく、強力としての独自な情報網や人脈をもっていたのではないかと思われます。当時から、梶房吉さんは、名強力としてその名が知られており、また富士山頂への登頂回数が1672回で、この記録はその後長い間、破られることはなかったそうです。新田次郎の小説凍傷ではモデルにもなり、主人公の佐藤順一を助けて活躍します。凍傷によれば、佐藤と梶が冬の富士山頂上で気象観測をしたのは、昭和5年(1930年)1月から2月にかけてでした。

新田次郎が富士山頂上の観測所に勤務したのは、昭和7年(1932年)から昭和12年(1937年)にかけてのことだそうです(芙蓉の人のあとがきより))。大森明恍が野中到翁を訪ふを書いた昭和9年(1934年)ごろ、まさに、新田次郎は富士山頂上で勤務していことになります。

なお、昭和18年(1943年)、大森明恍と梶房吉さんが、スーツ姿で並んで銀座の通りを歩く写真が残されています。小柄ですが、肩幅が広く、いかにも重い荷物を担いで富士山に登る職業に適した体格の持ち主だったようです。ただし、新田次郎の小説、凍傷には、梶房吉は五尺三寸、十五貫、男としては小柄な、およそ強力とは縁遠い身体つきをしているとあります。身長は約161cm、体重は約56kgといったところでしょうか。

Meiko_Ohmori_040s
昭和十八年 三月 銀座付近漫歩のスナップ 野上保美堂主人 富士山名強力 梶房吉君

説明書きは、大森明恍本人によるもの、写真中央が梶房吉さん、左が大森明恍です。なお、右の野上保美堂主人(野上菊松)という方は、日本画の表装などを手掛けていたようです。ちなみに、昭和17年に大森明恍(桃太郎)が富士山画(水墨画)を陸海軍に献納した際には、絵の表装を手がけたようです。

富士山の名強力であった梶房吉さんが、手ぶらで、しかもスーツを着て銀座の街中を歩いている姿には、少々意外な感じを受けます。長男の大森如一さんに理由を尋ねたところ、当時、銀座や日本橋で個展を開催するとき、強力に絵画作品の運搬を依頼をしていたので、その際に撮影したものであろう、とのことです(昭和18年3月にも、銀座で個展を開催したのかもしれません)。また、大森明恍は屋外で制作することが多かったのですが、いろいろな画材を運搬する際も、強力に依頼をしていたそうです。


お山にこもる海門君

さて、昭和9年(1934年)9月8日づけの東京朝日新聞の静岡版に、一風変わった珍しい画家として、大森明恍(本名:大森桃太郎)が写真入りの記事で紹介されました。翌月の10月から気象台の許可を得て、富士山五合目の避難小屋に籠って絵を絵描くという計画が紹介されています。この時のガイド役を梶房吉さんに依頼したようです。

東京朝日新聞静岡版、昭和9年9月8日
東京朝日新聞、静岡版、二版
昭和9年9月8日
「一生に一枚」
富士を描く
お山に籠る海門君
富士山の研究者は決して少なしとしないがこれはお山への熱烈な信仰から気象、地質、植物、考古学等あらゆる分野より見て富士山本来の面目を看破しようと精進を続けている珍しい画家がある——御殿場在富士岡村諸久保の田舎家に隠れている大森桃太郎さん(34)がそれ……号は海門、福岡県芦屋の生まれ持って生まれた九州健児の熱情から一生の中タッタ一枚でいいから富士山のホントにいい絵をかいてみたいという念願ようやく叶って東京から一家をあげて引っ越しこのほどこの辺に「富士山総合美学研究所」を開いた
朝は二時というに飛び起きて隣村陣場の杜に参りに一里半の路を往復したり興が湧けばまづお山に向かって礼拝してサテ絵筆を執るといったような奇術(?)ぶりを発揮して村人を驚かせているが昨今秋冷が加わってきたので今度はお山へ籠ってぢかにお山の霊気に触れ彩管を揮うため気象台の諒解を得て来月早々御殿場口から登山し五合五勺の避難小屋に約一ケ月立て籠って時々刻々に移り変わる雲の形や色を観察スケッチし親しくお山の懐へ飛び込んで研究することになった【写真は研究所の大森さん】

浴衣姿の大森明恍の後ろには、少年の絵が写っているようです。恐らく長男の如一さんを描いたものと思われます。

大森明恍と梶房吉_2に続く

大森明恍と梶房吉_2

日曜日, 4月 2nd, 2017

梶房吉の案内で冬季の富士登山に挑む

北駿郷土研究昭和10年(1935年)1月号から4月号まで4回にわたり、梶房吉(文中ではK君の名前で出てきます)の案内で、大森明恍が冬の富士登山に挑戦したときの紀行文、御山の厳粛が掲載されました。

実際に二人が富士山に入ったのは、昭和9年(1934年)の11月中旬のことだったようです。5合目付近までとはいえ、文章からは、冬の富士登山の厳しい様子が伝わってきます。また、文章中「ピッケル」や「アイゼン」などの記述が出てきますので、昭和の初期とはいえ、しっかりと冬山装備を整えたうえで登山にのぞんだ様子も、うかがわれます。

新田次郎の小説「凍傷」によれば、佐藤順一が梶房吉の協力を得て、冬季の富士山頂で気象観測を行ったのは、昭和5年の1月から2月。この佐藤の成功を受けて、中央気象台が通年観測を開始したのは、昭和7年からなので、その2年後のことです。さらに、そのわずか2年後に大森明恍と梶房吉が富士登山に挑戦したことになります。

なお、この登山では、宿泊場所として、中央気象台の避難小屋を利用していますが、あらかじめ気象台の了解を得ていたことがわかります。おそらく、気象台職員が交代で山頂で勤務するために、万一の場合に備え、すでに登山道にはいくつか避難小屋が整備されていたようです。あるいは高山病を防ぐために、職員が途中で高地順化するという目的もあったかもしれません。文章中には、避難小屋と頂上の気象観測所との間で、電話連絡をするシーンがでてきます。梶房吉は、単なる荷物や物資の運搬という役割を越えて、富士山頂気象観測所の安全や機能を維持する上で欠かせない、重要な役割を担っていたらしいこともうかがわせます。


 

御山の厳粛

大森海門

『六根清浄!!』
先に立ったガイドK君の声は元気だ。横なぐりに吹きつける風雪、夕闇は迫って、ほのかにそれらしいわずかの痕跡を留める登山道も、次第に降り嵩む白雪のため、息せき切れる難行である。

『お山は雪だね!!』
数十歩後から声を張りあげてKの後を追う。寒さは募る。呼吸はますます怪しい。四合五尺を通り過ぎた頃は頂上にも相当嵐の襲来が起こったものか、頂上の姿はおろか六、七合目以上は雪におおわれて、阿修羅の猛り狂うがごとき険悪な山の姿である。

五合目の石室の前にたどり着いた時は五時に近い。雪が白いので割合に足元がほんのり見える。雪もこんな時はもっけの幸いだ。ピッケルを握る手袋を通して冷たい感覚。のどが渇く。一握りの雪を口にほおり込む。先頭のKは雪のある所は凍って滑るから、なるべく岩の出ている所を歩け、と教えてくれる。この嵐のこの闇の近づく中にぐずぐずしているといわゆる命があぶない。それでも元気一杯だ。下から
『六根清浄!!』
と太く叫んで後をつける。たちまちまた突風の襲来、顔も上げ得ず、立ち往生のまま風向きに背を向けて、一本のピッケルに全身の重荷を傾げる。

通り過ぎた突風の後を透かして前方を見れば、十貫目(約37.5 kg)以上の荷物をショイコにして前進するKも突風にあえいで闘っている。
『頑張れ、頑張れ』、
Kは後方の僕を力づけてくれる。五合五尺の石室が近づいた。いよいよ夕闇も濃くなってきたが、ここまでこぎつければ勇気がでる。石室から二曲がり登れば目的の避難所だ。ぐずぐすしていたら、凍死だ。ソレ、もう一息、頑張れ頑張れ。

雪風の中でKは元気よく避難所の表戸をこじ開けると
『おお、着いた』
とうなっている。同時にドーンと僕も戸口にリュックサックをほおり込んだ。そして第一声、
『万歳!!』

用意の懐中電灯をひねると室内は急に明るくなった。中央気象台第二避難所と記した札がかけてある。時計を見れば五時二十分、太郎坊出発一時十分から数えてまさに四時間と三十分、Kは
『普通こんな時、強力は相当な荷を背負って、この行程に五時間かかる。割合に早い方でした』
と言う。

重い登山靴を脱いで、室内にランプの灯をつける。吹雪をついて水を汲んでくる。囲炉裏に木炭を焚く。二人はむしろの上にゴロリとなった。しばらく無言。

戸外はいよいよ深いくら闇、そしてごうごうたる風の音。けたたましき吹雪まじりの窓に叩きつける物凄い騒音、また騒音! 冬山にふさわしき、予想外のセレナーデの序曲が奏でられていく。中に、かくて山籠もりの第一夜が始まる。

守れ浅間、鎮まれ富士よ
冬は男の度胸だめし

五合目の避難小屋
昭和9年11月中旬 富士山ガイドナンバーワン梶房吉君を案内として、第一回の雪中登山をなす。 中央気象台の許可を得、雪中アイゼンを履いて山中に戦うこと一週間。 五合五勺気象台避難所前に立てる私。 雪中 三保の松原 御前崎を眺む

『ご来光だ。』
いつか窓が明るくなっている。疲労の眠りからさめての第一声、表戸を開けて駆け出す。
晴天。白雲皚々(がいがい)。白雲重畳。大波小波の大雲海。ただただ大自然の偉観。
旭日ひんがしに昇天せんとして、今まさに雲表に懸らんとす。地上万物一切無礙(むげ)。我はひたすら、おろがみ奉ることより、何も知らず。

Kも出てきた。
『永い年月の山の生活ですが、何時見てもこの景色に飽きませんよ』
『いや全くの絶景だ。こうして我々二人にのみこの壮観はもったいなさすぎる。世の人々に、いや下界の人類にひとり残らずに、この雄大無辺な宇宙の現象を見せてやりたいものだ。』
と僕も負けずに相槌を打つ。
『でも、ここまで来るには昨日のような苦しいめをみなければ……』
とKが言う。それを想い出しては、ちょっとぞっとする。

が、我々は確かに何物かを征服したという気持ちだ。ゆうべの嵐はあとかたなく、零下十五度の寒冷も一夜明ければ雪上春暖のごときあたたかさである。

雲海にもところどころに変化が起こった。見る間に東北面にあたって、ありありと手に取るごとく、御正体山(みしょうたいやま)の連山が現れる。大群山(おおむろやま)が顔を出した。その右が丹沢連峰だ。北の方に秩父連山が紺青に朝日をうけて、ぽっかりと浮き出したよう。

げに山上のひと時こそは、はてしなく飽かぬ眺めである。

~~~~~~~~~~~~~

勃然として画慾の衝動! 絵の具箱は開けられた。近景に大富士のスロープの一角を入れて、眼下の連山を写すことしばし。

陽は次第に高く昇った。やがて御山の裾を取り巻いていた淡黄色の密雲が晴れたかと思うと、眼前にぽっかり、出た、出た、紺碧の水をたたえた山中湖、築山に泉水、天上界の盆栽だ。

早速、素画にかかる。連山のしわをていねいに入れて、淡彩で空の透明な色と山のコバルト、しばらくして心地よいスケッチに忘我の境涯にいること久し。

ギラギラ雪の反射が強くなって眼が痛い。囲炉裏の傍に駆けこんだ。そこではKが心得顔に圧力釜で朝餉の飯を蒸らかせている。

『さあ、飯にしよう!』
とて、ともに箸をとる。鍋のふたをとれば、これはまた温かさが鼻をつきキャベツの味噌汁、
『こりゃー、ばかにうまいねー』

×××

『もしもし、頂上ですか。そちらは大変な雪でしょうね。ええ、こちらは昨晩相当に積もりましたよ。下の方も二子山まで真っ白です。二合目あたりまで降ったでしょう。はあはあ、では五合五勺でしばらく御厄介になります。はあ、もしもし。そのうち一日二日して、七合八勺まで参ります。ぜひ頂上へはお訪ねする考えです。はあ、では皆さんによろしく、さよなら』

これは食後、頂上観測所の技手さんへかけた、電話を通じてのご挨拶。

地上俗塵を断つこと、海抜九千余百尺、背後には白衣のまとえる女神の立像にも似たる富士の立ち姿。眼下を俯瞰すれば、蕞爾たり北駿の盆地。高く仰げば大空の雲の動きに、ただ恍惚として現実を忘る。

忽然として霧を吐き、悠然として雲をのむ。まこと御山は宇宙の大怪物なり。ただ片時たりと御山と語り、お山と笑うことが吾人の生活の全部となった。

墨をすり、水絵の具を溶かし、戸外寒風に拮抗して一筆えがけば計らざりき紙面氷の結晶。滑稽なる失敗。油絵にかかっても永く耐えられぬ厳寒の威圧。かくして囲炉裏の周囲には何時とはなしに雑然として七つ道具が散積する。

西側窓の下に宝永山の頂が、折からの夕照に映えて黄金色にその尾根伝いの雪庇が美しく輝き始めた頃、宝永山の東面のスロープが逆光になって、青紫の雪の肌に暮れていく。薄暗がりの室の中にもランプが点いた。その燈下で今日一日での数枚の図稿を片付ける。そばからK君が
『第一日目からずいぶん描きましたねえ』
と言う。
『こんな場所ではほかに何も考えず仕事にのみ屈託する故でしょう。何時日が暮れたさえわからなかった。こんな断片スケッチが何十枚となく経験されてから、何年か後に、画らしい画が一枚でも生まれてくれれば、せめてそれが僕のこいねがうところですがね』

そこには用意のあぶり燗が炉端に突っ込んである。先ず山での第一杯をやろう。二人はお互いに無事な山の生活を祝福しあった。K君は山男らしい雄々しい赭色(しゃしょく)の顔、しかも杯を目八分(めはちぶん)を捧げた時のその笑顔。(未完)


初日は、厳しい風雪に見舞われましたが、二日目の朝には、天気が回復して、素晴らしい眺望を満喫することができたようです。刻々と変化する山上からの風景を満喫しつつ、一方では、滞在時間を惜しむかのように、絵画の制作に没頭した様子がうかがえます。

 

文章中、『ただ片時たりと御山と語り、お山と笑うことが吾人の生活の全部となった。』という表現から、大森明恍がすでに生活の中心を富士山画に据えていたことがうかがえます。「御山の厳粛」というタイトルには、冬の富士山の厳しい自然を意味すると同時に、富士山に賭ける画家の後にひけない厳しい決意が込められていたのかもしれません。

Meiko_Ohmori_014_c 
K#13, K#14, K#15 Mt. Fuji in Mid-Winter with Clear Sky, Meiko Ohmori (1901-1963), lithograph on paper, 1962. 晴れた日の厳冬富士, 大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙にリトグラフ, 56 cm x 39 cm, 昭和37年.

 

大森明恍と梶房吉_1に戻る

大森明恍と梶房吉_3に続く

大森明恍と梶房吉_3

土曜日, 4月 8th, 2017

冬の富士山から夜景を楽しむ

引き続き、北駿郷土研究昭和10年(1935年)2月号には、御山の厳粛の続きが掲載されました。大森明恍が梶房吉(文中ではK君)と、冬の富士山の山小屋で夜を過ごしたときの様子が記されています。

山小屋で日本酒を飲み、ほろ酔いで外に出て、眼下に広がる夜景を楽しみます。あちらこちらに点在する、街の灯を一つ一つ確認しながら、ついつい、我が家の方向に目をやり、すでに眠りの床についたであろう、我が子の寝顔を思い浮かべます。長男の如一さんが、昭和5年9月生まれですから、当時はまだ4才だったはずです。


御山の厳粛【二】

大森海門

高山地帯での空気の希薄さは、飯も普通の炊き方では、生煮えにしかならないことは、およそ人の知るところ。しかして酒は普通の地上で飲むよりは、何倍か酔いが早くまわってくると聞かされてきた。それを事実こうして山にこもって、盃を傾けるとなると、噂に聞きしごとく、平常味わいつけた銘酒も一種異様な味覚で喉もとを掠めていく。

ほのゆらぐランプの灯に、鉄扉に当たる風雪の音を聴きながら、山の夜話にふけて二人はいつか陶然となっていく。いささか酔い心地で表戸を開けて外に出る。寒夜雲晴れて、紺青の夜空に星が降る。・・・・・・・・・オッと危ない。脚下を見よ!!
そは幾千万丈! 星の光に白銀の峯づたい、尾根づたい、大富士より瞰下する痛快さ。眼下の室が点々の手にとるがごとく、太郎坊まで見える。

あの電灯が滝ヶ原?
あれが御殿場の町の灯?
左が駿河の町の灯、
そこに須走の村の燈

長尾峠にも燈がみえる。
『あれは国道筋の自動車の燈だろうか?』
『いや、あれは大涌谷の燈ですよ』、
K君の答えになるほど、自分は麓にいた時の見当であったなと、気づけば恥かしい。

夜目に見る箱根、足柄、伊豆の山々を、酔眼もうろうと眺めることしばし。十石峠の航空燈台がピカーリ、ピカーリ、点いたり消えたり。三島の町の燈はにぎやかに見えるが、愛鷹山にさえぎられたか沼津は隠れて見えないようだ。

眼界慣れるにつれて、東のほうに視野を転ずれば、横浜の市街らしく帯をひいたように明るい一団の灯が見える。それから少し離れて、大東京の灯、これは不夜城の大都会だな!

されど正面、長尾峠の真下、わが山荘のある辺りを眺めおろしては、そこには我が子らが、父居ぬ留守をまもりつつ、今は早や眠りにおちていようもの・・・・・・安らかに眠れよ・・・・・・
『ああ、あまり下界を見ていると、里心がついて、ちょっと下山したくなるね。おお寒い。折角のよい酔い心地が醒めてしまう。内に入ることにしよう。』
自分はKを促して室の中に逃げ込む。K君、背後から元気のいい声で

ハアー、お山下れば、ヨイトコリャセ
お山下れば、あかりが招く・・・・・・・・・・・・

と、御殿場音頭を一くさり、唄いながら、表戸をトシンーと閉めた。
・・・・・・・・・・・・
二人は声をそろえて、
『ハッハッハッ』
第二夜—-これで  緞帳。

ムクリムクリと薄気味悪い白雲の海、雲上にゆすぶられながら、われらは深い眠りの中に漂流している。
山の子の揺籃。揺籃の中で、ホット眼がさめた。

自分はかつて、ドイツ物の素晴らしい『ファウスト』のシネマを観たことがある。
『いま一度、あの華やかしい青春を取り返して、思う存分満喫してみたい』
と、そこでファウストは、悪魔メフィスト・フェーレスと堅い約束を結んだ。
メフィストは早速、白髪長鬚の老博士ファウストを呪文とともに、中世紀貴族風の一介の紅顔の美青年に仕立てあげてしまった。

『サア、ご用意ができました。今から貴殿がお望みの麗しい、甘い、青春の国とかへ、ご案内しましょう』
と言う。早速二人は雲に乗った。雲が走り出す。素晴らしい下界の展望が開けていく。雲上のファウストと悪魔は、怒涛のような雲塊とともに遠く遠くへ飛んでいく。行くは行くは、面白いように雲の流れが動いてゆく。・・・・・・当時は若い心に喜んだものだ。この記憶が僕に甦生してきたが、そんなシネマトリックどころでないことは、わかりきった話。今は事実、雲に乗って駆っているようだ。その豪快なこと、言わんかたなし。

箱根、足柄連山の上は雲海。北駿の盆地は、その雲海の下に、朝の色濃く明けていく姿をみせている。丹沢連山の上は、美しい暁のクリーム色の空、ところどころに、薔薇色の柄状雲が現れ出ている。静寂な朝の鳥瞰図である。

遥かに遠く、常陸、上州あたりの模糊(もこ)としたる夜明けの景。その朝もやの中から、筑波の山がぽっかり可愛い頭を二つ並べて立っている。おや! 東京の方面に鳥渡、小さな水溜まりのようなものが光っている。
『何だろう?』
傍らで、日の出前の雲海をカメラにおさているK君にたずねる。
『あれは—、村山の貯水池ですよ』
なるほど、そう聞けばもっともと思われるが、はてさて今さらに富士は偉大なるかなだ。

朝の一時、一枚二枚と筆はいそぐ。筆頭が凍ってカチカチとなる。紙面はまた氷の結晶。


大森明恍が、朝の風景を描くかたわらで、梶房吉は、カメラで雲の風景を撮影していた、との記述がでてきます。今と違って、昭和の初期、携帯できるような小型カメラは相当高額だったようです。家一軒の値段と同じくらいの値段だったとか…。当時、すでに梶房吉は名強力と呼ばれていたようですが、収入も相当良かったようです。

Meiko_Ohmori_385c
K#385
Sun Rise,
Meiko Ohmori (1901-1963), watercolor on paper.
日の出,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に水彩, 10.8 x 30 cm.
————————
この時に描いたかどうかは不明ですが, 富士山への登山中にスケッチブックに水彩で描いた作品と思われます.
名強力 梶房吉君と我が家族
(昭和12年6月 強力内田忠代写す)
如一. 尋常一年生.
————————
富士登山から3年後の家族写真です.長男の如一さんはすでに小学一年生になっていました.

大森明恍と梶房吉_2に戻る

大森明恍と梶房吉_4に続く

大森明恍と梶房吉_4

土曜日, 4月 8th, 2017

冬の宝永山に登る

続いて、昭和10年(1935年)3月1日発行の「北駿郷土研究, 富士山」第3年3月号には「御山の厳粛【三】」が掲載されました。

江戸時代、宝永4年(1705年)に富士山の南東側面が大噴火して、山腹に巨大な火口ができました。現在、その火口壁の盛り上がりが、宝永山と呼ばれており、標高は2693mです。

大森明恍が、梶房吉をモデルにしたスケッチなどをして、吹雪の一日を山小屋でやり過ごした翌日、快晴に恵まれたので、「宝永山に行ってみたいなあ」とつぶやくと、梶房吉は即座に、「行きましょう」と言い、準備を始めます。


御山の厳粛【三】

大森海門

晴天の霹靂(へきれき)。俄然として起こるお山の嵐。扉をたたき、屋根を撃つ。
パタンパタン、鉄扉がはためく、いそいで二重ガラス戸を閉める。表口から、ドンドン吹雪が吹き込む。戸外は一歩も踏み出せぬ深もや。
『これじゃあ、手も足も出やしない』
どっかと囲炉裏の端に座って、嵐の音に耳をそばだてる。
おや、入口の土間に脱ぎ捨てた雪だらけの登山靴、戸口に立てかけたピッケルの配合、こりゃ山の生活だ、画にしよう。

   ◇—◇

こんどは、K君をモデルに顔を描く。
山小屋でのK君は、里で見られぬ緊張と元気の横溢しきった顔である。かねがね自分は、ぜひ、富士山のガイド、ナンバー・ワンとしての君の肖像は描いておきたいと思っていた。君に請うてそのポートレートの第一素画を試みる。くせのある頭髪。はっきりとした眼。プールプルの若々しい頬の色。

会場内部分撮影
富士山名強力
梶房吉君写す.(大森明恍のスクラップブックより)
————————————
昭和13年2月1日より2月5日まで, 富士山画第一回個人展覧会が, 東京銀座資生堂ギャラリーにおいて開催されました. このとき梶房吉さんの肖像画も展示され, さらには梶房吉ご本人もわざわざ来場されてこの絵の写真を撮影された, ということのようです.
画面左下には「富士強力 梶房吉氏像 1934. 11. 14」と書いてあります. この日付はちょうど, この文章「御山の厳粛」に記された富士山登山の日付と一致しているようです.

悪天候の今日は室内勉強で一日を送る。夜はランプの灯りの下でのK君を墨で描く。いつか炉端にえぐり燗が尽き込まれた。ついでにK氏が盃を傾けたところをカリカチュア式に描いてみる。『面白いなあ』、Kは相好を崩して喜んでしまう。

暖炉の火をどんどん焚くせいでもあろうが、山小屋の空気の乾燥はことさらにひどく喉をいため、重苦しい頭痛をさえ覚えてくる。
新しい空気を入れかえて、静かにお休み!

むしろの上に布団を展べて、伴侶の友はいつしか、気持ちのいいいびき。僕はそっと床を抜けて、表に出てみた。昼間の嵐もいつとはなく止んで、雲の切れ間切れ間に岳麓の山々が黒く見えだした。
頭上高天を仰げば、折からの八日月、雲の晴れ間にポッカリ。西へ西へと動いて行く。

    ◇

第四日、快かい晴風。早朝より山の仕事に余念ない。
ギンギラ輝る雪山の反射。戸外に長く立つにも、眼がくらみそうだ。南西の戻より宝永山の頂上に俯下すれば、銀嶺の尾根悠々と南方に突起して、山岳美の妙技、ここに尽きるの感あり。
『行ってみたいなあ、宝永山の頂に』
Kは、
『行きましょう』
と、その声の終わらぬうちに、もはや靴にアイゼンを結え付けている。そこで二人は出発の用意をかためた。

   ◇—◇

雪中登山
六合目より宝永山に向かう(大森明恍本人のスクラップブックより)

六合目の斜面を横這いに、めまいを感じそうな白光の中を、やがて宝永山の尾根にたどり着く。第一噴火口の断崖壁の凄絶なること、赤く黒く、峩々と崩壊して、宛然妖鬼の大口を開きたるがごとく、断崖面に不思議な現象に屹立する屏風岩の奇観。御山の絶嶺を振り仰げは、白雪の衣を着て、夏山に想像だもつかぬ壮大なる偉観である。これを見上げては全身する。足も立ちすくむ。おりから、火口底より西風にあおられて吹き上げてくる煙雲は、セッピイ境を歩行するわれわれの全身をおおい包む。クリーム色の煙雲一過すれば、そこにはまた、眼前に大富士の頂上がくっきり現れ出る。

東海の第一王座という大風格である。ドッシリとおよそ下界で仮想だも許せない、濃い濃い深紺青の空色を背景として、くすしき白頭を聳立させている。かくて御山の大自然を仰ぎ、拝しながら、小さな二つの黒影は、尾根伝いにセッピイの上を、一歩一歩、宝永の絶端へと目ざして、勇敢にもアイゼン踏みさして進む。視野いよいよ広袤(こうぼう)としてひらけ、駿河の海も足もとに、清水湾、三保の松原、久能山、はるかに御前岬が水平線上かすかに消えて行く。西方は身延、七面山から赤石山脈の連続、雲上、小春の天日に直射されつつ、凍り固めた雪上をサックサックと、アイゼンを踏む音のみぞ聞こゆる。

やがて二人は絶端に到着、溶岩上に腰をおろして休憩。

太平洋のかなた、ぽっかりと伊豆大島の影、浮かぶあり、北の方秩父連山を隔てて、遠く遠く日光の男体山も思いのほか近く見出し、やや離れてひときわ高きが、白雪の頂を午前の陽に光らせつつ、霞のかなたに聳え立つ、これ白根山とか聞く。この眺望は、室の付近では、ちょっと見られないものであった。

されどされど、眼下に俯瞰する、これらの大展望よりも、さらに吾人の心を惹きつけ、魂を奪うものは、やはり宝永の大断崖の上に、永遠不滅の大富士の立姿を見上げた、威風堂々たる静けさである。今更ながら、僕は喜んだ。
『俺は絵かきであることを、どんなに感謝しても足りないぞ。』
スケッチブックを開いた。西風が火口内より盛んに吹き上げる。K君はそのため風よけの役になり、風を背中に鉛筆を走らす僕の側面に立ってくれた。

真正面の頂の峰が成就岳。左に駒ヶ岳に三島岳、成就岳の右が生死ヶ窪、それに伊豆岳、旭岳と、手にとるごとく、迫ってくる。大歓喜の中、とうとう一枚のスケッチを終える。

宝永山頂に立ちて 快晴の日(本人のスクラップブックより)

目的を達したと思うと、急に寒さが身にしみる。遠く大スロープの中に黒一点、吾等の室が小さく見える。
『さあ帰ろう』
二人は強烈な西風を背中にうけて、中天の陽光を浴びつつ、今さき辿り来し雪肌を勇ましく帰途へ、帰途へ。

      ◇

室へ帰り着いた。炉端に座すと同時、直に今のスケッチに着色する。そして小品の油絵に直してみる。これは愉快なものになりそうだ。
『今まで宝永山の頂上から富士を見上げて画いたという人は、昔から恐らくないでしょう。しかも冬山だから、なおさら珍しいものですね。』
K君はことごとく、僕の仕事を我が事のごとく喜んでくれる。これは確かに、よきガイドに補導される登山者にとり、言いようのない幸せである。

小屋での夕暮れが近づいた。この時、また宝永山は逆光に薄紫に溶けていく。西の空は真っ赤に焼けて、火の塊のような積雲が次から次へと頭角を現して、瞬間また瞬間の変化を連続させて、はては東へ東へと流れて行く。

油のスケッチ、黒絵のスケッチ、忙しく筆をとばす。今は早や、暮れ果てて、駿河の海が鉛色に反光していく時、愛鷹山の上に伊豆半島が紆余曲折の湾江、岬を突き出して、天城の山など夢にみるような薄ぼんやりと、静中の動。動中の静。かくて残光にゆかしくも、このパノラマは、日没の帷の中に消えて行く。

部屋の中にランプがつく。今日の静かな晴天を讃えつつ、夕食に牛肉をヂリヂリ鍋に煮込みながら、その夜はK君の永い強力経験談を聞く。二人の話はますます、それからそれからへと、花が咲いていく。戸外の雪の華に、寒夜の月光が室の窓から皎皎(こうこう)と差しこむ。小さい灯影の下に、二人は深い海底を泳いでいるような一種のすごみ。それは妖精に魅惑されて地球の髄心までも引き込まれるような感じさえもする。

床の中から高山の寒月を仰ぎ見ながら、二人は枕を寄せて、尽きぬ山の話を続けて果てしがない。

いつとなくK君の語る声も途絶えた。かすかないびきが聞こえてくる。
『先生、とうとう眠ったな』

     ◇—◇

白砂青松。
自分はきれいな海岸を一人とぼとぼ逍遥している。何かを探して歩いている。頭の中はある考えでいっぱいである。
『素晴らしい富士山、今に世に紹介されたことのない、天下未聞の富士の絵を、天長さまが国民にご下命になったのだ。これは何といっても素晴らしいことだ。自分もその募集に応じて、開闢以来誰も画きださなかった、恐ろしく立派な富士山を描きあげて、天長さまに差し上げたい。まあ、ともかく、根かぎり、精かぎり、どこの果てまで行っても、探し出して描いてみよう。』
砂浜らしいところを、やたらに歩く。いろいろな町がある。いろいろな人がいる。自分の心は、その素晴らしいとかの富士山
探すに、躍起となって、人里離れた所を、何処までもどこまでもと、さ迷って行く。

     ◇—◇

浜辺の道は尽きた。もう、ここから先は海だ。歩くわけにはいかない。松林の岬が、ちょいちょい突き出している。ここまで探し求めて来たが、とうとう素晴らしい富士を見出すことが出来なかった。

これで断念しては、あまりに残念だ。逡巡、逡巡。自分はひょいと顔をあげて、海のかなたを遠くを眺めた。高い御空にありありと富士山が現れている。それは無茶苦茶、高い高い富士山だ。今までの、あの神々しいまでに崇高感を盛った、万葉の赤人の歌よりも、周文、雪舟の富士の名画よりも、まだまだ高い感じの素晴らしい富士山だった。
『おお、これだ、これだ。』
雀躍せんとしたが、あまりに薄気味悪いまでに、聳り立った富士ヶ峰だ。茫然として佇む。
『こんなにまでも高い富士山がこの世にあったものだろうか。これは本当なのかい?』
『いや確かに富士賛だ。まだ誰も知らない富士山だ。しかし、ばかに可笑しいまでに高すぎる。』
自分はかく独語しつつも、この不可思議な富士山に眺め入っていた。その富士山の中央を縦に、幾つもの妙な雲が東へ飛んでいる。ヒョロヒョロした尻尾をなびかせた雲である。どう見ても得たいの知れぬ雲である。それでも自分は、またしても見入っていた。何時までもいつまでも眺め入った。


残念ながら、この時に描いたと思われる、冬の宝永山の絵は残っていません。しかしながら、別の機会に、宝永山に登って描いたと思われる絵が、次女の小林れい子さんのお宅に残されていました。季節は夏のようです。確かに尾根状の地形のようであり、もしかすると、冬には、この稜線に沿ってセッピィ(雪庇のことか?)が張り出していたのかもしれません。

Meiko_Ohmori_005c
K#05
At a Crater Wall of Hoeizan on Mt. Fuji,
Meiko Ohmori (1901-1963), oil on canvas/board, July 1938.
富士山 宝永の一角にて,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 板張りキャンバスに油彩, 33.3 x 24.2 cm(F4), 昭和13年7月.
富士山こどもの国蔵
———————
裏面(板)には, 「大森桃太郎画 寶永山火口壁の一角」と本人による説明書きがあります. 短い夏に咲く高山植物と, 激しく流れていく雲の様子が描かれているようです。

大森明恍と梶房吉_3に戻る

大森明恍と梶房吉_5に続く