大森明恍と梶房吉_3

冬の富士山から夜景を楽しむ

引き続き、北駿郷土研究昭和10年(1935年)2月号には、御山の厳粛の続きが掲載されました。大森明恍が梶房吉(文中ではK君)と、冬の富士山の山小屋で夜を過ごしたときの様子が記されています。

山小屋で日本酒を飲み、ほろ酔いで外に出て、眼下に広がる夜景を楽しみます。あちらこちらに点在する、街の灯を一つ一つ確認しながら、ついつい、我が家の方向に目をやり、すでに眠りの床についたであろう、我が子の寝顔を思い浮かべます。長男の如一さんが、昭和5年9月生まれですから、当時はまだ4才だったはずです。


御山の厳粛【二】

大森海門

高山地帯での空気の希薄さは、飯も普通の炊き方では、生煮えにしかならないことは、およそ人の知るところ。しかして酒は普通の地上で飲むよりは、何倍か酔いが早くまわってくると聞かされてきた。それを事実こうして山にこもって、盃を傾けるとなると、噂に聞きしごとく、平常味わいつけた銘酒も一種異様な味覚で喉もとを掠めていく。

ほのゆらぐランプの灯に、鉄扉に当たる風雪の音を聴きながら、山の夜話にふけて二人はいつか陶然となっていく。いささか酔い心地で表戸を開けて外に出る。寒夜雲晴れて、紺青の夜空に星が降る。・・・・・・・・・オッと危ない。脚下を見よ!!
そは幾千万丈! 星の光に白銀の峯づたい、尾根づたい、大富士より瞰下する痛快さ。眼下の室が点々の手にとるがごとく、太郎坊まで見える。

あの電灯が滝ヶ原?
あれが御殿場の町の灯?
左が駿河の町の灯、
そこに須走の村の燈

長尾峠にも燈がみえる。
『あれは国道筋の自動車の燈だろうか?』
『いや、あれは大涌谷の燈ですよ』、
K君の答えになるほど、自分は麓にいた時の見当であったなと、気づけば恥かしい。

夜目に見る箱根、足柄、伊豆の山々を、酔眼もうろうと眺めることしばし。十石峠の航空燈台がピカーリ、ピカーリ、点いたり消えたり。三島の町の燈はにぎやかに見えるが、愛鷹山にさえぎられたか沼津は隠れて見えないようだ。

眼界慣れるにつれて、東のほうに視野を転ずれば、横浜の市街らしく帯をひいたように明るい一団の灯が見える。それから少し離れて、大東京の灯、これは不夜城の大都会だな!

されど正面、長尾峠の真下、わが山荘のある辺りを眺めおろしては、そこには我が子らが、父居ぬ留守をまもりつつ、今は早や眠りにおちていようもの・・・・・・安らかに眠れよ・・・・・・
『ああ、あまり下界を見ていると、里心がついて、ちょっと下山したくなるね。おお寒い。折角のよい酔い心地が醒めてしまう。内に入ることにしよう。』
自分はKを促して室の中に逃げ込む。K君、背後から元気のいい声で

ハアー、お山下れば、ヨイトコリャセ
お山下れば、あかりが招く・・・・・・・・・・・・

と、御殿場音頭を一くさり、唄いながら、表戸をトシンーと閉めた。
・・・・・・・・・・・・
二人は声をそろえて、
『ハッハッハッ』
第二夜—-これで  緞帳。

ムクリムクリと薄気味悪い白雲の海、雲上にゆすぶられながら、われらは深い眠りの中に漂流している。
山の子の揺籃。揺籃の中で、ホット眼がさめた。

自分はかつて、ドイツ物の素晴らしい『ファウスト』のシネマを観たことがある。
『いま一度、あの華やかしい青春を取り返して、思う存分満喫してみたい』
と、そこでファウストは、悪魔メフィスト・フェーレスと堅い約束を結んだ。
メフィストは早速、白髪長鬚の老博士ファウストを呪文とともに、中世紀貴族風の一介の紅顔の美青年に仕立てあげてしまった。

『サア、ご用意ができました。今から貴殿がお望みの麗しい、甘い、青春の国とかへ、ご案内しましょう』
と言う。早速二人は雲に乗った。雲が走り出す。素晴らしい下界の展望が開けていく。雲上のファウストと悪魔は、怒涛のような雲塊とともに遠く遠くへ飛んでいく。行くは行くは、面白いように雲の流れが動いてゆく。・・・・・・当時は若い心に喜んだものだ。この記憶が僕に甦生してきたが、そんなシネマトリックどころでないことは、わかりきった話。今は事実、雲に乗って駆っているようだ。その豪快なこと、言わんかたなし。

箱根、足柄連山の上は雲海。北駿の盆地は、その雲海の下に、朝の色濃く明けていく姿をみせている。丹沢連山の上は、美しい暁のクリーム色の空、ところどころに、薔薇色の柄状雲が現れ出ている。静寂な朝の鳥瞰図である。

遥かに遠く、常陸、上州あたりの模糊(もこ)としたる夜明けの景。その朝もやの中から、筑波の山がぽっかり可愛い頭を二つ並べて立っている。おや! 東京の方面に鳥渡、小さな水溜まりのようなものが光っている。
『何だろう?』
傍らで、日の出前の雲海をカメラにおさているK君にたずねる。
『あれは—、村山の貯水池ですよ』
なるほど、そう聞けばもっともと思われるが、はてさて今さらに富士は偉大なるかなだ。

朝の一時、一枚二枚と筆はいそぐ。筆頭が凍ってカチカチとなる。紙面はまた氷の結晶。


大森明恍が、朝の風景を描くかたわらで、梶房吉は、カメラで雲の風景を撮影していた、との記述がでてきます。今と違って、昭和の初期、携帯できるような小型カメラは相当高額だったようです。家一軒の値段と同じくらいの値段だったとか…。当時、すでに梶房吉は名強力と呼ばれていたようですが、収入も相当良かったようです。

Meiko_Ohmori_385c
K#385
Sun Rise,
Meiko Ohmori (1901-1963), watercolor on paper.
日の出,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に水彩, 10.8 x 30 cm.
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この時に描いたかどうかは不明ですが, 富士山への登山中にスケッチブックに水彩で描いた作品と思われます.
名強力 梶房吉君と我が家族
(昭和12年6月 強力内田忠代写す)
如一. 尋常一年生.
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富士登山から3年後の家族写真です.長男の如一さんはすでに小学一年生になっていました.

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