大森明恍と梶房吉_1

梶房吉さんと銀座を歩く

北駿郷土研究昭和9年(1934年)10月号の野中到翁を訪ふには、大森明恍が富士山麓周辺で、野中到の住まいを探し尋ねても、誰も知らなかった、しかし、御殿場の強力の梶房吉だけは知っていた、との記述がでてきます。おそらく、強力としての独自な情報網や人脈をもっていたのではないかと思われます。当時から、梶房吉さんは、名強力としてその名が知られており、また富士山頂への登頂回数が1672回で、この記録はその後長い間、破られることはなかったそうです。新田次郎の小説凍傷ではモデルにもなり、主人公の佐藤順一を助けて活躍します。凍傷によれば、佐藤と梶が冬の富士山頂上で気象観測をしたのは、昭和5年(1930年)1月から2月にかけてでした。

新田次郎が富士山頂上の観測所に勤務したのは、昭和7年(1932年)から昭和12年(1937年)にかけてのことだそうです(芙蓉の人のあとがきより))。大森明恍が野中到翁を訪ふを書いた昭和9年(1934年)ごろ、まさに、新田次郎は富士山頂上で勤務していことになります。

なお、昭和18年(1943年)、大森明恍と梶房吉さんが、スーツ姿で並んで銀座の通りを歩く写真が残されています。小柄ですが、肩幅が広く、いかにも重い荷物を担いで富士山に登る職業に適した体格の持ち主だったようです。ただし、新田次郎の小説、凍傷には、梶房吉は五尺三寸、十五貫、男としては小柄な、およそ強力とは縁遠い身体つきをしているとあります。身長は約161cm、体重は約56kgといったところでしょうか。

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昭和十八年 三月 銀座付近漫歩のスナップ 野上保美堂主人 富士山名強力 梶房吉君

説明書きは、大森明恍本人によるもの、写真中央が梶房吉さん、左が大森明恍です。なお、右の野上保美堂主人(野上菊松)という方は、日本画の表装などを手掛けていたようです。ちなみに、昭和17年に大森明恍(桃太郎)が富士山画(水墨画)を陸海軍に献納した際には、絵の表装を手がけたようです。

富士山の名強力であった梶房吉さんが、手ぶらで、しかもスーツを着て銀座の街中を歩いている姿には、少々意外な感じを受けます。長男の大森如一さんに理由を尋ねたところ、当時、銀座や日本橋で個展を開催するとき、強力に絵画作品の運搬を依頼をしていたので、その際に撮影したものであろう、とのことです(昭和18年3月にも、銀座で個展を開催したのかもしれません)。また、大森明恍は屋外で制作することが多かったのですが、いろいろな画材を運搬する際も、強力に依頼をしていたそうです。


お山にこもる海門君

さて、昭和9年(1934年)9月8日づけの東京朝日新聞の静岡版に、一風変わった珍しい画家として、大森明恍(本名:大森桃太郎)が写真入りの記事で紹介されました。翌月の10月から気象台の許可を得て、富士山五合目の避難小屋に籠って絵を絵描くという計画が紹介されています。この時のガイド役を梶房吉さんに依頼したようです。

東京朝日新聞静岡版、昭和9年9月8日
東京朝日新聞、静岡版、二版
昭和9年9月8日
「一生に一枚」
富士を描く
お山に籠る海門君
富士山の研究者は決して少なしとしないがこれはお山への熱烈な信仰から気象、地質、植物、考古学等あらゆる分野より見て富士山本来の面目を看破しようと精進を続けている珍しい画家がある——御殿場在富士岡村諸久保の田舎家に隠れている大森桃太郎さん(34)がそれ……号は海門、福岡県芦屋の生まれ持って生まれた九州健児の熱情から一生の中タッタ一枚でいいから富士山のホントにいい絵をかいてみたいという念願ようやく叶って東京から一家をあげて引っ越しこのほどこの辺に「富士山総合美学研究所」を開いた
朝は二時というに飛び起きて隣村陣場の杜に参りに一里半の路を往復したり興が湧けばまづお山に向かって礼拝してサテ絵筆を執るといったような奇術(?)ぶりを発揮して村人を驚かせているが昨今秋冷が加わってきたので今度はお山へ籠ってぢかにお山の霊気に触れ彩管を揮うため気象台の諒解を得て来月早々御殿場口から登山し五合五勺の避難小屋に約一ケ月立て籠って時々刻々に移り変わる雲の形や色を観察スケッチし親しくお山の懐へ飛び込んで研究することになった【写真は研究所の大森さん】

浴衣姿の大森明恍の後ろには、少年の絵が写っているようです。恐らく長男の如一さんを描いたものと思われます。

大森明恍と梶房吉_2に続く