大森明恍と佐藤久二_2

昭和37年(1962年)の12月、大森明恍が個展を開催した会場のなびす画廊あてに、佐藤久二さんから手紙が届きました。当時、佐藤さんは熊本に住んでいたようです。個展には行くことができず残念だが、個展の成功を祈っている、という内容でした。

(表)東京都銀座西1の7 なびす画廊内 富士山画展覧会 大森明恍様 速達便, (裏)熊本市保田窪本町xxx^x 佐藤久二 十二月九日
拝啓、この度は個展ご開催の由、おめでとうございます。またご案内状を賜り、当地に転送されてまいりました。遠くから、ご成功を切に祈ります。この前は、高血圧でお目にかかれず、残念に思いおりましたところ、今回、また九州で残念続き。当地では富士山は珍しいので玄関へ懸けてある絵ハガキ型の夕陽の富士、資生堂展*の際、東北の青年が買約したものと同等くらいの出来栄えで、磯谷の木彫り本金の額に入れてあるもの、来る人毎に感嘆の声を放ち、その度に富士の難しさを説明すると、学識のある人士は納得する。今日もその前でこの案内状を読んでおり、私も貴殿と富士とは永い因縁で今更感慨無量。近作はいろいろかけ違い、拝観の栄は得ずとも、おそらく貴殿ほど富士を多く描いた人は、未だかつて無く、さぞかし今回の個展には心強きものあることと拝察つかまつります。今後一層のご努力のほど、祈り上げます。二つとない良いモデルと取り組んでいることはうらやましき限りです。昔大阪の世界的骨董商山中で高麗焼きの写真を見たが、今なお頭の中に現れる逸品
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*) 資生堂展: 資生堂ギャラリーでの展覧会
で、もちろん写真士も当代の名人だったが、土鍋を写したのでは、あの高貴さは出ないと、今更、貴殿の選んだモデルの偉大さには羨望の極みです。なにとぞ最後の境地に達せんことを切望してやみません。富士の見えない当地でみる富士の画は、今まで気の付かない美しさとまた格別の趣を、毎日私の生活に生かしてくれます。私も、もはや余生短いが今までの経験を生かして、今までの人生より長い人生を暮らす決心でおります。まずは個展のご成功を祈りつつ、近況お報らせまで。末筆ながら皆様によろしくお伝えたまわりたく。敬具
十一月九日
毎朝台所の窓から遠く燦蚕と前の富士とは裏腹な阿蘇を見て私の心に響く
不比内割人* 七十四才となれり
懐かしき 大森大兄机下
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*) 不比内割人は佐藤久二さんのペンネーム

原文は、カタカナ交じりの独特の文体で書かれています。当時の熊本のお住まいの玄関には、富士山の絵がかけてあって、毎日ご覧になっていたとのことです。


大森明恍が亡くなった後も、ときどき、日出子夫人あてに佐藤久二さんから手紙が届いていたようです。

(表) 静岡県御殿場市東山504 大森日出子様, (裏) 佐賀市xxxx 佐藤久二 一月八日
拝復ご無沙汰の段、平に御免。皆様お元気の様子、頂上ご次男君はいかがお暮し候や。さぞかしご成人の事と拝察つかまつり候。私も親しい友人はニ、三人となり、他はほとんど他界。月には行けそうになったが、私には誠に寂しい世界となりました。私も馬齢八十一才となりましたが、一週間ごとに血圧を調べてるが、140-75、五十才程度、気持ちは三十才、自動車の前を通るときは、八十一才老。もうろくしないため、常に勉強しているが、九州の文明は福岡までしか来ないので、ちょっと不便。目下新聞と、佐大口座と、テレビが頭の薬。他に長い人生ではないが、最後までは頑張る。有史以来の月旅行の夢も生きてるうちには難しいが、確実に行けるということが分かっただけでも、生き甲斐はあった。これからはうまく死ぬことだが、大森君のようにうまくいくとよいが。長患いは御免だ。そのために一生懸命頭を使うことにしているが、うまくいくか、神のみ知る。我は努力するのみ。勝手なことのみ申し上げ失礼。御身大切のほど祈り上げ候。 大森様 佐賀にて 久二
お問い合わせの(レンブラント)あれは始めて大森君を児島先生に紹介したとき、勉強の参考にといただいたもので、「ルーブルにあるものと同じもので」美術家や美術愛好家にはまたとない参考品ですが、ルーブル美術館で土産品として多産、販売しているので、したがって参考品としては何万金に値するが「市価はほとんどないものです」 芸術的エッチングでは美術家の良心で始めから何十枚と少ない数しか印刷しない「限定版」で終わると原版を責任をもってこわしてしまう。しかも五十枚限定なら初版はインキの付きが悪いから格安で中程になるほど最高値、終わりに近いものはまた始めと同じくらいの格安となる次第で、従ってオリジナルには本人のサインとともに、何枚目の何枚と10/50とか50/50
とか必ず記してあるものでそれ以外は市価は無いことに成っております。つまり専門家の参考品で財産ではないわけです。 また額縁もその通り。額縁美術館というものが、世界中にあるが、まだ日本にはない。しかしそのうち必ずできるに決まっているが、その時はまたその額はまた市価はないが参考品としては私だけが作れた特許品でそこには時間と費用が莫大にかかったもので、これから作り始めようとしたとき、急に外国行きとなり、あの試作品だけとなり、帰朝したときは忙しくて、とうとうあれだけとなって仕舞ったので、額縁美術館が誕生すれば、唯一の参考品となるわけです。また三越展のときの竹づくりの額縁も特許を取って最初に大森君の個展に使ったもので、三越では各団体の審査員級の画家以外は展覧会ができない
規則になっていたのだそうで、重役連が見て問題となり、大森氏が何の団体にも属さないので重役会議で問題となり美術部長の桜井氏が責任上大事となり。私が推薦したから審査員級かと思い調べもせず貸したわけと善後策を相談されたが、私が自信をもって紹介したと強調すると、三越では社会的地位がないでは困ると、大変問題となった。とたんGHQの美術部長から三越に電話で開催中の大森氏の富士展を是非見たいと、GHQから使者がきて、大騒ぎとなり、当時GHQは昔の天皇以上の権威のあったもので、途中警戒などなかなか大騒ぎとなり、三越の重役連も面喰い出迎えの支度するやら、約一時間というはずが、三時間にもなったので、帰る途中の警戒に警視庁番狂わせとなり、三越重役
連は面目をほどこし、前の問題は解消、美術部長桜井君の首もつながり、その上、一週間を二週間も開催され、また竹の様々な額縁にも興味を覚え、制作者に会いたいと言い出され、私を三越から迎えに来て特許竹額の由来を説明すると、同博士は大喜び、こんなものは日本に来て竹の国とは聞いていたが、初めてと握手を求められ、美術部長も面目たって大喜びの中に閉会。その時の額も本家の私の所には一個も残らず、大森君の所にあればそれが額縁美術館に出せる唯一のものとなる。 これも色々の事で忙しく、特許は取ったがあまり作らなかった。和田三造先生の絵を入れて、米国トルーマン大統領の官邸に一枚あり。また鈴木文司郎リーダーズダイジェスト日本支部長の世話でニューヨーク同本社長の部屋に
一枚あるくらいのもの。当の本家にはレンブラント額も竹製額も一枚もない。あるのは同特許証と図面があるだけ。これは額縁製作上初めてのもので非常に費用が掛かったが、できたのは一枚だけの作品で、竹額も100/100くらいしか作らないが日本額縁の歴史的ものとなることでしょう。我々の周りには参考品としては珍しいものばかりだが、市価にはあまり関係のないものばかりで。品物ばかりではなく、人間もまたしかり。可可。 昭和四十四年一月八日 佐賀にて 号不比内割人 旧日比谷美術館主 大森様

戦後まもなく、三越で開催された大森明恍の個展の経緯について書かれています。