宮内庁の総合美術展に富士山画を100点参考出品

昭和24年(1949年)11月24日から26日まで、宮内庁の講堂で開催された、総合美術展覧会において、富士山画を100展、参考出品したという記録が残っていました。一つは、ガリ版刷りの展覧会の出品目録、もう一つは、本人の手書きの記録です。

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「不盡香」より
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(左)
総合美術展覧会出品目録
(昭和二十四年十一月二十四日→二十九日正午於講堂)
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参考出品
富士山 (御殿場の画家) 大森明恍
(100点)

主催
宮内庁職員組合文化部
絵画同好会
華道研究会
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(右)本人の直筆
昭和二十四年十一月
宮内庁内文化部主催絵画展に
特別出品し
特に皇后陛下に拝謁し
富士山製作二十数年の苦心談を
申上げる
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大森明恍本人が残した記録では、このとき、皇后陛下(当時は昭和天皇の皇后陛下)に直接お目にかかって、富士山画の説明をさせていただいたとのことですが、家人の間には、皇后陛下から「何故、この富士山は赤いの?」とのご質問をいただき、大森明恍は「朝焼けだからでございます」と、答えたとの話が伝わっていました。

証拠が残っているので、このような出来事が実際にあったことについては、疑いようのない事実なのですが、素朴な疑問が、次から次に、いくつでも湧いてきます。ところが、関係者に聞いてみても、きちんと答えられる人はいませんでした。はっきりしたことは誰にも伝えられてはいなかったようです。また、本人がどこまで開催の経緯を把握していたのかも不明です。

このような展覧会は、毎年開かれているものなのか? 開かれているとしても、参考出品という形で宮内庁とは関係のない外部の者が展示できるものなのか? それにしても参考出品数が100点というのはあまりにも多く、本来の職員の同好会の作品数とバランスが崩れていないか? そもそも、当時、他にもっと著名な画家はいくらでもいたと思われるのに、なぜ大森明恍だったのか? 100点もの大量の絵画を誰が、どのようにして運搬し、展示したのか? 考え始めると、あまりにも多くの疑問が湧いてきます。

唯一、ヒントとなりそうなのは、開催時期が、GHQ向けに開かれた富士屋ホテルでの個展から、わずかに1ケ月後に開催されたということかもしれません。展覧会としては、あまりにも開催時期が近いので、まるで、お互いに示し合わせていたようにも見えてしまいます。

当時は、戦後まもなくの混乱期でもあり、皇室の在り方について、GHQと宮内庁の関係者の間では、頻繁に話し合いがもたれていた可能性も考えられます。皇居と当時GHQの本部が置かれていた第一生命ビルの間も、直線にすれば距離的にも近い。ロバート大佐の三越での個展の調査の報告から、大森明恍の富士山画が、まずはGHQの内部で評判となり、それが何時しか宮内庁にも伝えられ、そのお話がたまたま皇后陛下の御耳に入り、ご興味をもたれ、参考出品というイレギュラーな形で、急きょご覧いただくことになったのかもしれません。

恐らく、戦後の混乱期ならではの出来事だったのかもしれません。しかしながら、奇しくも結果的に、大森明恍の絵は、大正天皇の皇后様と、昭和天皇の皇后様のお二人に、直接ご覧いただける機会に恵まれたことになります。