大森明恍と山下清
大森明恍と山下清
大森明恍自身のアルバムに、「放浪のちぎり絵画家」として知られる、山下清さんといっしょに写っている写真が残されていました。阿蘇山をモチーフにして描こうと九州を旅行中、偶然、山下清さんとお会いした、ということのようですが……。
さらに、この写真と全く同じ写真が掲載されている新聞の切り抜きも保管されていました。すでに、紙がかなり黄ばんでいました。
確かに、背広にネクタイを締めた山下清さんの写真は、珍しいのかもしれません。山下清さんは、戦争中、徴兵を逃れるために、日本各地への放浪を始めたそうです。昭和31年当時は、東京の大丸デパートで山下清さんの作品展が開催されて、大変な人気者となり(入場者は80万人を越えたとか…)、個展には当時の皇太子も訪れたそうです。もしかすると、背広を贈った熊本の大洋デパートでも「山下清作品展」の巡回展が開催されていたのかもしれません。
大森明恍と山下清さんの接点は、このとき以外には無いようです。しいて共通点をあげるとすれば、二人とも風景画家であり、いわゆる中央画壇とは、ほとんど縁がなかったことくらいでしょうか。
一方、大森明恍は、このときの九州旅行で、他の有名人にも会っていたようです。
吉葉山潤之輔は第43代横綱で、1920年生まれ、北海道出身。この写真が撮影された昭和31年(1956年)当時は、実際に横綱に在位していました。
1942年に幕下優勝を果たして十両昇進が目前だったときに、応召されてしまい、戦地で少なくとも銃弾2発を浴びたそうです。日本国内では吉葉山の戦死を伝える情報まで流れ、高島部屋の力士名簿からも除籍されていましたが、1946年に復員し、その後相撲界に復帰して、横綱まで登りつめたとのこと。当時は、まだ戦争のいろいろな記憶を抱えながら、活躍されていた方も多かったようです。
一方、吉葉山の後ろにいるのは、安念山治さん(あんねんやま おさむ、1934年生まれ北海道出身)とのことです。安念山関の最高位は関脇で、引退後は立浪親方となりました。昭和31年(1956年)当時は, 幕内力士だった思われます。
旅行中に出会う人物として、山下清さんといい、横綱吉葉山といい、安念山関といい、(名バスガイドさんといい、)偶然にしては、少々できすぎているようです。大森明恍には、熊本日日新聞に知り合いがいて、これらの出会いをアレンジしていたのかもしれません。もしかすると、大森明恍には、出身の旧制中学校、現在の福岡県立東筑高校の同窓生の友人(あるいは先輩、後輩)が新聞社に勤務していたのかもしれません。例えば上の写真で、吉葉山に抱かれているもう一方の紳士とか…..。地方の新聞社が、地方のデパートの絵画展開催をプロデュースしていた、という可能性も十分に考えられます。
大森明恍のアルバムには、他にも、阿蘇外輪山でジープの中から画を描いている写真や、日出子夫人と阿蘇山の火口に登った時の写真も残されていました。
ジープは熊本営林局からお借りしたとのことです。
12月26日とのことで、風も強そうです。地面には積雪も見えますが、こんなときにも、日出子夫人は和服にぞうりを履いていたようです。