接収下の富士屋ホテルで富士山画の個展

大森明恍自身のスクラップブック「不盡香」には、箱根の宮ノ下にある富士屋ホテルでの展示の写真が残っていました。

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大森明恍本人のアルバム「不盡香」より
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昭和二十四年十月下旬
箱根宮ノ下
富士屋ホテルに於て
交通公社あっ旋のもとに三日間
個展開催し米人に展示す

ホテルの客室なのかロビーなのか定かではありませんが、ふかふかの椅子にスーツを着た大森明恍が、やや緊張した顔つきで腰掛けています。後ろの壁にはフレームに入った富士山の絵が展示されていますが、展示場所が足りなかったのか、椅子の背もたれにも額無しの絵が2枚ほど立てかけてあるようです。油彩か水彩かは判然としません。その下には暖房用のスチーム配管らしいものも見えており、当時の高級ホテルらしい雰囲気が感じられます。しかしながら、もしこれが個展の展示会場だとしたら、いかにも急ごしらえであったという印象を受けます。

当時、富士屋ホテルは進駐軍に接収され、進駐軍専用の保養施設として使用されていたそうです。なお、家人の間では、この時、マッカーサー総司令官と富士屋ホテルに、富士山の絵を購入していただいたと伝えられています。

それにしても、何故、進駐軍に接収されていた富士屋ホテルで、大森明恍の富士山画の個展が、わずか3日間のみ開催されたのでしょうか? 本人は具体的なことは何も語っていません。

ただし、戦後の一時期、大森明恍とGHQの関係を示す資料は、いくつか残されていました。昭和22年9月の静岡新聞には、次のような記事が掲載されました。

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静岡新聞
昭和二十二年九月十二日
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富士に魅る
大森画伯・十五年の精進
観光日本の紹介に富士の麗姿を描き続けること十五年、貿易再開に力を得て今その採管に一層の油が乗つた変り種の洋画家がある、現在御殿場町新橋四反田にアトリエを営む明恍大森桃太郎氏(四七)がその人
青年時代、富士への憧れから画家を志し昭和八年九州から岳麓へ移り住んで朝な夕な富士を睨み精魂を尽して描写に努め、既に描きあげた富士は三千を越え戦前毎秋東京に開いた個展出品の傑作中には海を渡つたものも多く、富士観光の世界紹介にはかくれた大きな力となつていた
「日本精神の表象は富士である、生涯を通じ自他共に許す会心の作を一枚だけ描き上げたい」というのが画伯の念願、戦雲去つたいま”観光日本の表徴、民主日本平和国家日本の表象としての富士”を描く事に朝な夕な更にこんしんの努力をそそいでいる。
富士は尊い日本の宝だ、昨年六月三越で開いた個展に総司令部教育情報部長ロバート大佐がわざわざ見えられ、自分は終戦当時ドイツにいたが憧れの富士への念願が叶って日本へ来た、それほど世界の人達は富士へ憧れを持つていると語られた、それだけに美しい富士を描き上げて世界に紹介する責任を感じている
と大森画伯はしみじみと語つている【写真は富士を描く大森画伯】
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この記事によると、前年(昭和21年)に三越で個展を開いた際、GHQ教育情報部長のロバート大佐がわざわざ見に来られたとのことです(教育情報部とは、恐らく「民間情報教育局(略称CIE)」のことを指すと思われます)。戦後まもなくの頃は、言論だけでなく、文化全般、あらゆる分野にわたって統制対象となっていたようなので、単にロバート大佐が絵が好きなので見に来た、というわけではなさそうです。例えば、将棋なども統制すべきかどうかの調査の対象となっていた、というエピソードも残っているようです。ところが、さすがに富士山の絵を統制の対象とする必要まではないと判断されたようで、逆に、大森明恍をおおいに励まして帰っていったようです。

他にも、こんな切り抜きも残っていました。

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大森明恍のアルバム「不盡香」の切り抜きより
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●報導
(新春心の友会計画予告)
一、直心画会開催
会期 昭和二十四年二月一日より二月五日まで
会場 東京銀座七丁目
資生堂美術部画廊にて
主催 大森明恍
〇展覧会開催の会場期日が決定しました。追て其折皆様へご招待案内状を差上げますが。一先ず予告致します。この度の出品画は大体油絵、水彩素描の七、八点の近作です
〇黎明の富士 油絵二十五号
(御殿場の画室にて冬の朝えがく)
一九四七年春より一九四八年春への製作
△先輩佐藤久二大兄(我国額縁界の権威者)の力作に係る額ぶちに入り、真情こもつたデザインに引立てられて、発表出来ることと感謝に堪えません。
その他今夏伊豆西海岸舟山村での楽しい写生画
〇舟山の海 油絵十二号
〇南の窓 同八号
〇九十一翁の肖像 素描
その他小品数点の出品です
この度は水墨画は割愛して発表を見合わせました。ご存じのごとく個展は戦争前より十年来殆ど毎年一回は東京で開催の記録を持つております。従つて其の間に資生堂ギャラリーで催したことも此の度が四度目ではないかと思います。
一昨年度東京三越本店(日本橋)で、水墨画と、油絵併せて五十点を以て個展を開催し、当時、GHQの教育情報部長イーボデン少佐その他のご指導を頂きましたが(東京朝日新聞社のコンネクションで)特に民間情報部長ロバート中佐は御多忙の中を態々三越展覧会場に秘書役を連れて観覧され、長時間に渉って熱心に観照され、望外の賞賛を受けました。そして、ミスター大森の富士の画を将来アメリカに持つて行つて、ニューヨークやワシントンで展覧会を開きたいものだと、懇切に申されました。(当時新聞にこのことが出ました)ほんとうに有難く、何んとも云えぬ元気が湧出ました私共日本人の芸術が遠く海外に進出のお許しが下ることもいづれは実現されるであろうことを、胸中にえがき、一層精進せねばならんと熟熟思います。
その時の立合者は碧川道夫氏小川清澄氏(賀川豊彦先生の前秘書で幸に通訳の労をとつて下さいました)及びフレーム、デザイナーの佐藤久二兄でありました。
この度の開会中是非とも会員諸兄姉のご来場鑑賞をお待ちして居ります。
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(注1) 佐藤久二、当時額縁の代表的なデザイナー。大正2年(1913年)日本最初の画廊(日比谷美術館)を開いた先駆者でもある。
(注2) 碧川道夫(みどりかわ みちお、明治36年(1903年)2月25日 – 平成10年(1998年)3月13日)は日本の映画カメラマン。日本の映画色彩技術の草分け的存在。多くの名作映画の撮影を担当し、『地獄門』で1954年度文部省芸術祭文部大臣賞。
(注3) 賀川豊彦(かがわ とよひこ、1888年(明治21年)7月10日 – 1960年(昭和35年)4月23日)は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。茅ヶ崎の平和学園の創始者である。
(注4) イーボデン少佐、GHQ民間情報教育局新聞課長、インボーデン少佐と同一人物か?
(注5) ロバート中佐、GHQ民間情報教育局言語課長で、当時ローマ字化を計画したとされている、ロバート・キング・ホール少佐と同一人物か?
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この記事は大森明恍自身が発行していた「直心」という同人紙の切り抜きのようです。発行は昭和24年1月となっています。一昨年に日本橋の三越で個展を開いたとありますが、原稿を書いていたのが昭和23年だとすると、一昨年というのは昭和21年ということになり、上の静岡新聞の記事と一致します。こちらの記事では、大佐ではなく、ロバート中佐になっていますが、同一人物と思われます。米国に留学経験のある二人の通訳、しかも一人は宗教関係者(小川清澄氏)、もう一人は芸術関係者(佐藤久二氏)を連れてきたのですから、準備は万端で、単なる富士山画の鑑賞が目的であったとは思われません。例えばですが、富士山信仰と軍国主義の関係を明らかにする、ぐらいの目的はあったのかもしれません。ところが、大森明恍の富士山画を見て、話を聞くと、アメリカに持って行って、ワシントンやニューヨークで展覧会を開きたいものだ、とまで言ったとのこと。もし、それが本当だとすると、大変な褒めようです。

ところで、マッカーサー夫人は吉田博の版画のファンだったと、伝えられています。これは推測ですが、当時ロバート大佐の報告などから、GHQの中で大森明恍の絵も評判となって、その後、マッカーサー夫妻が富士屋ホテルを訪れるタイミングに合わせて、大森明恍の富士山画個展が短期間限定で開催された、という可能性も、もしかするとあるのかもしれません。したがって「交通公社の斡旋」というのは、実態はGHQからの依頼(命令?)であったと解釈するのが自然ではないかというような気がします。

ほぼ同じ時期に、芦ノ湖ごしに白い富士山を描いた線画が残っていました。

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K#436
Mt. Fuji from Hatone Hotel,
Meiko Ohmori (1901-1963), Pen on paper, Dec. 1949.
箱根ホテルよりの富士山,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙にペン, 29.5 x 21 cm, 昭和24年12月.
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左下に「箱根ホテル新館の見える M. Ohmori 1949-12」と説明・サイン・日付があります。当時、富士山画の中にわざわざ建物を描き、しかも「箱根ホテル新館」と具体的な説明まで入れた絵は、他にはほとんどみられません。この年(昭和24年)10月下旬には, 同じく箱根の富士屋ホテルにおいてアメリカ人を相手に富士山画を展示しましたが、個展とこの絵のサインの間に、2ヵ月のずれがあります。もしかすると箱根に滞在中に鉛筆でスケッチをして、帰宅したのち線画に仕上げた、という可能性も考えられます。もしそうだとすると、大森明恍自身は宮ノ下の富士屋ホテルには宿泊せず、芦ノ湖畔の箱根ホテルに滞在して、3日間、そこから富士屋ホテルに通っていたのかもしれません。