大森明恍と小川清澄
大森明恍と小川清澄
大森明恍自身のアルバムに小川清澄氏と二人で、親しげに写っている写真が残されていました。大森明恍本人の書き込みによれば、昭和27年(1952年)に、東京の上北沢で撮影されたもののようです。
小川清澄氏は、日本キリスト教団、松沢教会の牧師さんだったようです。また、松沢教会は、現在も京王線、上北沢駅の近くにあるそうです。したがってこの写真は、昭和27年、大森明恍が御殿場から上京し、松沢教会がある上北沢に小川清澄氏を訪問し、その際に撮影された、ということのようです。そして、その後まもなく、小川氏は亡くなられたようです。
この教会は、もともと大正12年(1923年)の関東大震災の際、被災者の救援のために神戸から賀川豊彦が上京し、松沢(現在の上北沢)で伝道を開始したのが始まりなのだそうです。また、昭和15年(1940年)8月25日には、賀川豊彦と小川清澄は、この教会での礼拝をしていたときに、憲兵隊に連行される、という事件があったそうです。賀川は憲兵隊に厳しく取り調べを受けたそうですが、その後、その話を聞いた当時の外務大臣、松岡洋右が「賀川さんをすぐに出せ。それができないなら、自分が代わりに刑務所に入る」と言ったため、二人は間もなく釈放されたのだそうです。
なお、これは余談ですが、この写真が撮影された昭和27年当時、大森明恍は御殿場市の東山に住んでいました。そのすぐ近くには松岡洋右の元別荘がありました。ただし、松岡洋右ご本人は昭和21年(1946年)、すでに他界され、当時は御子息の松岡志郎さんが住んでおられたようです。現在は、松岡別荘陶磁器館になっています。
それにしても、どうして大森明恍は、そのような牧師さんと親しくなれたのでしょうか?
この写真が撮影された約3年ほど前、大森明恍は御殿場で、「直心」という同人紙を発行していました。昭和24年1月発行の「直心」第5号には、次のような記事がありました。
この記事から、昭和24年(1949年)2月1日から5日まで、銀座の資生堂ギャラリーにおいて個展を開いたことがわかりますが、それ以外にも、この原稿を書いた二年前の昭和21年(1946)には、戦後まもなくにもかかわらず、すでに、日本橋の三越本店で個展を開いていたことがわかります。しかも、そのときに、アメリカの占領軍の文化政策を担当していたと思われる少佐や中佐が、わざわざ大森明恍の展覧会を見に来て、富士山の絵を激賞したこと、その時に小川清澄氏が通訳してくださったこと、などが記されています。
通訳をつとめるほどですから、小川清澄氏は、よほど英語を流ちょうに話すことができたものと推測されます。昭和6年(1931年)に賀川豊彦とともに、アメリカを訪問したという記録もあるようです。また、小川清澄氏と立ち会ってくださった額縁デザイナーの佐藤久二氏という方も、渡米の経験があり英語が話せるようです。GHQは、英語を話すことのできる渡米経験者を通訳として雇っていたのかも知れません。
それにしても、戦後まもなく、大森明恍が日本橋三越で富士山画の個展を開いたときに、アメリカ軍の占領政策の中枢を担っていた将校たちが、わざわざ通訳二人(しかも、宗教関係者と芸術関係者)を連れて、大森明恍の絵を見に来たというのは、何が目的だったのでしょうか? 当時の状況から推測すると、単なる絵画鑑賞だったとは考えにくい。むしろ、ある種の調査、さらに言えば、ある種の検閲が目的だったのかもしれません。当時のGHQの関心事は、日本が二度と軍国主義に戻らないようにすることだったするならば、例えば、「富士山絵画と軍国主義の関係を明らかにする」ことが目的だった可能性も考えられます。結果によっては、個展の即時中止命令が出されて、大森明恍の画家生命が絶たれてしまった可能性もあったのかもしれません。(例えば、藤田嗣治が戦争中に戦争画を描いていたことが原因で、戦後日本にいたたまれなくなって、フランスに戻ったのは、同じ時期、昭和24年(1949年)3月のことだったそうです)
そのときに、たまたま通訳をしていただいたのが小川清澄氏でした。氏には戦前からのいろいろな苦い経験もおありだったでしょうから、通訳というよりも弁護人として、積極的に大森明恍をかばってくださった可能性も考えられます。その結果、大森明恍と富士山画は無罪放免、逆にむしろアメリカ軍の将校達は、大森明恍を大いに励まして帰っていったようです。大森明恍にとっては、小川清澄氏は恩人となり、後々まで、その時の感謝の気持ちを忘れなかった、ということかもしれません。
この時の出来事は、さらに、当時GHQに接収されていた箱根の富士屋ホテルで富士山の個展を開くことにもつながっているようです。
賀川豊彦という人物が、たびたび登場してきました。賀川豊彦は、戦後の一時期、東久邇内閣の参与となり、また、GHQとも関係も深く、その後ノーベル平和賞の候補にもなられたそうです。ところがその一方、戦前、賀川豊彦は、御殿場にも足跡を残していたようです。御殿場市教育委員会が平成22年(2010年)に発行した「御殿場の人物事典」によれば、賀川豊彦は昭和5年(1930年)御殿場の青年たちの依頼を受けて、勉強会を開いたり、農民福音学校高根学園という学校の建設を提案・支援したりしたそうです。このいきさつは、「みくりやと賀川豊彦」というサイトに、より詳細に記されています(「みくりや」は御殿場の古い地名です)。
大森明恍が賀川豊彦と直接面識があったかどうかは、わかっていませんが、当時、御殿場に住んでいた大森明恍が、困窮する御殿場の農民を支援し続けた賀川豊彦に対して、親しみの気持ちと、多大なる尊敬の念とを抱いていたとしても不思議ではないように思われます。それは「直心」において、賀川豊彦に対してだけ「先生」と記していることからも、うかがえるように思われます。