大森明恍と小川清澄

大森明恍と小川清澄

大森明恍自身のアルバムに小川清澄氏と二人で、親しげに写っている写真が残されていました。大森明恍本人の書き込みによれば、昭和27年(1952年)に、東京の上北沢で撮影されたもののようです。

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大森明恍のアルバムより
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1952(昭和27年)→6月8日
小川清澄氏と撮す
上北沢にて
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小川氏今は昇天してその俤を
茲にとどむ…..記念の撮影となった。
上北澤赤須君宅の玄関にて
赤須道美氏写す
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小川清澄氏は、日本キリスト教団、松沢教会の牧師さんだったようです。また、松沢教会は、現在も京王線、上北沢駅の近くにあるそうです。したがってこの写真は、昭和27年、大森明恍が御殿場から上京し、松沢教会がある上北沢に小川清澄氏を訪問し、その際に撮影された、ということのようです。そして、その後まもなく、小川氏は亡くなられたようです。

この教会は、もともと大正12年(1923年)の関東大震災の際、被災者の救援のために神戸から賀川豊彦が上京し、松沢(現在の上北沢)で伝道を開始したのが始まりなのだそうです。また、昭和15年(1940年)8月25日には、賀川豊彦と小川清澄は、この教会での礼拝をしていたときに、憲兵隊に連行される、という事件があったそうです。賀川は憲兵隊に厳しく取り調べを受けたそうですが、その後、その話を聞いた当時の外務大臣、松岡洋右が「賀川さんをすぐに出せ。それができないなら、自分が代わりに刑務所に入る」と言ったため、二人は間もなく釈放されたのだそうです。

なお、これは余談ですが、この写真が撮影された昭和27年当時、大森明恍は御殿場市の東山に住んでいました。そのすぐ近くには松岡洋右の元別荘がありました。ただし、松岡洋右ご本人は昭和21年(1946年)、すでに他界され、当時は御子息の松岡志郎さんが住んでおられたようです。現在は、松岡別荘陶磁器館になっています。


それにしても、どうして大森明恍は、そのような牧師さんと親しくなれたのでしょうか?

この写真が撮影された約3年ほど前、大森明恍は御殿場で、「直心」という同人紙を発行していました。昭和24年1月発行の「直心」第5号には、次のような記事がありました。

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大森明恍のスクラップブック「不盡香」より
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●報導
(新春心の友会計画予告)
一、直心画会開催
会期 昭和二十四年二月一日より二月五日まで
会場 東京銀座七丁目
資生堂美術部画廊にて
主催 大森明恍
〇展覧会開催の会場期日が決定しました。追て其折皆様へご招待案内状を差上げますが。一先ず予告致します。この度の出品画は大体油絵、水彩素描の七、八点の近作です
〇黎明の富士 油絵二十五号
(御殿場の画室にて冬の朝えがく)
一九四七年春より一九四八年春への製作
△先輩佐藤久二大兄(我国額縁界の権威者)の力作に係る額ぶちに入り、真情こもつたデザインに引立てられて、発表出来ることと感謝に堪えません。
その他今夏伊豆西海岸舟山村での楽しい写生画
〇舟山の海 油絵十二号
〇南の窓 同八号
〇九十一翁の肖像 素描
その他小品数点の出品です
この度は水墨画は割愛して発表を見合わせました。ご存じのごとく個展は戦争前より十年来殆ど毎年一回は東京で開催の記録を持つております。従つて其の間に資生堂ギャラリーで催したことも此の度が四度目ではないかと思います。
一昨年度東京三越本店(日本橋)で、水墨画と、油絵併せて五十点を以て個展を開催し、当時、GHQの教育情報部長イーボデン少佐その他のご指導を頂きましたが(東京朝日新聞社のコンネクションで)特に民間情報部長ロバート中佐は御多忙の中を態々三越展覧会場に秘書役を連れて観覧され、長時間に渉って熱心に観照され、望外の賞賛を受けました。そして、ミスター大森の富士の画を将来アメリカに持つて行つて、ニューヨークやワシントンで展覧会を開きたいものだと、懇切に申されました。(当時新聞にこのことが出ました)ほんとうに有難く、何んとも云えぬ元気が湧出ました私共日本人の芸術が遠く海外に進出のお許しが下ることもいづれは実現されるであろうことを、胸中にえがき、一層精進せねばならんと熟熟思います。
その時の立合者は碧川道夫氏小川清澄氏(賀川豊彦先生の前秘書で幸に通訳の労をとつて下さいました)及びフレーム、デザイナーの佐藤久二兄でありました。
この度の開会中是非とも会員諸兄姉のご来場鑑賞をお待ちして居ります。
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(注1) 佐藤久二: 額縁のデザイナーで、大正2年(1913年)日本最初の画廊(日比谷美術館)を開いた先駆者でもあるそうです。
(注2) 碧川道夫(みどりかわ みちお、明治36年(1903年)2月25日 – 平成10年(1998年)3月13日): 映画カメラマン。日本の映画色彩技術の草分け的存在。多くの名作映画の撮影を担当し、『地獄門』で1954年度文部省芸術祭文部大臣賞。(ウィキペディアより引用)
(注3) 賀川豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年(明治21年)7月10日 – 1960年(昭和35年)4月23日): 大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。茅ヶ崎の平和学園の創始者である。(ウィキペディアより引用)
(注4) イーボデン少佐: GHQ民間情報教育局新聞課長、インボーデン少佐と同一人物かもしれません。インボーデン少佐は、戦後直後、新聞・雑誌などの情報統制を担う一方、「二宮尊徳が日本最大の民主主義者」とする文章を書いていたようです。
(注5) ロバート中佐、GHQ民間情報教育局言語課長で、ローマ字化を計画したとされる、ロバート・キング・ホール少佐と同一人物かもしれません。ロバート少佐は、日本語のローマ字化を立案していたそうです。
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この記事から、昭和24年(1949年)2月1日から5日まで、銀座の資生堂ギャラリーにおいて個展を開いたことがわかりますが、それ以外にも、この原稿を書いた二年前の昭和21年(1946)には、戦後まもなくにもかかわらず、すでに、日本橋の三越本店で個展を開いていたことがわかります。しかも、そのときに、アメリカの占領軍の文化政策を担当していたと思われる少佐や中佐が、わざわざ大森明恍の展覧会を見に来て、富士山の絵を激賞したこと、その時に小川清澄氏が通訳してくださったこと、などが記されています。

通訳をつとめるほどですから、小川清澄氏は、よほど英語を流ちょうに話すことができたものと推測されます。昭和6年(1931年)に賀川豊彦とともに、アメリカを訪問したという記録もあるようです。また、小川清澄氏と立ち会ってくださった額縁デザイナーの佐藤久二氏という方も、渡米の経験があり英語が話せるようです。GHQは、英語を話すことのできる渡米経験者を通訳として雇っていたのかも知れません。

それにしても、戦後まもなく、大森明恍が日本橋三越で富士山画の個展を開いたときに、アメリカ軍の占領政策の中枢を担っていた将校たちが、わざわざ通訳二人(しかも、宗教関係者と芸術関係者)を連れて、大森明恍の絵を見に来たというのは、何が目的だったのでしょうか? 当時の状況から推測すると、単なる絵画鑑賞だったとは考えにくい。むしろ、ある種の調査、さらに言えば、ある種の検閲が目的だったのかもしれません。当時のGHQの関心事は、日本が二度と軍国主義に戻らないようにすることだったするならば、例えば、「富士山絵画と軍国主義の関係を明らかにする」ことが目的だった可能性も考えられます。結果によっては、個展の即時中止命令が出されて、大森明恍の画家生命が絶たれてしまった可能性もあったのかもしれません。(例えば、藤田嗣治が戦争中に戦争画を描いていたことが原因で、戦後日本にいたたまれなくなって、フランスに戻ったのは、同じ時期、昭和24年(1949年)3月のことだったそうです)

そのときに、たまたま通訳をしていただいたのが小川清澄氏でした。氏には戦前からのいろいろな苦い経験もおありだったでしょうから、通訳というよりも弁護人として、積極的に大森明恍をかばってくださった可能性も考えられます。その結果、大森明恍と富士山画は無罪放免、逆にむしろアメリカ軍の将校達は、大森明恍を大いに励まして帰っていったようです。大森明恍にとっては、小川清澄氏は恩人となり、後々まで、その時の感謝の気持ちを忘れなかった、ということかもしれません。

この時の出来事は、さらに、当時GHQに接収されていた箱根の富士屋ホテルで富士山の個展を開くことにもつながっているようです。


賀川豊彦という人物が、たびたび登場してきました。賀川豊彦は、戦後の一時期、東久邇内閣の参与となり、また、GHQとも関係も深く、その後ノーベル平和賞の候補にもなられたそうです。ところがその一方、戦前、賀川豊彦は、御殿場にも足跡を残していたようです。御殿場市教育委員会が平成22年(2010年)に発行した「御殿場の人物事典」によれば、賀川豊彦は昭和5年(1930年)御殿場の青年たちの依頼を受けて、勉強会を開いたり、農民福音学校高根学園という学校の建設を提案・支援したりしたそうです。このいきさつは、「みくりやと賀川豊彦」というサイトに、より詳細に記されています(「みくりや」は御殿場の古い地名です)。

大森明恍が賀川豊彦と直接面識があったかどうかは、わかっていませんが、当時、御殿場に住んでいた大森明恍が、困窮する御殿場の農民を支援し続けた賀川豊彦に対して、親しみの気持ちと、多大なる尊敬の念とを抱いていたとしても不思議ではないように思われます。それは「直心」において、賀川豊彦に対してだけ「先生」と記していることからも、うかがえるように思われます。