明治大学の図書館にて大森明恍絵画鑑賞会

昭和24年(1949年)6月25日(土)、26日(日)の二日間、東京の神田駿河台の明治大学、図書館の自習室において、明治大学映画研究会主催の絵画鑑賞会、という名目で数十点の富士山画による個展が開催されたとの記録が残っていました。展示会場での記念写真と、ガリ版刷りの案内状です。

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「不盡香」より
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明治大学内にての富士山個展
昭和二十四年六月
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Meiko_Ohmori_051s

「不盡香」より
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謹啓、新緑溢るる初夏の候となって参りました。
皆々様には益々ご清栄の事とご察し申上げます。
扨て、今回当映画研究部におきましては、従来の映画理論のみにとどまる研究方式の旧殻を脱皮し、新なる分域絵画芸術より深く映画芸術の剔抶研究に努力致して居りますが、此の度、不図も当研究部に於て種々御指導を賜っております大森明恍(桃太郎)画伯の心よき御承諾を得て、画伯の熱情深き筆致による作品数十点を学生一般に開放して頂くこととなりました。つきましては、映画研究部主体のもとに絵画鑑賞会を開催し、皆々様と絵画芸術との好誼を計りたいと思います。
左記の通り時日を定め皆様の御鑑賞の栄を賜らん事を切に御願いいたします。

期日 六月二十五日(土) 二十六日(日)
時間 午前十時より午後六時まで
会場 神田駿ケ台明治大学図書館四階自習室
入場料 無料
明治大学映画研究部
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同じ年の10月に開催された富士屋ホテルでのGHQ向けの個展、11月に開催された宮内庁総合美術展での参考出品も不思議な展覧会でしたが、大学図書館での個展というのもまた不思議な展覧会です。この年に限って、三回も不思議な展覧会が開催されたことになります。

写真の前列中央には大森明恍がスーツ、ネクタイ姿で座っており、その両脇には学生服を着た学生と思われる二人が腕組みをして座っています。後列には女性が二人、左端にはネクタイ姿の顧問の先生らしき人も写っています。後方には、図書室の自習用の机が並んでおり、机の上に椅子を乗せ、椅子の背もたれに絵が固定されているようです。何枚かの絵には富士山が描かれているように見えます。また絵の下には白い紙が貼ってあり、絵のタイトルが書かれているのかもしれません。それにしても、いかにもにわか仕立ての展覧会場です。作品数は多く、この写真からだけでも二十数点の絵画が確認できます。

絵画の個展としては、場所も不自然ですが、展示の仕方としても不自然です。週末とはいえ、図書館の自習室で絵の展示会を開催することを大学が簡単に許可するものなのでしょうか? そもそも、なぜ映画研究会が、映画の鑑賞会ではなくて、大森明恍の富士山画の鑑賞会を開催したのでしょうか? 御殿場から神田駿河台まで、誰がどのようにして数十点もの絵画作品を運搬し、その費用は誰が負担したのでしょうか? 大学の図書館で絵を販売するわけにはいかなかったでしょうから、大森明恍にとっては、どのようなメリットがあったのでしょうか? 詳しいことは何も残っていませんでした。

もし仮に、富士屋ホテルでのGHQ向けの個展がマッカーサー夫妻に見ていただくため、宮内庁総合美術展での参考出品が皇后陛下にご覧いただくため、不自然な形であっても、強引に開催されたものだったとしたら、この明治大学での個展も、絵画鑑賞会の体裁を借りてはいるものの、実は他の誰かに見ていただくことが隠れた目的だったのかもしれません。顔を知られた著名人が、人目につかないように、静かに絵を鑑賞するためには、土曜日曜の大学の図書館は好都合かもしれません。一般の人にとっては、気軽に入り込めない場所でしょうから…。仮にそうだったとしても、それはいったい誰に見せたかったのか? そうまでして見せたかった理由はなぜなのか? 新たな疑問が湧いてきます。

戦後まもなく、三越で開催した富士山画の個展に、GHQのロバート大佐が調査に来た際、通訳として碧川道夫という方も立ち会われたとの記録がありましたが、この方は映画のカメラマンだったとのこと。あるいは、この方とも何か関係があったのかもしれません。