大森明恍と梶房吉_4

冬の宝永山に登る

続いて、昭和10年(1935年)3月1日発行の「北駿郷土研究, 富士山」第3年3月号には「御山の厳粛【三】」が掲載されました。

江戸時代、宝永4年(1705年)に富士山の南東側面が大噴火して、山腹に巨大な火口ができました。現在、その火口壁の盛り上がりが、宝永山と呼ばれており、標高は2693mです。

大森明恍が、梶房吉をモデルにしたスケッチなどをして、吹雪の一日を山小屋でやり過ごした翌日、快晴に恵まれたので、「宝永山に行ってみたいなあ」とつぶやくと、梶房吉は即座に、「行きましょう」と言い、準備を始めます。


御山の厳粛【三】

大森海門

晴天の霹靂(へきれき)。俄然として起こるお山の嵐。扉をたたき、屋根を撃つ。
パタンパタン、鉄扉がはためく、いそいで二重ガラス戸を閉める。表口から、ドンドン吹雪が吹き込む。戸外は一歩も踏み出せぬ深もや。
『これじゃあ、手も足も出やしない』
どっかと囲炉裏の端に座って、嵐の音に耳をそばだてる。
おや、入口の土間に脱ぎ捨てた雪だらけの登山靴、戸口に立てかけたピッケルの配合、こりゃ山の生活だ、画にしよう。

   ◇—◇

こんどは、K君をモデルに顔を描く。
山小屋でのK君は、里で見られぬ緊張と元気の横溢しきった顔である。かねがね自分は、ぜひ、富士山のガイド、ナンバー・ワンとしての君の肖像は描いておきたいと思っていた。君に請うてそのポートレートの第一素画を試みる。くせのある頭髪。はっきりとした眼。プールプルの若々しい頬の色。

会場内部分撮影
富士山名強力
梶房吉君写す.(大森明恍のスクラップブックより)
————————————
昭和13年2月1日より2月5日まで, 富士山画第一回個人展覧会が, 東京銀座資生堂ギャラリーにおいて開催されました. このとき梶房吉さんの肖像画も展示され, さらには梶房吉ご本人もわざわざ来場されてこの絵の写真を撮影された, ということのようです.
画面左下には「富士強力 梶房吉氏像 1934. 11. 14」と書いてあります. この日付はちょうど, この文章「御山の厳粛」に記された富士山登山の日付と一致しているようです.

悪天候の今日は室内勉強で一日を送る。夜はランプの灯りの下でのK君を墨で描く。いつか炉端にえぐり燗が尽き込まれた。ついでにK氏が盃を傾けたところをカリカチュア式に描いてみる。『面白いなあ』、Kは相好を崩して喜んでしまう。

暖炉の火をどんどん焚くせいでもあろうが、山小屋の空気の乾燥はことさらにひどく喉をいため、重苦しい頭痛をさえ覚えてくる。
新しい空気を入れかえて、静かにお休み!

むしろの上に布団を展べて、伴侶の友はいつしか、気持ちのいいいびき。僕はそっと床を抜けて、表に出てみた。昼間の嵐もいつとはなく止んで、雲の切れ間切れ間に岳麓の山々が黒く見えだした。
頭上高天を仰げば、折からの八日月、雲の晴れ間にポッカリ。西へ西へと動いて行く。

    ◇

第四日、快かい晴風。早朝より山の仕事に余念ない。
ギンギラ輝る雪山の反射。戸外に長く立つにも、眼がくらみそうだ。南西の戻より宝永山の頂上に俯下すれば、銀嶺の尾根悠々と南方に突起して、山岳美の妙技、ここに尽きるの感あり。
『行ってみたいなあ、宝永山の頂に』
Kは、
『行きましょう』
と、その声の終わらぬうちに、もはや靴にアイゼンを結え付けている。そこで二人は出発の用意をかためた。

   ◇—◇

雪中登山
六合目より宝永山に向かう(大森明恍本人のスクラップブックより)

六合目の斜面を横這いに、めまいを感じそうな白光の中を、やがて宝永山の尾根にたどり着く。第一噴火口の断崖壁の凄絶なること、赤く黒く、峩々と崩壊して、宛然妖鬼の大口を開きたるがごとく、断崖面に不思議な現象に屹立する屏風岩の奇観。御山の絶嶺を振り仰げは、白雪の衣を着て、夏山に想像だもつかぬ壮大なる偉観である。これを見上げては全身する。足も立ちすくむ。おりから、火口底より西風にあおられて吹き上げてくる煙雲は、セッピイ境を歩行するわれわれの全身をおおい包む。クリーム色の煙雲一過すれば、そこにはまた、眼前に大富士の頂上がくっきり現れ出る。

東海の第一王座という大風格である。ドッシリとおよそ下界で仮想だも許せない、濃い濃い深紺青の空色を背景として、くすしき白頭を聳立させている。かくて御山の大自然を仰ぎ、拝しながら、小さな二つの黒影は、尾根伝いにセッピイの上を、一歩一歩、宝永の絶端へと目ざして、勇敢にもアイゼン踏みさして進む。視野いよいよ広袤(こうぼう)としてひらけ、駿河の海も足もとに、清水湾、三保の松原、久能山、はるかに御前岬が水平線上かすかに消えて行く。西方は身延、七面山から赤石山脈の連続、雲上、小春の天日に直射されつつ、凍り固めた雪上をサックサックと、アイゼンを踏む音のみぞ聞こゆる。

やがて二人は絶端に到着、溶岩上に腰をおろして休憩。

太平洋のかなた、ぽっかりと伊豆大島の影、浮かぶあり、北の方秩父連山を隔てて、遠く遠く日光の男体山も思いのほか近く見出し、やや離れてひときわ高きが、白雪の頂を午前の陽に光らせつつ、霞のかなたに聳え立つ、これ白根山とか聞く。この眺望は、室の付近では、ちょっと見られないものであった。

されどされど、眼下に俯瞰する、これらの大展望よりも、さらに吾人の心を惹きつけ、魂を奪うものは、やはり宝永の大断崖の上に、永遠不滅の大富士の立姿を見上げた、威風堂々たる静けさである。今更ながら、僕は喜んだ。
『俺は絵かきであることを、どんなに感謝しても足りないぞ。』
スケッチブックを開いた。西風が火口内より盛んに吹き上げる。K君はそのため風よけの役になり、風を背中に鉛筆を走らす僕の側面に立ってくれた。

真正面の頂の峰が成就岳。左に駒ヶ岳に三島岳、成就岳の右が生死ヶ窪、それに伊豆岳、旭岳と、手にとるごとく、迫ってくる。大歓喜の中、とうとう一枚のスケッチを終える。

宝永山頂に立ちて 快晴の日(本人のスクラップブックより)

目的を達したと思うと、急に寒さが身にしみる。遠く大スロープの中に黒一点、吾等の室が小さく見える。
『さあ帰ろう』
二人は強烈な西風を背中にうけて、中天の陽光を浴びつつ、今さき辿り来し雪肌を勇ましく帰途へ、帰途へ。

      ◇

室へ帰り着いた。炉端に座すと同時、直に今のスケッチに着色する。そして小品の油絵に直してみる。これは愉快なものになりそうだ。
『今まで宝永山の頂上から富士を見上げて画いたという人は、昔から恐らくないでしょう。しかも冬山だから、なおさら珍しいものですね。』
K君はことごとく、僕の仕事を我が事のごとく喜んでくれる。これは確かに、よきガイドに補導される登山者にとり、言いようのない幸せである。

小屋での夕暮れが近づいた。この時、また宝永山は逆光に薄紫に溶けていく。西の空は真っ赤に焼けて、火の塊のような積雲が次から次へと頭角を現して、瞬間また瞬間の変化を連続させて、はては東へ東へと流れて行く。

油のスケッチ、黒絵のスケッチ、忙しく筆をとばす。今は早や、暮れ果てて、駿河の海が鉛色に反光していく時、愛鷹山の上に伊豆半島が紆余曲折の湾江、岬を突き出して、天城の山など夢にみるような薄ぼんやりと、静中の動。動中の静。かくて残光にゆかしくも、このパノラマは、日没の帷の中に消えて行く。

部屋の中にランプがつく。今日の静かな晴天を讃えつつ、夕食に牛肉をヂリヂリ鍋に煮込みながら、その夜はK君の永い強力経験談を聞く。二人の話はますます、それからそれからへと、花が咲いていく。戸外の雪の華に、寒夜の月光が室の窓から皎皎(こうこう)と差しこむ。小さい灯影の下に、二人は深い海底を泳いでいるような一種のすごみ。それは妖精に魅惑されて地球の髄心までも引き込まれるような感じさえもする。

床の中から高山の寒月を仰ぎ見ながら、二人は枕を寄せて、尽きぬ山の話を続けて果てしがない。

いつとなくK君の語る声も途絶えた。かすかないびきが聞こえてくる。
『先生、とうとう眠ったな』

     ◇—◇

白砂青松。
自分はきれいな海岸を一人とぼとぼ逍遥している。何かを探して歩いている。頭の中はある考えでいっぱいである。
『素晴らしい富士山、今に世に紹介されたことのない、天下未聞の富士の絵を、天長さまが国民にご下命になったのだ。これは何といっても素晴らしいことだ。自分もその募集に応じて、開闢以来誰も画きださなかった、恐ろしく立派な富士山を描きあげて、天長さまに差し上げたい。まあ、ともかく、根かぎり、精かぎり、どこの果てまで行っても、探し出して描いてみよう。』
砂浜らしいところを、やたらに歩く。いろいろな町がある。いろいろな人がいる。自分の心は、その素晴らしいとかの富士山
探すに、躍起となって、人里離れた所を、何処までもどこまでもと、さ迷って行く。

     ◇—◇

浜辺の道は尽きた。もう、ここから先は海だ。歩くわけにはいかない。松林の岬が、ちょいちょい突き出している。ここまで探し求めて来たが、とうとう素晴らしい富士を見出すことが出来なかった。

これで断念しては、あまりに残念だ。逡巡、逡巡。自分はひょいと顔をあげて、海のかなたを遠くを眺めた。高い御空にありありと富士山が現れている。それは無茶苦茶、高い高い富士山だ。今までの、あの神々しいまでに崇高感を盛った、万葉の赤人の歌よりも、周文、雪舟の富士の名画よりも、まだまだ高い感じの素晴らしい富士山だった。
『おお、これだ、これだ。』
雀躍せんとしたが、あまりに薄気味悪いまでに、聳り立った富士ヶ峰だ。茫然として佇む。
『こんなにまでも高い富士山がこの世にあったものだろうか。これは本当なのかい?』
『いや確かに富士賛だ。まだ誰も知らない富士山だ。しかし、ばかに可笑しいまでに高すぎる。』
自分はかく独語しつつも、この不可思議な富士山に眺め入っていた。その富士山の中央を縦に、幾つもの妙な雲が東へ飛んでいる。ヒョロヒョロした尻尾をなびかせた雲である。どう見ても得たいの知れぬ雲である。それでも自分は、またしても見入っていた。何時までもいつまでも眺め入った。


残念ながら、この時に描いたと思われる、冬の宝永山の絵は残っていません。しかしながら、別の機会に、宝永山に登って描いたと思われる絵が、次女の小林れい子さんのお宅に残されていました。季節は夏のようです。確かに尾根状の地形のようであり、もしかすると、冬には、この稜線に沿ってセッピィ(雪庇のことか?)が張り出していたのかもしれません。

Meiko_Ohmori_005c
K#05
At a Crater Wall of Hoeizan on Mt. Fuji,
Meiko Ohmori (1901-1963), oil on canvas/board, July 1938.
富士山 宝永の一角にて,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 板張りキャンバスに油彩, 33.3 x 24.2 cm(F4), 昭和13年7月.
富士山こどもの国蔵
———————
裏面(板)には, 「大森桃太郎画 寶永山火口壁の一角」と本人による説明書きがあります. 短い夏に咲く高山植物と, 激しく流れていく雲の様子が描かれているようです。

大森明恍と梶房吉_3に戻る

大森明恍と梶房吉_5に続く