大森明恍の富士山麓風景_1
土曜日, 11月 5th, 2016山麓風景
大森明恍は、富士山麓の諸久保、四反田、東山(いずれも現在の御殿場市内)を転居しました。そして、家の周りの富士山麓から見える風景画も多く残しました。
大森明恍は、富士山麓の諸久保、四反田、東山(いずれも現在の御殿場市内)を転居しました。そして、家の周りの富士山麓から見える風景画も多く残しました。
大森明恍は、森や林の中の小道を描いた風景画も多く残しました。先が見通せないような曲がった小道の絵が多いようです。このままこの道を進んでゆくと、この先、いったいどんな風景が見えてくるのか、期待と不安との両方が感じられます。大森明恍が生涯をかけてたどった「富士山画家」という小道を歩みつつ、そのときどきに感じた心象風景を表現したものかもしれません。
K#23
Village Road,
oil on canvas, Sept. 1962.
村道,
キャンバスに油彩, 31.8 x 41.0 cm (F6), 昭和37年9月末.
東山ロッヂ蔵
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キャンバスの裏に自筆で「村道 大森明恍画 一九六二年九月末」との記載があります。
K#25
View of Higasiyama,
Meiko Ohmori (1901-1963), oil on canvas/board,
東山風景,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 板張りキャンバスに油彩, 41.0 x 31.8 cm (F6).
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板の裏にチョークで「東山風景F6」と記されています。
K#145
Winding Path,
Meiko Ohmori (1901-1963), oil on canvas, 1953.
森の小道,
大森明恍(明治34年-昭和38年), キャンバスに油彩, 31.8 x 41.0 cm (F6), 昭和28年.
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画面左下に「M. Ohmori 1953」とのサインがあります。
K#89
Meiko Ohmori (1901-1963), watercolor on paper, 1954.
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に水彩, 35 x 50 cm, 昭和29年.
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画面右下に「M. Ohmori 1954」とのサインか書かれています.
K#58
Meiko Ohmori (1901-1963), watercolor on paper, Feb. 19, 1952.
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に水彩, 26 x 37 cm, 昭和27年2月19日.
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画面左下に「(明)2-19/1952」の記載があります. 昭和27年(1952)当時は東山に住んでいました.
K#118
Path in Forest of Higashiyama,
Meiko Ohmori (1901-1963), watercolor on paper,
東山 森のある道,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に水彩, 23.5 x 16.0 cm.
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額が入っていた段ボール箱に「東山 森のある道」と書かれていました。
<h4id=”top”>庭の風景
大森明恍は、自宅の庭や自宅周辺の風景を描いた絵も多く残しました。
</h4id=”top”>
大森明恍は、日本各地を訪れて、その土地土地の風景画も描きました。特に、石廊崎や潮岬など、岬の風景を描いた絵が多く残されています。 空にそびえ立つ富士山を描いた一方で、陸から海に突き出した岬にも魅かれていたようです。世の中から突き出すようにして、「富士山画家」としての生涯を貫いた大森明恍にとっては、岬の風景に対しても、自らの姿を重ね合わせていたのかもしれません。
穏やかな海もあれば、荒波が岩に打ち寄せる荒々しい海もあり、沖をゆく舟も描いた絵もあります。海の色もさることながら、空の雲にも、その時々の表情が描き分けられているようです。
昭和27年(1952年)9月から12月までの、約4ヶ月間、大森明恍は北海道の各地を訪れて、作品を制作しました。
K#65,
Mashuko in Autumn,
Meiko Ohmori (1901-1963), oil on canvas, Oct. 1952
秋の摩周湖,
大森明恍(明治34年-昭和38年), キャンバスに油彩, 21 x 25 cm, 昭和27年10月.
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キャンバスの裏に, 本人により「秋の摩周湖 一九五二年十月 大森明恍画」との記載があります. 紅葉が鮮やかです.
大森明恍の摩周湖での記念写真. 写真左下に”Oct. 7 1952 Lake Mashu”とあります. 作品K#65の制作と同時期に撮影したものと思われます.
また, 写真の裏には本人により「摩周湖畔にて 一九五二・十月 父より 贈 霊子君」との記載があります. 次女のれい子さんに贈られたものです.
K#430
Mt. Shari and Lake Mashu,
Meiko Ohmori (1901-1963), Watercolor on paper, Sep. 30, 1952.
摩周湖上の斜里,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に水彩, 24 x 18 cm, 昭和27年9月30日.
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左下に「9-30 摩周湖上の斜里」とあります。K#65より少し前に、ほぼ同じ位置から描いたようです。紙の裏の下には鉛筆で「102.1952.9.30」と書いてありました。
K#95
Meiko Ohmori (1901-1963),
6 o’clock at Sapporo Clock Tower, watercolor on paper, Sept., 1952.
大森明恍(明治34年-昭和38年),
札幌の時計六時, 紙に水彩, 48 x 29 cm, 昭和27年9月.
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右下に「札幌の時計六時 1952 Sep.(明)」と記されています.
K#112
Mt. Shari (Mitsui Farm),
Meiko Ohmori (1901-1963), oil on canvas, 1952,
斜里岳(三井農場),
大森明恍(明治34年-昭和38年), キャンバスに油彩, 53.0 x 45.5 cm (F10), 昭和27年.
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画面右下に「M. Ohmori 1952」、またキャンバスの木枠には本人により斜里岳(三井農場) 大森明恍画
と記されています. 斜里岳は, 北海道の知床半島にある火山. 標高1,547mで, 日本百名山の一つに数えられています. 三井農場は, 明治末期に三井グループが斜里町で大規模な農地の開墾を行いました. 後に三井農林となり、一時期酪農製品に進出しました.
K#111
Mt. Shari (Mitsui Farm),
Meiko Ohmori (1901-1963), oil on canvas, 1952,
斜里岳,
大森明恍(明治34年-昭和38年), キャンバスに油彩, 65.2 x 45.5 cm (M15), 昭和27年.
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キャンバスの木枠に本人により「斜里岳 大森明恍」と記されています. K#112とほぼ同じ構図ですが, 山の頂にはすでに雪が積もっています.
K#119
Nemuro Channel,
Meiko Ohmori (1901-1963), watercolor on paper, Dec. 5, 1952.
根室海峡,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に水彩, 37.8 x 29.5 cm, 昭和27年12月5日.
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画面左下に「(明) 根室海峡 一九五二年十二月五日」と記されています.
K#43
Love of Pig,
Meiko Ohmori (1901-1963), watercolor on paper, Oct. 4, 1952.
豚の愛情,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に水彩, 36 x 24 cm, 昭和27年10月4日.
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左下に「1952 Oct-4 (明)」(桃)の落款. 鉛筆で「斜里三井農場ニテ」と記されています. また紙の裏の左下「(173) 1952 10/4 斜里三井農場にニテ 豚の愛情 」と記されています.
北海道で撮影された記念写真. この写真は次女のれい子さんが保管されていました. 後方には釧路港でしょうか, 海が見えています. 写真の裏には, 本人により「昭和27年(1952)9月3日, 北海道釧路にて, 明治鉱業会社社員, 西野氏の案内で」と記されています. 中央が大森明恍本人, 左は日出子夫人, 右は明治鉱業の西野さんという方ではないかと思われます.
昭和27年(1952年), 大森明恍の北海道滞在にあたっては, 北海道の経済界の方々に多大なご支援をいただいたようです.
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大森明恍画伯後援者名(順序不同)
国有鉄道 北海道総支配人 浅井政治 (この方は, 昭和29年(1954)の洞爺丸事故で遭難されました)
株式会社五番館 常務取締役 三苫茂 (五番館は, 札幌駅前の百貨店でした)
帝国銀行 札幌支店長 浅沼光太郎
明治鉱業株式会社 常務取締役 小堀巌 (明治鉱業は北海道で炭鉱を経営していた会社です)
雪印乳業株式会社 社長 佐藤貢
北海道電力株式会社 副社長 藤森賢三
北洋相互銀行株式会社 社長 壽原九郎
日本甜菜製糖株式会社 社長 宮本來治
札幌土地株式会社 社長 江連定一 (この方は1958年より札幌学院大学理事長を務められました)
王子製紙工業株式会社 札幌事務所長 吉井襄
北海道炭鉱汽船株式会社 札幌事務所長 緒方勇
株式会社 栗林商会 会長 森島靖雄
三井木材株式会社 常務取締役 田鍋唯一
第一通商株式会社 札幌支店長 高田房三
三井鉱山株式会社 取締役芦別鉱業所長 川口忠
三菱鉱業株式会社 取締役北海道事務所長 石田三朝
国有鉄道 札幌鉄道管理局長 佐藤武
太平洋炭鉱株式会社 札幌事務所長 矢野健太郎
明治鉱業株式会社 札幌支店長 廣田勝馬(この方は, 大森明恍の(旧制)福岡県立東筑中学校時代の同期生(20回)のようです)
北海道に滞在中, 札幌市では, 出身の旧制中学校の同窓会が開かれたようです.
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昭和27年12月17日夜, 札幌市エルム山荘にての東筑会会合記念
明治鉱業札幌支店長 廣田勝馬(20回)
札幌市北辰病院耳鼻科部長医博 久保田信元(19回)
札幌市北王べにや会社重役 加留部善次(6回)
大森明恍(20回)
札幌駅前ゴム機械加藤安之助商店代表 向野浄巳(17回)
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この写真は長男の大森如一さん宅に保管されていたものです. 写真裏の説明書きは大森明恍本人によるものです. 東筑会は, 福岡県立東筑高校(旧制東筑中学校)の同窓会です. また, エルム山荘は, 札幌市の料亭で現在のエルムガーデンのようです. この写真から廣田勝馬さんと大森明恍は, 旧制中学校の同期生(20回)だったということがわかります.
大森明恍の没後, 平成12年(2000年), 次女のれい子さんが, 北海道のウタリ協会弟子屈支部を通じて, 弟子屈町屈斜路コタンアイヌ民俗資料館に, 北海道滞在中に屈斜路コタンの人々を描いた油彩画1点, スケッチ6点を寄贈しました. 写真中央の油彩画に描かれている男女は, 当初, アイヌの老夫婦を描いたものと思われていましたが, その後 アイヌ文化振興財団の岩谷光男氏の調査により, 夫婦ではなく, 男性は山中酉蔵さん, 女性は弟子豊治さんの叔母さん(ともに故人)と判明したそうです.
なお, 「芸術新潮」と「日本美術年鑑」とは明らかに別の書籍なので, 上記の大森明恍の説明文には若干の混乱が見られるようです.
昭和11年(1936年)、大森明恍(当時、大森海門という号を用いていた)は、 足高山須山村保勝会 渡辺徳逸さんからの依頼により「愛鷹山行路の図」という絵巻物を二巻描きました (いずれも裾野市富士山資料館 蔵)。このうち第一巻目は「新緑編」と名付けられました。水墨に水彩で色付けしたようです。 巻物の幅は45cm、長さは全体で5.5mもあるそうです。その後、詳しい経緯は不明ですが、徳富蘇峰に題字を書いてもらい、「愛鷹紀勝」とも呼ばれるようになりました。今回裾野市富士山資料館のご厚意により、巻物の写真を何枚かに分けて提供していただきましたので紹介いたします。
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第二巻(盛夏編)に続く>>
昭和11年(1936年)大森明恍(大森海門)は、須山の渡辺徳逸さんからの依頼により「愛鷹紀勝」という絵巻物を二巻描き、このうち第二巻目は「 夏景編 」と名付けられました。第一巻「新緑編」とほぼ同じ構図ですが、夏の風景を色数を抑えほぼ水墨のみで表現したようです。 今回裾野市富士山資料館様のご厚意により、巻物の写真を何枚かに分けて提供していただきましたので紹介いたします。
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