大森明恍と渡辺徳逸_2

渡辺徳逸との出会い

大森明恍は、北駿郷土研究の第二年十二月号(昭和9年12月1日発行)に、大森海門のペンネームを使って、岳麓漫歩ところところと題する文章を発表しました。ここには、大森明恍が渡辺徳逸さんに初めて会ったときの様子が、記されています。この文章から、初めて二人が出会ったのは、昭和9年の秋、赤い彼岸花が咲く9月ごろだったようです。

当時、渡辺徳逸さん(文中では渡邊獨逸君と表記)は、足高山保勝会の理事だったとのことです。その頃からすでに、渡辺徳逸さんが須山や愛鷹山を多くの人に紹介しようと熱心に取り組んでいたことがうかがえます。残念ながらインターネットで調べても、現在はそのような名前の組織は見当たりませんでしたが、もしかすると現在では、裾野市の富士山資料館に、渡辺徳逸さんの活動が引き継がれているのかもしれません。

大森明恍は、渡辺徳逸さんの案内で、須山の古寺に伝わる仏像や、古文書などを見せてもらいました。その中で、大森明恍が大いに興味を示したのは、江戸時代、まだ宝永山が噴火する前、須山口が冨士登山のルートとして栄えていたころに登山者に配られていたであろう、木版画でした。右手に聖徳太子、左手に日蓮の像が並んで描かれ、その上に富士山がそびえるという構図です。江戸時代に須山口からの富士登山が盛んだったころに、人々がどのような宗教的な気持ちで登っていたのか、を物語る資料だと考えたようです。あるいは、大森明恍自身が富士山に魅きつけられる理由を、富士山麓に数多く残された史跡に、あるいは資料の中に、探し求めていたのかもしれません。


 

岳麓漫歩ところところ

富士岡 大森海門

一雅人爐邊に座して茶を煎じ、窓外の煙霧軒端に消ゆる雨滴聲、此處草房の静閑、聴ゆるは只門前小渓のセセラギ、時をり中秋百舌鳥のケタタマシキ啼聲。
傍の畫架上、横長き畫布に秋晴の富士一とほり下塗を終えてあり、想出のままに莞爾たり。獨想三昧

〇一

ところ岳南黄瀬川沿ひ、幽境道心の輩と思ひ玉へ、その名を不二般若堂、としか言ふ。
富士の見える裏山へ御案内しませう
と、堂庵の主は僕を誘ひ立ちぬ。名瀑五龍の渓流を見下す幽居の禅室を直に小径を下り、渓流に沿ふて新道を登る、歩きつつ法衣の僧と僕との法戦もどきの珍なる一問一答也呵々、やがて虎谿三笑ならぬ新しきコンクリートの橋梁を渡りてほど高き地形に辿り着く、積翠深霞。一幅の水墨を擴げるが如し、而して正面に大富士の偉観を仰ぐ亦復絶景、西に愛鷹の連峰聳え、東に箱根の連山ゆるなかになだれて又その品格低くからず。
暫く此の絶景に見入る時、衣の袖を引く彼の僧曰く、この美景を眺め居る幸福は、此世乍らの極楽とこそ思はれます、僕心に思へらく、この坊さんちと變だな………
ふと足もとをみれば今を盛りに真赤な彼岸花、ところ狭きまでに咲き競ひたり。
左様、この通り曼殊沙華が咲いています
谿間トウトウ奔流走る。

〇二

南無妙法蓮華経
それは言はずもがな、大日蓮上人の一物語、国家主義を唱導した日蓮と我が富士の霊山とは、切つても切れぬ深い因縁があつたとの譚、彼がその法を世に擴めんとした思想根底には、世人の知る如く常に国家がモットーであつたと同時に、そこには富士山が主となり従となりて、不可分不可離の関係に置かれてゐた。
日蓮は房総半島の一漁村に呱々の聲をあげた。房州方面より朝焼に、夕映に仰ふぎ見る霊峰富士の姿は、直接間接彼を国家中心思想にいやでも、幼時修道の時より感化してしまつたことである。
何事にも人一倍すぐれて、感受性の強烈であつた彼日蓮にして宜なる哉であらふ。
幾度となく人間日蓮の錬磨の辛酸苦闘は積み重ねられ、間断なく襲ひ来たる法難、斯くて大日蓮が完成されつゝあつた時、彼にも理想安住の境が物色されつゝあつた。幼時より純真なる魂に、何時ともなく植えつけられた偉大なる引力、それは三国一の富士の山であつた。又それは彼にとつても、我が日の本の鎮めの象徴でもあつた。
彼の理想郷を築かんとするに、どうして此の霊妙なる消息を遮断し得やうや。
熱烈なる事火の如き日蓮も、勿論一個の立派な富士導者であつた。或る時は富士に登り、富士の麓を巡廻し、たゞ一心に国家安泰を祈願しつゝ歩いたことであらふ。嶮しき巌根に攀ぢ、古き樹根に縋りつゝも、法の為国の為、妙法蓮華経と唱へつゝ、全山に響き渡る信仰をもて……
山霊、山神之が為に定めし悦んだことであらふ。
登山道と云ふ登山道、下山道と云ふ下山道、
裏富士の湖畔、
富士川沿ひの土地、
御題目の聲を轟かして、理想の地を捜し歩いたと思ひ給へ。
されど其処にも此処にも、不幸にして日蓮の理想、即ち安住説法の境は終に実現されなかつた。
彼の計畫はそれより愈々広汎の地域に之を求め、富士を中心とする周囲の山々にまで及んで、遂に富士を眺めるに最も雄大、崇高の感を与える身延の山奥に、最後の決定を下したのであつた。
日蓮は身延の山中に、より憧憬の富岳を讃仰しつゝ………。それには期せずして彼の偉大なる法力を慕ひ寄る衆俗の多きを視るに至つた。
身延山開基の一因は茲にもある。
日蓮は単なる一佛徒ではなかつた、彼には日本帝国があつた。大富士の山があつた。
然して、彼には大霊能力が天恵されてゐた。

〇三

僕はこんなことを思惟し、足高山麓を探勝しつゝ、舊登山道であつたらう往還をめぐり登つて行つた。
御宿—中里—今里—下和田と
この地方の人々にはまだまだ昔の純朴さが多分に遺され、往きづりの里人に須山へと聞けば、いと叮嚀な言葉使ひで親切に教へて呉れる。
夕邉間近く、足高の群峰が秋の陽ざしに暮れかけた頃を旅人の心に、身になりすまして、往昔富士道者の信仰を思ひ姿を偲び、僕自身の疲れも覚えず、登りに登る。斯くしていつしか須山の村里に足を踏み入れた。
幽邃なる雰囲気に、霊峰岳南の門戸然として、遠い太古の秘話を胸中に蔵するが如く、静けき眠を幾千百年と続けて来たものかの様に、
『おゝ、伝説と秘密の鍵』、そんな気持ちを旅人に與えて呉れる山村であつた。
そのかみ諸国から集ひ来つた富士信仰の道者は、珠山(昔は須山でなく珠山又異伝に深山と云ひしとか)の宿で愈々登山の支度を勇ましく固めたであらふ。村の浅間神社付近には登山者の管理、即ち道者を世話する絶対の権威者御師(村では是をオシと呼ぶ)の邸宅が豪壮に勢力を張つて数軒あつたとのこと、語り来れば尽きない。斯かる尊い伝説は他日此地の適任者を煩して詳細記述を希ふこととし、豫て此処の足高山保勝会理事で斯道の熱心研究家、渡邊獨逸君のあることを耳にしてゐたので、同君に面会すると直に
『当村には古佛像がある、先づそれをお見せしたい、或は鎌倉時代の湛慶の作、或は行基の作との傳説がありますが』
とのことであつた。暫く待つて村の寺総代の老人数氏立合の上、愈々須山口の秘佛を拝むべく観音堂が開かれた。渡邊君と老人たちの差出す蝋燭の光に透し見れば、いか様時代物らしく、湛慶か行基かは知らねど、永い歳月度々の修繕に下手な細工をされ、殆ど原形をとゞめざるも憾なり。とは云へこの秘佛、僕の浅薄なる鑑識によるとも多くは徳川初期前後を遡らざるものと思はれた。たゞ一躰古色金箔もその儘に、最も古く床しき厨子のうちの観音像は就中有難き出来にて、この近郷にもさして得難き珍宝たるべし。即ち足利末期—-徳川以前の作と断ぜらる。たゞ右御手の余程後代に作り添へたるはいたく拙なかりき。後に耳にせしが此地古老もこの像を尤も古きものの由にい言へりとか。
暮色漸く濃く夜の帷の閉ざす頃渡邊君に案内され須山口の古墳、深山寺のありしと傳へらるゝ峡谷、比丘尼塚の跡等足早に探り得たが、九月の半と云ふに此所山間の僻村、夕ざれ来れば肌寒さ一人身に沁みて、暮れゆく藁屋根の下チラホラと燈火の瞬くも亦格別の風情あり。
渡邊君は人も知る、故郷須山口の開発に心を委ねて寧日なき前途有為、純情そのものゝ人である。この夜、山里の旅籠屋の一室にて僕のため山なす古文書を持参せられ、僕の問にいと熱心に答へられた博識には全く敬服させられた。とりわけ僕を喜ばせて呉れたは舊須山登山道の絵図面、一は寛文、一は延享この二葉に依つて僕は多大の収穫を得た。また須山口御師の伝記にも興味尽きないものが多くあつた。
尚これら古文書絵図の中に珍らしい軸物一幅を発見して僕は驚喜した。それは昔ながらの木版摺りであるが、向つて右手に聖徳太子が立たれ、左手に僧形の日蓮が合掌礼拝して居り、その上に高く富士山が画いてあつた。実に珍しい尊い参考資料であると思つた。いつ頃のものか知らねど此一幅は僕の富士研究、富士信仰に大いなる啓発をして呉れた、と同時に前記日蓮譚を裏書するよき資料ともなつた。
斯して万感尽きざる思考を抱き足高の根方に心地よき一夜を明した。

〇四

翌朝、また渡邊君を煩し、摩天の老杉亭々たる中に鎮座まします宮居に詣ず。有為転変の世の常とは言へ、富士道者に賑つた昔の珠山浅間神社は、今は既に見る影もなく頽廃してゐるかの如く思はれて、旅人即ち僕の心を寂しくさせた。
まこと、今の世の人々は、神国日本の過去の歴史を忘れ、信仰といふ真の無垢な赤心を喪失しかけてゐる。
おゝ、お山に雲が懸つた。いつかな晴れやうともせぬ中を、必ずまだ古い祠が遺ってゐるに違ひないと思はれたので、渡邊君をそそのかして僕は之が案内を乞ふた。やがて来たれば路傍草深き中に荒寥たる小祠(大山祗命を祭る)あり、祠前に額きて暫し黙祷す。
『此所も昔より何か由緒ありし所ならずや』
と問えば、君曰く
『この路も往昔登山道の一つなりし由にて古老の語り伝ふる所に依れば、当時登山の者或は馬乗ならばこの祠の所で必ず下乗して参拝し、通り過ぎて又乗馬せし所なりと聞く』と答へられた。
こんな話は妙に人の心を温め微笑ませるものである。
これで僕はかねて憧憬せし舊南登山口珠山の古事を聊かながら探知し得たので歓喜の念に耐えなかつた。村はづれまで見送つて呉れた渡邊君と別れ、一途徒歩、大野原へ!!


この文章が書かれた後、昭和11年ごろになって、渡辺徳逸さんの依頼により、大森明恍は愛鷹山の絵巻物の制作にとりかかりることになります。

 

「海門」のサインがある絵はあまり多く残されていません。北駿郷土研究に記事を投稿していた昭和10年前後に描かれた作品に限られるようです。

Meiko_Ohmori_383c
K#383
Mt. Fuji and Pine Trees,
Meiko Ohmori (1901-1963), Watercolor on paper, 1935.
富士山と松,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙に墨, 9 x 18.2 cm, 昭和10年.
御殿場市蔵
——
左下に「海門」とあります. 台紙の左下には「昭和十年」とありました. 愛鷹山方面から描いたものかもしれません. 手書きの額を描くのもこのころの作品の特徴のようです. なおK#283の作品にも「海門」のサインがありました.

渡辺徳逸と遺族との交流

昭和38年(1963年)に大森明恍が62才で亡くなった後も、渡辺徳逸さんと大森明恍のご遺族の間には交流が続いていたようです。

Watanabe_Tokuitsu
大森明恍のご遺族が渡辺徳逸さんのお宅を訪問した際に撮影された写真。右から3人目が渡辺徳逸さん。平成4年(1992年)ころの撮影と思われる。次女の小林れい子さんが保管されていたもの。

また、平成7年(1995年)、北駿郷土研究(富士山)の復刻版が出版された際には、渡辺徳逸さんから長男の大森如一さんに、「大森海門先生の御霊前」にと一冊贈呈されました。その際に添えられていた手紙(写し)も残っています。

「ご無沙汰しています
皆さんお元気にお過ごしですか
小生もお蔭で恙(つつが)なく 資料館の充実に只管(ひたすら)努めていますので御安心下さい
さてこの度 御殿場の鈴木君のお骨折で 昭和年代の北駿郷土研究合本が出来ましたので
是非共 海門先生の御霊前に捧呈頂き度う存じます
九年には始めて先生が小生をお訪ね下さり 十一年には愛鷹の絵巻を..
等から富士山を対照に故先生の御活躍記事等多々収められています
何卒ご霊前に供えて下さい
平成七年十一月二十七日
渡辺徳逸96才
大森如一様」

その後もしばらくの間、渡辺徳逸さんと大森如一さんの間では年賀状のやりとりが続いていたとのことです。