富士山画を橿原神宮に献納

昭和15年(1940年)、大森明恍は一枚の富士山画(油彩画、M10号)を奈良県の橿原神宮に献納しました。大森明恍自身によるスクラップ・ブックである「不盡香」には、作品の写真と、献納を伝える当時の新聞記事の切り抜きが残されていました。

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橿原神宮献納画
皇紀2600年(昭和15年, 1940年)2月11日 暁天ニ作画セル精神的作品(油絵10号海形)
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なお、絵の右下には「皇紀二千六百年二月十一日暁天 大森桃太郎謹みて畫く」とあります. ちなみに, 2月11日は神武天皇が即位した日とされており、戦前は紀元節と呼ばれる祝日でした.
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東京日日新聞、昭和15年(1940年)2月18日
生涯を打ち込んで畫く霊峰の姿
橿原神宮へ大森桃太郎氏が会心の作品を献納
画壇の変わり者で富士山研究家として知られている大森桃太郎氏(40)は今年の紀元2600年を心から祝う民草の一人として、その感激の筆になる富士山の絵を一点橿原神宮へ献納すべく目下手続き中であるが、この献納画は10号の小さい作品ではあるが、氏の従来描いた富士山もの数千点の中でも特に光った傑作であり、何よりもここ二十年来富士山のみを専ら対象として傍目もふらずに制作に熱中、遂には7年前妻子を伴って家族全部が富士山と共に生活するため御殿場の富士山麓富士岡村諸久保へ移住したという熱心家であるだけ、近頃の美しい話題となっている、桃太郎氏は語る
「私は九州福岡の出身ですが、どういうものか若い時東上の途中汽車の中から一目眺めた富士山の姿にすっかり惚れてしまい、以来富士山許りを対象に何枚も何枚もの制作に集中してきました、私の全生涯は富士山研究のために捧げようとはっきり覚悟はついていますから、もう二度と東京などへは住むことはないと思います」(写真は大森桃太郎氏とその献納画)
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大阪毎日新聞、昭和15年(1940年)6月3日
橿原神宮へ富士山の絵奉納
大森桃太郎画伯の作
霊峰富士のみを対象として制作をつづけること十数年、東京画壇の変わり種富士山麓富士岡村字諸久保大森桃太郎画伯(40)は2600年を祝って橿原神宮に力作奉納を思い立ち、表富士の威容を10号大のカンヴァスに写生、桜の額縁に収め二日本社の斡旋で橿原神宮に奉納、午後1時半その奉納奉告祭に臨んだ。
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さらに「不盡香」には、御殿場の自宅の前で記念に撮影したと思われる写真もありました。

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昭和十五年五月三十日
献納奉告祭に出発の日
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大森明恍本人は燕尾服姿、この正装姿で奉告祭に臨んだものと思われます。その隣には長男の如一さんが小学校の制服と思われる服をきて立っています。さらに後ろには愛犬ポールらしい犬の後ろ姿も写っています。(犬の名前はポール・セザンヌからとったそうです)

この年、昭和15年(1940年)は神武天皇の即位から2600年にあたることを記念して各地で様々な行事が盛大にとり行われたそうです。特に橿原神宮には神武天皇がお祀りされていることから、多くの参拝者(1000万人)が訪れたようです。

一方、この年、ヨーロッパではドイツ軍がオランダ、ベルギー、フランスなど他国を次々に占領していました。日本では7月に近衛内閣が成立して、松岡洋右が外務大臣に任命された年でもあります。この年の8月、賀川豊彦と小川清澄は、松沢教会での礼拝の後、憲兵隊に連行されました。洋画家の藤田嗣治が、パリが占領される直前、日本に帰国したのも、この年です。

本人が意図していたのかどうかは、定かではありませんが、このころから、時代が大森明恍の富士山画に対して、何らかの特別な価値や意味を見出し始めたように見えます。

また、この作品には姉妹作があったようです。

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橿原神宮献納画の姉妹作
天理教教庁管長
中山正善氏蔵(油十号)
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この絵の持ち主となられた、中山正善(1905-1967)という方は、天理教第二代目の管長で、教祖である中山みきのひ孫にあたられるようです。稀代の蒐集家としても知られているようなので、もしかすると絵画作品も集めておられたのかもしれません。昭和初期は、天理教の信者数が最も多かった時期にもあたるとされており、多い時には300万人から500万人であったそうです。このような著名な方に購入していただいたということは、おそらく画家として大変名誉なことだったと思われます。


時は流れ、昭和32年9月22日づけの朝日新聞が残されていました。大森明恍は、自身が紹介されている新聞の切り抜きについては、欠かさずスクラップブックやアルバムに貼り残していたようですが、この新聞については、どこにも大森明恍が紹介されていませんし、またスクラップブックに貼られてたわけでもありませんでした。よく見ると、奈良県の特集記事が掲載されており、その一角に「二つの宗教都市」として、天理市と橿原市が紹介されていました。

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朝日新聞、昭和32年(1957年)9月22日
二つの宗教都市
大和にある宗教都市、橿原と天理の横顔をみよう。
学校から療養所まで完備
(天理)
三百万といわれる天理教信徒の”メッカ”天理は習志野南十キロ。仏都のすぐ近くに新興宗教の老舗が出来たのは皮肉。街には「天理」と染めぬいたハッピ姿があふれて活気がみなぎっている。二十二億円の工費と延百五十万信徒の「ひのきしん」(奉仕)によって出来た地下二階、地上四階、延一万四千三百坪余の「おやさとやかた」が献灯に映え威容を誇っている。昨年は教祖七十年祭には百三十万信徒が全国から集まり、当日は七百台のバスが街にあふれ、犬の子一匹も通れなかったという。
教会本部運営の学校は幼稚園から大学までの全コースがそろい、生徒総数は約七千。天理大学はもと天理外語が二十四年に昇格したもので、学部は文学、外国語、体育の三つだが、朝鮮語を教えているのは日本ではここだけで、警備関係の警察官も聴講にくる。蔵書六十万冊の大図書館はカソリックに関する図書の収集で有名。結核患者から相談の持ちこみが多いので、結核研究所や療養所などの福祉施設も整っている。スポーツもさかんで、ラグビー、柔道、野球、水泳と天理の名はスポーツ・ファンにもなじみ深い。
生気とり戻した建国の聖地
(橿原)
“建国の聖地”橿原は紀元節復活の波に乗って、ようやく生気をとりもどしてきた。元陸軍少佐の初代市長好川三郎氏(四十)は「日本人の心に民族の魂と誇りをとりもどすため」紀元節復活の必要を説き”八紘一宇”とは平和と愛の精神にほかならないと強調する。一方、神宮側は「建国祭の復活はまことに結構ですが、祝いごとだけに国民が感情的になって、二つに分かれてしまわぬよう」にと慎重。神宮外苑に森林植物園を開いたり、社殿を結婚式場に開放したり、会合の場にあてたり。これも”国家主義のシンボル”から”民衆に支えられる神宮”への歩みであろう。参拝者は年々ふえて、昨年度は百六十万人。今年のお正月は五十五万人をこえ、戦後の最高記録だったそうだ。
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大森明恍が、どのような気持ちでこの記事を読み、その後長い間に渡って保管し続けたのか、今となっては知る由もありませんが、この二つの宗教都市には、単なる偶然としては片付けることのできない、何か深いつながりを感じていたのかもしれません。

ちなみに、この年昭和32年には、大森明恍は近畿地方を旅行して、多くのスケッチを残したようです。そして12月には銀座のなびす画廊において「第一回近畿旅行淡彩画個展」を開きました。その際、久しぶりに橿原神宮や、天理市も訪れていたのかもしれません。