大森明恍と小熊秀雄

やや唐突なのですが、小熊秀雄全集の19巻(すでに著作権が切れているらしく、ネットでも無料で読むことができます)の20章には大森桃太郎氏の芸術 旭ビル半折洋画展を観ると題する短い評論があります。要約すると、一昨年に見た南の街という大作は良かったが、今回、見た数点の作品の中には原宿風景を除けば、あまり良いものがなかったというものです。大森桃太郎は、大森明恍の本名なのですが、戦後の洋画(油彩画)については、ほぼすべて大森明恍の画号を使って発表しています。いったいいつ頃、どのような経緯で、このような文章が書かれることになったのでしょうか?

Wikipediaによりますと、
小熊秀雄(1901年(明治34年)-1940年(昭和15年))は、詩人、漫画原作者、画家で、1922年(大正11年)から1928年(昭和3年)まで北海道の旭川新聞社で新聞記者をしていたようです。 現在でも旭川市では、小熊秀雄の業績をたたえ、現代詩の詩集を対象として小熊秀雄賞を、毎年全国から公募しています。

また、旭ビルというのは、もっと知りたい旭川というサイトの4条通7丁目のビルという記事によりますと、大正11年に完成した旭ビルディング百貨店を指すようです。旭ビルディング百貨店時代のビルでは、盛んに美術展や写真展などが開かれ、 当時の文化発信の拠点になっていたとのことです。

ということは、戦前、北海道の旭川市で、大森桃太郎の油彩画の作品が、少なくとも2回は展示される機会があった、ということができそうです。小熊秀雄は昭和15年(1940年)に亡くなっていますので、遅くともそれよりも前、さらに、小熊秀雄が上京したのは昭和3年(1928年)ということなので、おそらく、それ以前に、この画評が執筆された可能性が高そうです。大森明恍が富士山麓に移り住んだのが昭和8年(1933年)なので、それよりも前、すなわち、まだ東京に住んでいたころのお話ということになります。このころのことは、大森明恍自身、ほとんど記録を残しておらず、また、どのような作品を描いていたのかも、ほとんどわかっていません。小熊秀雄によると、そのときに旭川で展示された作品名としては南の街原宿風景風景お堀端市街カーネーションアネモネとのことですが、タイトルから想像する限り、富士山を描いた作品はただの一枚もなかったようです。

小熊秀雄全集の19巻は、美術論・画論が集められています。1章のモジリアニから始まって、6章には伊藤深水、7章には奥村土牛、8章には上村松園、10章には小倉遊亀と続いています。この中に混じって、短い文章とはいえ、わざわざ大森桃太郎氏の芸術として、取り上げられたのは、すでに当時の大森明恍の作品には、なにがしか、詩人小熊秀雄の感性に訴えかけるものがあったから、と言ってもよさそうです。

さらに調べてみると旭川美術史というサイトには、簡単に大正から戦前にかけての旭川市における美術界の動きがまとめられています。この中には、第一回洋画展覧会(小熊秀雄も出品)という記述も見えます。このサイトから、高橋北修(ほくしゅう)という人物が浮かんできました。札幌市の画商小竹美術のサイトでは、高橋北修の経歴を紹介しています。それによりますと、高橋北修は、1898年(明治31年)、旭川生まれ1919年(大正8年)に上京、本郷の洋画研究所で洋画を学ぶ、とあります。実は、この年、大森明恍も本郷の洋画研究所に入所しています。すなわち、この二人は3才違いのほぼ同世代、しかも洋画研究所では同期生だった、ということになります。

ところが、高橋北修は、1924年(大正13年) 関東大震災に会い帰郷、すなわち、震災をきっかけにして、東京から旭川に戻ったとのことです(ただし、関東大震災そのものは1923年(大正12年)に発生)。上記の旭川美術史にも、東京から帰った高橋と関・坂野多佳治で大正12年赤耀会結成とありますから、旭川でも仲間とともに美術に関する活動を積極的に続けたようです。さらに、小熊秀雄全集の22章美術協会の絵画展を評すにも、(同人)高橋北修の出展作品に対する小熊秀雄の評論があることからも、その様子が裏付けられます。

ここからは推測となってしまいますが、高橋北修は大正時代の一時期、東京で洋画を学んでいたが、関東大震災をきっかけにして旭川に戻った。旭川で美術協会を設立し、旭ビルディング百貨店の会場を借りるなどして、しばしば展覧会を開催していた。あるとき、洋画研究所の同期生であった大森桃太郎に声をかけて、その作品を取り寄せ展示したところ、たまたま旭川新聞の記者であった小熊秀雄の目に留まり、小熊秀雄は、その感想を旭川新聞の画評として執筆し、後年、それが全集にも掲載された、ということのようです。この文章が現在にいたるまで残ることになったのは、いくつかの偶然が重なった結果のようです。

もしかすると、関東大震災で東京が焼け野原になってしまったとき、大森桃太郎もやむを得ず、一時期、郷里の九州に戻り、そこで制作した大作が南の街であったのかもしれません。

小熊秀雄によれば、

大森氏の南の街の画風をして未来派だらうと評した男があるがそれは嘘だ、氏は正真正銘の写実家である、歪んだものをさへ見れば未来派だ表現派だといふ愚な言である、氏の筆觴の生動しちよつと粗豪な行き方を見ての誤つた観察であり、近代精神文化の独立した一部門としての未来主義思想は別なものであることを知らないのだ。大森氏の芸術はかゝる顔を歪めた芸術とは別個な思慮深い写実主義に立脚してゐるものと断言できるのである。

とのことですが、大森明恍のその後の生涯にわたって制作し続けた富士山画を見るとき、小熊秀雄が大森桃太郎という同世代の若き画家が描いたいくつかの作品を見ただけで、正真正銘の写実家であると見抜いた目は、おおむね正しかったといえそうです。


なお、大森明恍は、昭和27年(1952年)、4か月にわたり、北海道の各地を訪れ、作品を制作しました(大森明恍の日本各地の風景_2, 北海道)。もしかすると、この時、大森明恍と高橋北修は、旧交を温め、また絵画について語り合う機会があったかもしれません。

Meiko_Ohmori_069c
K#69 ,
Mountains in Hokkaido?,
Meiko Ohmori (1901-1963), oil on canvas/board,
北海道の連山?,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 板キャンバスに油彩, 45.5 x 27.3 cm (M8).
———-
額が入っていた段ボール箱には「北海道の連山?」の文字がありました. 制作年, 山名は不明です.
裏板のベニヤ板に”MATSUBARA SANGYO CO.”の印字がありました. 松原産業株式会社は、北海道夕張市に本社がある合板の会社のようです.

どこの山をどこから描いたものか、全く不明ですが、もし、同じ場所から撮影した写真と比較することができれば、おそらく、かなり写実的に描かれたものと確認できるのではないかと推測しています。