大森明恍と磯谷商店
金曜日, 8月 16th, 2019昭和8年(1933年)、家族とともに御殿場に移住したのち、大森明恍(本名: 桃太郎、画号: 海門)は、野中至、阿部正直、渡辺徳逸、梶房吉、などなど、富士山に関わる多彩な人脈を広げていったようです。しかしながら、これらの人々との交流を、どんなに延長していっても、昭和13年(1938年)に開催された銀座での第一回富士山画の個展にはつながらないようにも見えます。
昭和9年(1934年)11月、大森明恍が名強力・梶房吉と冬の富士山五合目の避難小屋に滞在したのち、無事に下山したことが、新聞記事として掲載されました。偶然ですが、その記事の隣には、静岡美術協会役員の常任理事として長尾一平さんが選ばれたとの記事もあり、切り抜きにはその部分に赤線が引かれていました。長尾一平さんは、額縁製造・販売を手掛けられていた、磯谷商店の二代目の方のようです。
長尾翁に藍綬褒章
翌年、昭和10年(1935年)4月には、長尾建吉(嶽陽)翁に藍綬褒章授与を申請するために、洋画壇のお歴々が奔走した、との記事の切り抜きも、赤い線で囲まれて残されていました。長尾建吉さんは明治時代の初期、万博に出展するためにフランスに渡った経験があり、のちに国内で初めて額縁製造のための磯谷商店を始められた方です。赤い枠線は大森明恍自身が引いたものです。この記事には、大森明恍の恩師である岡田三郎助の名前が出てきますが、大森明恍本人の名前はでてきません。それではなぜ、この記事を切り抜いて、大切に保管していたのでしょうか?
この記事によりますと、長尾翁はこのとき67才、死を前にしている、とのことなので、 すでに不治の病に侵されていたのかもしれません。
「大森桃太郎君と語る」
ところで、ある朝、この記事を読んだ大森明恍は、突然はたと思いつき、御殿場からてくてく歩いて、 静岡市の長尾翁を見舞ったらしいのです。「ある朝、急に…」とのことなので、事前の約束などしないまま、突然訪問したようです。その時の様子が、「駿遠豆」という月刊誌の記事として残されていました。
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霊峰富士に漂う四時の千態、万状の雲の去来を描くのについて、阿部雲気流研究所(御殿場在)主理学士、伯爵阿部正直氏に化学者の立場からの雲の説明と気流の関係を説明されて富士の惑情描写に大に得る所があり、頂上の測候についても多くの便宜を与えくれた阿部所主の徳を同君は感激していた。……希に見る、華冑界の新人で篤学の士である、富士雲態の千変万化するところを写真に蔵め、その数、千種以上に達し、世界的の雲の研究記録を現し、学界人に益するところが多大であったとのこと。今夏六月頃を期して富士総合理学研究の気象学、動植物その他の研究材料文献一切を展観富士アルピニストに公開の美挙を決行する予定で目下準備中だとのこと。
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因に理学博士藤原咲平の雲に関する文献材料は同所主の寄与するところが多かったそうだ。
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近代科学の一端を理解する若いアルピニストの連中に富士登山の時代思想化して来たことがハッキリして来たそうだ。若いアルピニストたちが登山する山は、例の日本アルプス方面か黒檜渓谷に限られ、また、アルピニストの本領であるかのごとき登山心理があったのが、近来は違って来たとのことを、権威ある先輩登山家間に話題の種となっているそうだ。富士登山は、月並的なものだと即断していた、修験者或は道者の一部の人と迷信家のグループだけが登る、所謂、伝統的江戸月並的の登山心理と曲解していたのが、最近では富士アルピニストにあらざれば、語るに足らずとのこと……。
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とにかく、近代、富士の文献に異常なる努力を払っている人は、小島烏水氏が第一人者であろう、洋画家中村清太郎氏、また、登山画家として令名あり、理学博士武田久吉氏も富士研究者であり、理学博士牧野富太郎氏富士高山植物のの権威者であることは世間周知のことである。
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政客 松本君平氏は目下、精神修養道場に、愛鷹山麓須山村を中心として青年農場建設に奔走中とのことだ。
「駿遠豆」の記事には、昭和13年2月に資生堂ギャラリーで開催された、「第一回富士山画展覧会」の招待状の文章大部分がそのまま引用されています。
資生堂ギャラリーでの第一回個展については、どのような経緯で開催できるようになったか、本人は何も書き残しておらず、詳細は不明です。 ここからは推測になってしまいますが、 長尾嶽陽翁を見舞ったのち、磯谷商店二代目の長尾一平さん、もしくは佐藤久二さんとの知己を得て、資生堂ギャラリーあてに紹介状、もしくは推薦状のようなものを書いていただき、そのおかげで、初の個展開催が実現した可能性も考えられます。