お知らせ
土曜日, 7月 6th, 2019裾野市富士山資料館特別展が開催されました(終了)
裾野市富士山資料館の特別展「富士山と万葉集を中心とした文学」では、大森明恍の富士山画5点が展示されました。また、ポスターにも使っていただきました。
油彩画_1に続く>>
裾野市富士山資料館の特別展「富士山と万葉集を中心とした文学」では、大森明恍の富士山画5点が展示されました。また、ポスターにも使っていただきました。
油彩画_1に続く>>
大森明恍は、 1901年(明治34年)10月18日、福岡県遠賀郡芦屋町に生れました。父親は友三郎、母親はカメといいます。大森明恍本人によるスクラップブック「不尽香」には、両親の写真が残されていました。
一方、芦屋町には、大正初期の街並みの手書きの地図が残されていました。古老の記憶に頼って作られているため、正確さに欠けるかもしれない、とのことですが、この地図の一番下のほうに「鐘崎屋大森」とある家が、大森明恍の生家のようです。本人の戸籍に記載されていた住所と、この地図の位置が一致することは、芦屋町の学芸員の方からお墨付きをいただきました。また、その向かいには芦屋郵便局がありますが、当時、友三郎は郵便局長であり、経済的には比較的、恵まれていたと伝えられています。
さて、この地図によると「鐘崎屋(かねざきや)」 という屋号が使われていたようですが、芦屋町に隣接する宗像市には、「鐘崎」という地名があり、漁業が盛んな海辺の土地のようです。
戸籍によると、大森明恍(本名桃太郎)は四男となっています。ただし、長男と次男は生後間もなく亡くなったようなので、実質的には次男として育ったようです。大森明恍は旧制の福岡県立東筑中学校(現在の福岡県立東筑高等学校)に進み、 卒業後、1919年(大正8年)18才のときに画家を志して上京した、ということのようです。
時は流れて、1986年(昭和61年)5月、大森明恍の長男、大森如一さんご夫妻(神奈川県川崎市在住)は、大森家のルーツを訪ねて、福岡県を旅行されたことがあったそうです。そのときに「大森家先祖累代之墓」を探し当て、お参りしたとのことです。
当時の地名は宗像郡玄海町で、その後、2003年に宗像町と合併して現在の宗像市となったそうです。「大森家先祖累代之墓」には新旧二つの墓石があったようですが、この写真は古いほうのお墓です。そのとき、九州にお住まいの遠縁にあたる方が案内してくださったそうなのですが、この方のお名前は不明。この方があらかじめ周囲の草刈りもしてくだっていたそうです。またこの時、わざわざ承福寺のご住職も同席してくださったそうです。 承福寺からは海が近くに見えていたようです。
地図で調べてみると、この承福寺と大森家の屋号となった地名「鐘崎」とは距離にしてたかだか2 kmほど。 したがって、元々は鐘崎に住んでいて、ある時、芦屋に移り住み、屋号として「鐘崎屋」を名乗るようになったのではないか、という推理が成り立ちそうです。
大森明恍が亡くなったあとのことですが、未亡人となった日出子夫人と当時の 承福寺のご住職の間には、年賀状のやり取りが続いていたようです。ただし、大森明恍のお墓は、現在、九州ではなく、御殿場市内の共同墓地にあります。
大森如一さんは、その後大森氏の系図も描いていました。藤原鎌足を祖とする大森氏は、中世、今の御殿場から小田原のあたりを支配していたのですが、戦国時代の1495年に北条氏によって滅ぼされたとのことです。ところが、この時、一族の一部は生き残って、九州に逃れた、と言い伝えられてきたそうです。
一方、大森明恍本人も存命中、富士山の絵を描くかたわら、御殿場市周辺で「大森氏」の歴史についても調べていたようです。今でも、御殿場市の周辺には大森氏にゆかりのある遺跡・遺物が数多く残っており、その一部は御殿場市の文化財にも指定されているようです。大森明恍が、静岡県駿東郡小山町にある乗光寺に残る大森氏の系図を大学ノートに書き写しとったものが残っていました。
九州福岡県芦屋町出身の大森明恍が、富士山の絵描きに専念しようと、静岡県の御殿場市に移り住んだのは、いろいろな偶然が作用した結果だったのかもしれません。しかし歴史的にみると、中世、自分の先祖は御殿場一帯を支配した大森氏だったかもしれないことを知り、めぐりあわせの不思議さを、画家本人も十分自覚していたようです。
昭和15年(1940年)、大森明恍は一枚の富士山画(油彩画、M10号)を奈良県の橿原神宮に献納しました。大森明恍自身によるスクラップ・ブックである「不盡香」には、作品の写真と、献納を伝える当時の新聞記事の切り抜きが残されていました。
さらに「不盡香」には、御殿場の自宅の前で記念に撮影したと思われる写真もありました。
大森明恍本人は燕尾服姿、この正装姿で奉告祭に臨んだものと思われます。その隣には長男の如一さんが小学校の制服と思われる服をきて立っています。さらに後ろには愛犬ポールらしい犬の後ろ姿も写っています。(犬の名前はポール・セザンヌからとったそうです)
この年、昭和15年(1940年)は神武天皇の即位から2600年にあたることを記念して各地で様々な行事が盛大にとり行われたそうです。特に橿原神宮には神武天皇がお祀りされていることから、多くの参拝者(1000万人)が訪れたようです。
一方、この年、ヨーロッパではドイツ軍がオランダ、ベルギー、フランスなど他国を次々に占領していました。日本では7月に近衛内閣が成立して、松岡洋右が外務大臣に任命された年でもあります。この年の8月、賀川豊彦と小川清澄は、松沢教会での礼拝の後、憲兵隊に連行されました。洋画家の藤田嗣治が、パリが占領される直前、日本に帰国したのも、この年です。
本人が意図していたのかどうかは、定かではありませんが、このころから、時代が大森明恍の富士山画に対して、何らかの特別な価値や意味を見出し始めたように見えます。
また、この作品には姉妹作があったようです。
この絵の持ち主となられた、中山正善(1905-1967)という方は、天理教第二代目の管長で、教祖である中山みきのひ孫にあたられるようです。稀代の蒐集家としても知られているようなので、もしかすると絵画作品も集めておられたのかもしれません。昭和初期は、天理教の信者数が最も多かった時期にもあたるとされており、多い時には300万人から500万人であったそうです。このような著名な方に購入していただいたということは、おそらく画家として大変名誉なことだったと思われます。
時は流れ、昭和32年9月22日づけの朝日新聞が残されていました。大森明恍は、自身が紹介されている新聞の切り抜きについては、欠かさずスクラップブックやアルバムに貼り残していたようですが、この新聞については、どこにも大森明恍が紹介されていませんし、またスクラップブックに貼られてたわけでもありませんでした。よく見ると、奈良県の特集記事が掲載されており、その一角に「二つの宗教都市」として、天理市と橿原市が紹介されていました。
大森明恍が、どのような気持ちでこの記事を読み、その後長い間に渡って保管し続けたのか、今となっては知る由もありませんが、この二つの宗教都市には、単なる偶然としては片付けることのできない、何か深いつながりを感じていたのかもしれません。
ちなみに、この年昭和32年には、大森明恍は近畿地方を旅行して、多くのスケッチを残したようです。そして12月には銀座のなびす画廊において「第一回近畿旅行淡彩画個展」を開きました。その際、久しぶりに橿原神宮や、天理市も訪れていたのかもしれません。
昭和17年(1942年)10月28日の朝日新聞に「霊峰を陸海軍に献納」という記事が掲載されました。すでに前年、昭和16年(1941年)の12月には太平洋戦争は始まっていました。
記事の内容は、大森桃太郎(明恍の本名)が描いた富士山画(水墨画)を、野上報美堂の野上菊松という方が表装し、10月27日から上野松坂屋で5日間展示した後に、陸海軍に献納するというものです。戦争中とその前後、大森明恍(大森桃太郎)は、富士山の水墨画を描く機会が多くなったようです。もしかすると、油絵用の画材が入手しにくくなっていたのかもしれません。
野上菊松という人物について調べたところ、サンフランシスコで発行されていた「日米」という新聞の1930年(昭和5年)9月11日付け、3面に「表装の秘密を米人間に野上氏紹介する」という記事が載っていました。戦前、サンフランシスコを訪れたこともあったようです。
ちなみに、この翌年(昭和18年)3月に、野上菊松が、大森桃太郎、梶房吉とともに銀座を歩く写真が残っていました。洋風の帽子に和服、白足袋に草履という独特の姿です。スーツ姿の強力、梶房吉とは、また違った意味で珍しいいでたちです。
レイアウトが異なりますが、朝日新聞の静岡版にも同じ記事が掲載されました。
さらに、昭和17年の秋に、富士山画の油彩画を靖国神社にも献納する約束をしたとの記録がありました。
大森明恍は戦前、何回かに渡り、東京銀座で富士山画の個展を開いたようです。 第1回の富士山画個展は、昭和13年(1938年)2月1日から5日まで、 東京銀座資生堂ギャラリーで開催されました。
「資生堂ギャラリー75年史」(資生堂文化部編)によると、開催案内は、当時の新聞や、美術雑誌『みづゑ』などにも掲載されたようです。
資生堂ギャラリー75年史p.292より引用/
1938(昭和十三年)
3802A 1938.2.1-2.5*
大森桃太郎氏富士山画展
【概要】大森の富士山画展の第一回展。
大森桃太郎(号明恍)は1901(明治34)年福岡県生まれ。本郷洋画研究所に学ぶ。1921(大正10)年二科展に「浪懸夏光」を出品。1933(昭和8)年富士山研究のため、御殿場に一家で移住。この個展開催後、北海道、九州など各地で富士山画個展を開いた。
【典拠】東京日日2月1日、読売2月1日、東京朝日2月2日、アトリエ3月号、美術[東邦美術学院]3月号、 みづゑ 3月号、美術眼4月号
【文献】「芸術新潮」4巻7号「富士を描いて30年」
*2.2-2.5=東京日日2月1日
翌年の昭和14年(1939年)にも、同じく東京銀座資生堂ギャラリーで、第2回の富士山画展が開催されました。その時の案内状も残っていました。
この時の個展についても 「資生堂ギャラリー75年史」 に記事の掲載がありました。
「資生堂ギャラリー75年史」p.192より引用/
3907G 1939.7.26-7.30
大森桃太郎富士山画展
【概要】富士山一筋に描き続ける大森が、前年(3802A)に続き第二回富士山画展を開催。
【典拠】美術[東邦美術学院]9月号、 みづゑ 9月号
第3回と第4回の富士山画展については本人によるスクラップブック「不尽香」にも比較的詳しい記録が残っていました。第3回は、昭和16年(1941年)9月9日から13日まで、青樹社画廊で開催されました。
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昭和16年9月の個展に続いて、昭和17年(1942年)4月にも、同じ青樹社画廊にて、富士山画の個展を開催しました。わずか、7ケ月後です。この間に日米開戦(1941年12月真珠湾攻撃)をはさんでいます。
この二回の個展の間に、富士山を精力的に描いた様子を示す写真が残っていました。白糸の滝の近くの崖の上に櫓を立てて、その上から見える富士山を描いているようです。(遠方に富士山のシルエットが見えています)
時 昭和十七年 自四月自九日
至十三日 五日間
所 東京銀座青樹社画廊
油彩
1 富嶽暁色 十号
2 海辺の富士 四号
3 夕陽の富士 四号
4 箱根富士 四号
5 元旦仰嶽 六号
6 乙女峠春の富士 十五号
7 湖上の富士 八号
8 富士残光 三号
9 箱根山上夕富士 四号
10 不盡 一号
11 岳麓雪景 六号
12 由比海辺 六号
13 湖畔暁の富士 八号
14 草薙の富士 二号
15 朝焼けの富士 二十号
16 不盡 一号
17 箱根夕映えの富士 三号
18 斜陽仰嶽 十号
19 湖上白峰 三号
20 岳麓雪景 八号
21 山下海岸の朝富士 四号
水墨
1 雲表、絶嶺 (月明紙)
2 上井出の富士 (月明紙)
3 初秋富嶽 (月明紙)
4 箱根富士 (月明紙)
5 箱根富士 (月明紙)
6 新雪 (月明紙)
7 御殿場富士 (月明紙)
8 富嶽 (月明紙)
9 岳麓苔雲荘 (月明紙)
10 富嶽 (月明紙)
11 富嶽 (月明紙)
12 富嶽 (月明紙)
以上
青樹社では、毎月の展覧会の案内のために小冊子を印刷していたようです。その中の12ページ目に大森明恍の個展についての紹介がありました。
ここで使われた元の写真が、「不盡香」(スクラップブック)にも残されていました。こちらのほうが少し鮮明です。自宅の近くに建てたアトリエの中から窓越しに、富士山を描いています。右側には富士山が描かれたキャンバスも見えています。
展覧会中に画廊で撮影したと思われる写真も残っていました。額に入った油絵と、表装された水墨画が並んで展示されています。
椅子に座っている帽子を被っているのが大森桃太郎本人と思われます。また、和服姿のご婦人はおそらく日出子夫人、学生服を着て学帽をかぶっているのは長男の如一さんと思われます。
昭和18年(1943年)9月15日から5日間、同じく青樹社画廊において、富士山画の個展を開催しました。戦争の真っただ中での個展開催です。案内状には、それまで住んでいた諸久保から、御殿場駅の近く(四反田)に引っ越しをしたことも記されていました。
一方、個展開催と同じ月の昭和18年9月、 上野動物園では、空襲の際に逃亡して危害がおよぶ事を予防するため、象を含む25頭の猛獣と毒蛇の餌に毒を混入して殺害してしまったとのことです。
昭和24年(1949年)には、不思議な富士山画の展覧会が三回開催されました。
これに先立って、同じ年の2月にはこれら一連の不思議な展覧会の伏線のような、少しだけ不思議な個展が、資生堂ギャラリーにおいて開かれていたようです。
大森明恍は、当時、「直心」という同人紙のようなものを発行していましたが、本人が残していた切り抜きには、次のような記載がありました。
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●報導
(新春心の友会計画予告)
一、直心画会開催
会期 昭和二十四年二月一日より二月五日まで
会場 東京銀座七丁目
資生堂美術部画廊にて
主催 大森明恍
〇展覧会開催の会場期日が決定しました。追て其折皆様へご招待案内状を差上げますが。一先ず予告致します。この度の出品画は大体油絵、水彩素描の七、八点の近作です
〇黎明の富士 油絵二十五号
(御殿場の画室にて冬の朝えがく)
一九四七年春より一九四八年春への製作
△先輩佐藤久二大兄(我国額縁界の権威者)の力作に係る額ぶちに入り、真情こもつたデザインに引立てられて、発表出来ることと感謝に堪えません。
その他今夏伊豆西海岸舟山村での楽しい写生画
〇舟山の海 油絵十二号
〇南の窓 同八号
〇九十一翁の肖像 素描
その他小品数点の出品です
この度は水墨画は割愛して発表を見合わせました。ご存じのごとく個展は戦争前より十年来殆ど毎年一回は東京で開催の記録を持つております。従つて其の間に資生堂ギャラリーで催したことも此の度が四度目ではないかと思います。
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これを裏付けるように、「資生堂ギャラリー75年史」の292ページにも、次のような簡単な記載がありました。
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4902A 1949.2.1-2.5
不詳
【典拠】契約書(契約者は大森明恍*)
*大森については大森桃太郎を参照(3802A)。
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両者とも日付がぴったり一致しているので、開催されたことに間違いはないはずなのですが、資生堂ギャラリーには、何故だか展覧会に関する詳しい記録が一切残っていなかったようです。
「75年史」は、資生堂企業文化部により1995年に発行されました。編集にあたっては、当時の新聞や美術雑誌に掲載されていた開催案内などをくまなく調べたらしく、掲載記事が見つかったものについては、必ず「典拠」としてあげられています。大森明恍は戦前にも資生堂ギャラリーで二回、富士山画の個展を開催しましたが、そちらの記録については、新聞や美術雑誌掲載の記事が「典拠」として、あげられていました。昭和24年に開催された展覧会に限って、契約書しか記録が残っておらず、新聞や雑誌に案内記事が一切出なかったようです。資生堂の企業イメージを上げることが資生堂ギャラリーの存在意義ならば、どんな展覧会であっても、新聞や雑誌に開催案内をニュース・リリースするのが当然のような気がします。まして、大森明恍の富士山画の場合、すでにGHQの民間情報教育局(CIE)からのお墨付きをいただいているようなものだったので、検閲によって削除される心配は皆無だったはずです。
「75年史」の同じページには、同じく「不詳」とされた展覧会が、同じ年の4月1日から5日まで開催されていたようです。こちらの契約者は「日本美術国際鑑賞会」とあります。推測するに、当時日本に滞在していた外国人向けに、日本美術の作品を資生堂ギャラリーを借りて展示したということのようです。外国人向けなので、日本人にはできるだけ来てもらいたくはない。それで日本の新聞や雑誌には一切、案内を出さないよう、主催者側から依頼されていた、ということかもしれません。
大森明恍自身の記事にも、不思議なところがあります。なぜ展覧会の名前を「大森明恍、富士山画個展」ではなく「直心画会」などとしたのでしょうか? 「直心」などという同人紙は、東京では全く知名度はなかったはずですし、実質、大森明恍の絵しか展示しないのですから、「大森明恍、富士山画個展」とすればよいような気がします。これは、考えすぎかもしれませんが、たまたま展覧会場の前を通りかかった日本人が「富士山画個展」が開催されていることを知れば、興味をひかれてふらりと個展会場に立ち寄るかもしれません。「直心画会」であれば、通りがかりの人は、まずは、入ってこないだろう、ということが狙いだったのかもしれません。
これは推測ですが、当時、日本に滞在していた外国人、特にアメリカ人の間では、日本の美術品に対する関心が高くなっていたのかもしれません。伝統の古美術品はもちろんのこととしても、富士山だけを描いていた大森明恍も、興味の対象としてアメリカ人の間で話題になっていたのかもしれません。そこで、主に日本に滞在中のアメリカ人を対象とした富士山画の個展を、戦後再開したばかりの資生堂ギャラリーを借りて開催した、ということかもしれません。日本の新聞や雑誌には開催案内がでなかった代わりに、当時日本に滞在していた米国人向けの新聞・雑誌には何らかの形で案内が出ていたのかもしれません。
前年の昭和23年(1948年)、戦後間もなくの東京の街の様子がわかる写真が残っていました。
「不盡香」より
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昭和二十三年六月八日朝
銀座新橋マエにて
如一を連れて
父 四十八才 如一 十九才
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右が大森明恍本人、左は長男の如一さんです。通りには和服を着た人の後ろ姿も見えます。如一さんは、当時19才、すでに御殿場を離れ東京に出てきていたそうです。大森明恍が颯爽とした正装姿なので、この時期、昭和23年(1948年)6月にも、新橋の界隈で個展を開催していた可能性もあります。如一さんからお聞きした話では、東京で個展を開催するときには、絵の運搬などを手伝ったことがあったそうです。
昭和24年(1949年)6月25日(土)、26日(日)の二日間、東京の神田駿河台の明治大学、図書館の自習室において、明治大学映画研究会主催の絵画鑑賞会、という名目で数十点の富士山画による個展が開催されたとの記録が残っていました。展示会場での記念写真と、ガリ版刷りの案内状です。
「不盡香」より
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明治大学内にての富士山個展
昭和二十四年六月
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「不盡香」より
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謹啓、新緑溢るる初夏の候となって参りました。
皆々様には益々ご清栄の事とご察し申上げます。
扨て、今回当映画研究部におきましては、従来の映画理論のみにとどまる研究方式の旧殻を脱皮し、新なる分域絵画芸術より深く映画芸術の剔抶研究に努力致して居りますが、此の度、不図も当研究部に於て種々御指導を賜っております大森明恍(桃太郎)画伯の心よき御承諾を得て、画伯の熱情深き筆致による作品数十点を学生一般に開放して頂くこととなりました。つきましては、映画研究部主体のもとに絵画鑑賞会を開催し、皆々様と絵画芸術との好誼を計りたいと思います。
左記の通り時日を定め皆様の御鑑賞の栄を賜らん事を切に御願いいたします。
記
期日 六月二十五日(土) 二十六日(日)
時間 午前十時より午後六時まで
会場 神田駿ケ台明治大学図書館四階自習室
入場料 無料
明治大学映画研究部
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同じ年の10月に開催された富士屋ホテルでのGHQ向けの個展、11月に開催された宮内庁総合美術展での参考出品も不思議な展覧会でしたが、大学図書館での個展というのもまた不思議な展覧会です。この年に限って、三回も不思議な展覧会が開催されたことになります。
写真の前列中央には大森明恍がスーツ、ネクタイ姿で座っており、その両脇には学生服を着た学生と思われる二人が腕組みをして座っています。後列には女性が二人、左端にはネクタイ姿の顧問の先生らしき人も写っています。後方には、図書室の自習用の机が並んでおり、机の上に椅子を乗せ、椅子の背もたれに絵が固定されているようです。何枚かの絵には富士山が描かれているように見えます。また絵の下には白い紙が貼ってあり、絵のタイトルが書かれているのかもしれません。それにしても、いかにもにわか仕立ての展覧会場です。作品数は多く、この写真からだけでも二十数点の絵画が確認できます。
絵画の個展としては、場所も不自然ですが、展示の仕方としても不自然です。週末とはいえ、図書館の自習室で絵の展示会を開催することを大学が簡単に許可するものなのでしょうか? そもそも、なぜ映画研究会が、映画の鑑賞会ではなくて、大森明恍の富士山画の鑑賞会を開催したのでしょうか? 御殿場から神田駿河台まで、誰がどのようにして数十点もの絵画作品を運搬し、その費用は誰が負担したのでしょうか? 大学の図書館で絵を販売するわけにはいかなかったでしょうから、大森明恍にとっては、どのようなメリットがあったのでしょうか? 詳しいことは何も残っていませんでした。
もし仮に、富士屋ホテルでのGHQ向けの個展がマッカーサー夫妻に見ていただくため、宮内庁総合美術展での参考出品が皇后陛下にご覧いただくため、不自然な形であっても、強引に開催されたものだったとしたら、この明治大学での個展も、絵画鑑賞会の体裁を借りてはいるものの、実は他の誰かに見ていただくことが隠れた目的だったのかもしれません。顔を知られた著名人が、人目につかないように、静かに絵を鑑賞するためには、土曜日曜の大学の図書館は好都合かもしれません。一般の人にとっては、気軽に入り込めない場所でしょうから…。仮にそうだったとしても、それはいったい誰に見せたかったのか? そうまでして見せたかった理由はなぜなのか? 新たな疑問が湧いてきます。
戦後まもなく、三越で開催した富士山画の個展に、GHQのロバート大佐が調査に来た際、通訳として碧川道夫という方も立ち会われたとの記録がありましたが、この方は映画のカメラマンだったとのこと。あるいは、この方とも何か関係があったのかもしれません。
昭和24年(1949年)11月24日から26日まで、宮内庁の講堂で開催された、総合美術展覧会において、富士山画を100展、参考出品したという記録が残っていました。一つは、ガリ版刷りの展覧会の出品目録、もう一つは、本人の手書きの記録です。
「不盡香」より
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(左)
総合美術展覧会出品目録
(昭和二十四年十一月二十四日→二十九日正午於講堂)
….
参考出品
富士山 (御殿場の画家) 大森明恍
(100点)
…
主催
宮内庁職員組合文化部
絵画同好会
華道研究会
———
(右)本人の直筆
昭和二十四年十一月
宮内庁内文化部主催絵画展に
特別出品し
特に皇后陛下に拝謁し
富士山製作二十数年の苦心談を
申上げる
———
大森明恍本人が残した記録では、このとき、皇后陛下(当時は昭和天皇の皇后陛下)に直接お目にかかって、富士山画の説明をさせていただいたとのことですが、家人の間には、皇后陛下から「何故、この富士山は赤いの?」とのご質問をいただき、大森明恍は「朝焼けだからでございます」と、答えたとの話が伝わっていました。
証拠が残っているので、このような出来事が実際にあったことについては、疑いようのない事実なのですが、素朴な疑問が、次から次に、いくつでも湧いてきます。ところが、関係者に聞いてみても、きちんと答えられる人はいませんでした。はっきりしたことは誰にも伝えられてはいなかったようです。また、本人がどこまで開催の経緯を把握していたのかも不明です。
このような展覧会は、毎年開かれているものなのか? 開かれているとしても、参考出品という形で宮内庁とは関係のない外部の者が展示できるものなのか? それにしても参考出品数が100点というのはあまりにも多く、本来の職員の同好会の作品数とバランスが崩れていないか? そもそも、当時、他にもっと著名な画家はいくらでもいたと思われるのに、なぜ大森明恍だったのか? 100点もの大量の絵画を誰が、どのようにして運搬し、展示したのか? 考え始めると、あまりにも多くの疑問が湧いてきます。
唯一、ヒントとなりそうなのは、開催時期が、GHQ向けに開かれた富士屋ホテルでの個展から、わずかに1ケ月後に開催されたということかもしれません。展覧会としては、あまりにも開催時期が近いので、まるで、お互いに示し合わせていたようにも見えてしまいます。
当時は、戦後まもなくの混乱期でもあり、皇室の在り方について、GHQと宮内庁の関係者の間では、頻繁に話し合いがもたれていた可能性も考えられます。皇居と当時GHQの本部が置かれていた第一生命ビルの間も、直線にすれば距離的にも近い。ロバート大佐の三越での個展の調査の報告から、大森明恍の富士山画が、まずはGHQの内部で評判となり、それが何時しか宮内庁にも伝えられ、そのお話がたまたま皇后陛下の御耳に入り、ご興味をもたれ、参考出品というイレギュラーな形で、急きょご覧いただくことになったのかもしれません。
恐らく、戦後の混乱期ならではの出来事だったのかもしれません。しかしながら、奇しくも結果的に、大森明恍の絵は、大正天皇の皇后様と、昭和天皇の皇后様のお二人に、直接ご覧いただける機会に恵まれたことになります。
大森明恍自身のスクラップブック「不盡香」には、箱根の宮ノ下にある富士屋ホテルでの展示の写真が残っていました。
大森明恍本人のアルバム「不盡香」より
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昭和二十四年十月下旬
箱根宮ノ下
富士屋ホテルに於て
交通公社あっ旋のもとに三日間
個展開催し米人に展示す
ホテルの客室なのかロビーなのか定かではありませんが、ふかふかの椅子にスーツを着た大森明恍が、やや緊張した顔つきで腰掛けています。後ろの壁にはフレームに入った富士山の絵が展示されていますが、展示場所が足りなかったのか、椅子の背もたれにも額無しの絵が2枚ほど立てかけてあるようです。油彩か水彩かは判然としません。その下には暖房用のスチーム配管らしいものも見えており、当時の高級ホテルらしい雰囲気が感じられます。しかしながら、もしこれが個展の展示会場だとしたら、いかにも急ごしらえであったという印象を受けます。
当時、富士屋ホテルは進駐軍に接収され、進駐軍専用の保養施設として使用されていたそうです。なお、家人の間では、この時、マッカーサー総司令官と富士屋ホテルに、富士山の絵を購入していただいたと伝えられています。
それにしても、何故、進駐軍に接収されていた富士屋ホテルで、大森明恍の富士山画の個展が、わずか3日間のみ開催されたのでしょうか? 本人は具体的なことは何も語っていません。
ただし、戦後の一時期、大森明恍とGHQの関係を示す資料は、いくつか残されていました。昭和22年9月の静岡新聞には、次のような記事が掲載されました。
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静岡新聞
昭和二十二年九月十二日
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富士に魅る
大森画伯・十五年の精進
観光日本の紹介に富士の麗姿を描き続けること十五年、貿易再開に力を得て今その採管に一層の油が乗つた変り種の洋画家がある、現在御殿場町新橋四反田にアトリエを営む明恍大森桃太郎氏(四七)がその人
青年時代、富士への憧れから画家を志し昭和八年九州から岳麓へ移り住んで朝な夕な富士を睨み精魂を尽して描写に努め、既に描きあげた富士は三千を越え戦前毎秋東京に開いた個展出品の傑作中には海を渡つたものも多く、富士観光の世界紹介にはかくれた大きな力となつていた
「日本精神の表象は富士である、生涯を通じ自他共に許す会心の作を一枚だけ描き上げたい」というのが画伯の念願、戦雲去つたいま”観光日本の表徴、民主日本平和国家日本の表象としての富士”を描く事に朝な夕な更にこんしんの努力をそそいでいる。
富士は尊い日本の宝だ、昨年六月三越で開いた個展に総司令部教育情報部長ロバート大佐がわざわざ見えられ、自分は終戦当時ドイツにいたが憧れの富士への念願が叶って日本へ来た、それほど世界の人達は富士へ憧れを持つていると語られた、それだけに美しい富士を描き上げて世界に紹介する責任を感じている
と大森画伯はしみじみと語つている【写真は富士を描く大森画伯】
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この記事によると、前年(昭和21年)に三越で個展を開いた際、GHQ教育情報部長のロバート大佐がわざわざ見に来られたとのことです(教育情報部とは、恐らく「民間情報教育局(略称CIE)」のことを指すと思われます)。戦後まもなくの頃は、言論だけでなく、文化全般、あらゆる分野にわたって統制対象となっていたようなので、単にロバート大佐が絵が好きなので見に来た、というわけではなさそうです。例えば、将棋なども統制すべきかどうかの調査の対象となっていた、というエピソードも残っているようです。ところが、さすがに富士山の絵を統制の対象とする必要まではないと判断されたようで、逆に、大森明恍をおおいに励まして帰っていったようです。
他にも、こんな切り抜きも残っていました。
大森明恍のアルバム「不盡香」の切り抜きより
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●報導
(新春心の友会計画予告)
一、直心画会開催
会期 昭和二十四年二月一日より二月五日まで
会場 東京銀座七丁目
資生堂美術部画廊にて
主催 大森明恍
〇展覧会開催の会場期日が決定しました。追て其折皆様へご招待案内状を差上げますが。一先ず予告致します。この度の出品画は大体油絵、水彩素描の七、八点の近作です
〇黎明の富士 油絵二十五号
(御殿場の画室にて冬の朝えがく)
一九四七年春より一九四八年春への製作
△先輩佐藤久二大兄(我国額縁界の権威者)の力作に係る額ぶちに入り、真情こもつたデザインに引立てられて、発表出来ることと感謝に堪えません。
その他今夏伊豆西海岸舟山村での楽しい写生画
〇舟山の海 油絵十二号
〇南の窓 同八号
〇九十一翁の肖像 素描
その他小品数点の出品です
この度は水墨画は割愛して発表を見合わせました。ご存じのごとく個展は戦争前より十年来殆ど毎年一回は東京で開催の記録を持つております。従つて其の間に資生堂ギャラリーで催したことも此の度が四度目ではないかと思います。
一昨年度東京三越本店(日本橋)で、水墨画と、油絵併せて五十点を以て個展を開催し、当時、GHQの教育情報部長イーボデン少佐その他のご指導を頂きましたが(東京朝日新聞社のコンネクションで)特に民間情報部長ロバート中佐は御多忙の中を態々三越展覧会場に秘書役を連れて観覧され、長時間に渉って熱心に観照され、望外の賞賛を受けました。そして、ミスター大森の富士の画を将来アメリカに持つて行つて、ニューヨークやワシントンで展覧会を開きたいものだと、懇切に申されました。(当時新聞にこのことが出ました)ほんとうに有難く、何んとも云えぬ元気が湧出ました私共日本人の芸術が遠く海外に進出のお許しが下ることもいづれは実現されるであろうことを、胸中にえがき、一層精進せねばならんと熟熟思います。
その時の立合者は碧川道夫氏小川清澄氏(賀川豊彦先生の前秘書で幸に通訳の労をとつて下さいました)及びフレーム、デザイナーの佐藤久二兄でありました。
この度の開会中是非とも会員諸兄姉のご来場鑑賞をお待ちして居ります。
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(注1) 佐藤久二、当時額縁の代表的なデザイナー。大正2年(1913年)日本最初の画廊(日比谷美術館)を開いた先駆者でもある。
(注2) 碧川道夫(みどりかわ みちお、明治36年(1903年)2月25日 – 平成10年(1998年)3月13日)は日本の映画カメラマン。日本の映画色彩技術の草分け的存在。多くの名作映画の撮影を担当し、『地獄門』で1954年度文部省芸術祭文部大臣賞。
(注3) 賀川豊彦(かがわ とよひこ、1888年(明治21年)7月10日 – 1960年(昭和35年)4月23日)は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。茅ヶ崎の平和学園の創始者である。
(注4) イーボデン少佐、GHQ民間情報教育局新聞課長、インボーデン少佐と同一人物か?
(注5) ロバート中佐、GHQ民間情報教育局言語課長で、当時ローマ字化を計画したとされている、ロバート・キング・ホール少佐と同一人物か?
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この記事は大森明恍自身が発行していた「直心」という同人紙の切り抜きのようです。発行は昭和24年1月となっています。一昨年に日本橋の三越で個展を開いたとありますが、原稿を書いていたのが昭和23年だとすると、一昨年というのは昭和21年ということになり、上の静岡新聞の記事と一致します。こちらの記事では、大佐ではなく、ロバート中佐になっていますが、同一人物と思われます。米国に留学経験のある二人の通訳、しかも一人は宗教関係者(小川清澄氏)、もう一人は芸術関係者(佐藤久二氏)を連れてきたのですから、準備は万端で、単なる富士山画の鑑賞が目的であったとは思われません。例えばですが、富士山信仰と軍国主義の関係を明らかにする、ぐらいの目的はあったのかもしれません。ところが、大森明恍の富士山画を見て、話を聞くと、アメリカに持って行って、ワシントンやニューヨークで展覧会を開きたいものだ、とまで言ったとのこと。もし、それが本当だとすると、大変な褒めようです。
ところで、マッカーサー夫人は吉田博の版画のファンだったと、伝えられています。これは推測ですが、当時ロバート大佐の報告などから、GHQの中で大森明恍の絵も評判となって、その後、マッカーサー夫妻が富士屋ホテルを訪れるタイミングに合わせて、大森明恍の富士山画個展が短期間限定で開催された、という可能性も、もしかするとあるのかもしれません。したがって「交通公社の斡旋」というのは、実態はGHQからの依頼(命令?)であったと解釈するのが自然ではないかというような気がします。
ほぼ同じ時期に、芦ノ湖ごしに白い富士山を描いた線画が残っていました。
K#436
Mt. Fuji from Hatone Hotel,
Meiko Ohmori (1901-1963), Pen on paper, Dec. 1949.
箱根ホテルよりの富士山,
大森明恍(明治34年-昭和38年), 紙にペン, 29.5 x 21 cm, 昭和24年12月.
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左下に「箱根ホテル新館の見える M. Ohmori 1949-12」と説明・サイン・日付があります。当時、富士山画の中にわざわざ建物を描き、しかも「箱根ホテル新館」と具体的な説明まで入れた絵は、他にはほとんどみられません。この年(昭和24年)10月下旬には, 同じく箱根の富士屋ホテルにおいてアメリカ人を相手に富士山画を展示しましたが、個展とこの絵のサインの間に、2ヵ月のずれがあります。もしかすると箱根に滞在中に鉛筆でスケッチをして、帰宅したのち線画に仕上げた、という可能性も考えられます。もしそうだとすると、大森明恍自身は宮ノ下の富士屋ホテルには宿泊せず、芦ノ湖畔の箱根ホテルに滞在して、3日間、そこから富士屋ホテルに通っていたのかもしれません。