Archive for the ‘交流’ Category

大森明恍と梶房吉_5

土曜日, 4月 15th, 2017

宝永山からの絵を完成し、下山の途につく

大森明恍と梶房吉_4 | 大森明恍

続いて、昭和10年(1935年)4月1日発行の「北駿郷土研究, 富士山」第3年4月号には「御山の厳粛【四】」が掲載されました。このシリーズの最終回です。

富士山の山小屋での一夜、何としても良い富士山の絵を描こう、とあがく夢をみます。翌朝、大森明恍が「富士山で富士山の夢をみた」と話すと、梶房吉(文中ではK君)は「それは、何か良いことがありますよ」と返しました。宝永山からの風景を描いた会心の油絵一枚を仕上げると、梶房吉は天候の崩れを予想したので、登頂の予定を急きょ変更して、翌日には下山することにしました。


御山の厳粛【四】

大森海門

夜明けの寒さと、部屋の乾燥した空気の中に、息苦しい夢からひょっと眼がさめた。
『変だな、今のは夢か?』
何だ、絵かき先生、夢を見ていたのだ。夢のうちにも、この先生、一生懸命に富士を描こうと全力を注いでいる。

ああ、今日も晴天白日だ。
床から跳び起きた。仕事だ、仕事だ。

雲海を眺めながら、朝餉を喫しつつ、
『僕はゆうべこんな夢を見た』
とK君に話した。そして、
『富士山にいて、富士山の夢を見るとは、面白いね』
ここでK君、すかさず
『それは、お家にお帰りになったら、何か、きっと良いことがありますよ』
だと、ガイド君、なかなかお世辞が、いいなあ。

きのうの宝永山の富士を、もう一度現場に行って、油絵に仕上げておきたい。そこで、二人は早速、また雪の宝永山行に出発した。やがて、再び宝永山上からの富士の写生を始める。相当に寒いが、良い天気だ。溶岩を積み重ねて、小さい画面の風よけを作り、袋の中から絵の具を取り出し、筆をとり、こうと高嶺を見上げ、画面を見下ろした。ショートタイム、無言。緊張。・・・・・・風が出た。ブーブー吹き上げてきた中で、
『ヨーシ、これでいい。いい絵を描いた。これでいい。』
絵筆をポンとおいた。

そこで急ぎ帰り支度をして、袋はK君が背負ってくれる。帰路は横なぐりに吹きつける強風の中で、セッピィの上を二人は一言も交わすことができない。実に善戦美闘である。ただ無言のままで、スロープへ急ぐ。顔にたたきつける風の痛いこと。飛ぶ雪を交えた刺すような烈風の間断ない連続。互いに一本のピッケルが唯一の命のたより。
『あっ!』
次の瞬間、セッピィの上に僕は完全に横倒して、転んでいた。足どりが狂って、右足のカンヂギの針が左足のズボンの下に突き刺さって、自分はそのまま歩行をなくし、風に押し倒されたのだ。声をあげることもできない。
『ああセッピィの上でよかった。スロープの上でなら、それこそ、何処まで墜落するのか、知れたものでない』
転んだまま、突き立ったアイゼンをズボンから外し、ピッケルにすがって、立ち上がった。先のKは、もうだいぶ遠くへ、ただ前方を目指して進んでいる。ものすごい烈風は、この間の二人の消息を断っていた。
『足元用心!』
と口中大きく叫んで後を追う。

     ×  ×  ×

室に帰って、さっきの危難を物語り、K君からいろいろと雪中登山の注意をうけた。そして厳冬極寒のおり、八合目、九合目あたりの胸突き登りで、突風に襲われたときの命がけの大難苦行を聴かされては、冬山の厳粛なる恐怖を想像して、転々緊張せざるを得ないものがある。しかし、この宝永山上よりの富士山は珍しい作品として、まず成功である。幾度となくふたりで喜び合って、残り少なの壜を傾けて、祝いの盃をあげた。

日中、一万尺の高所で、いささかほろ酔い気分となり、戸外に出て、白銀に輝くスロープを、両足投げ出して、お尻のスキーをやって遊ぶなど、まさに天上の行楽である。

     ×  ×  ×

夕刻にかけて、またひとしきり、夕暮れの雲を写生し、疲労のからだを横たえて憩ううちに、お山はにわかに襲う大風の騒音に包まれた。また嵐が来た。鉄扉からはためく。急いで扉を閉めに我々は立ち回りを開始した。暗い部屋の中で、戸外の襲撃に思いを走らせ、夜に入っていよいよ募る模様に
『この分では数日間は荒れるかも知れぬ。山の天気は何とも断言でき難い』
とはK君の言葉である。そこで最初の計画であった、七合八勺に滞泊のことも、頂上観測所訪問のことも、現在の五合五勺の永い滞在に災されたので、これ以上の山内生活は、また次回ということに相談をまとめ、こうと決まれば、明朝の天候を見て下山しようとなった。

思えば短い雲上の俗世を超越した数日間ではあったが、お山に籠っての製作をなすに、いろいろの尊い経験を少なからず、収穫しえたのである。第二回目には、こうも、ああもと、そんなプランに頭をひねって、風の響きをもいつか現つの様に、深い最後の眠りに落ちてしまった。

     ×  ×  ×

幸いに翌朝は微風、微光のうちに眠りは覚めた。下山の準備、後かたづけやら、絵の荷造りやらに忙殺されながらも、ほぼお山を降りる身支度は出来上がった。そこで、頂上への約束を捨てて下山する挨拶を電話で伝えた。頂上では、主任の技手から我々の頂上訪問を期待していたのに、惜しいことであるとの返事。人間界を遠く高く離れた雲上の世界では、電話線を通じて語り合うことすら、まだ見ぬ人の懐かしきことよ、世の生活は、かくも人間を純真無垢に浄化してしまうものであるか。

いよいよ出発、時まさに前七時半、数日に過ぎない住居ではあるが、さらばとなれば、また惜別の感も湧く。自分は扉の前に立ち、頂上を仰ぎ見て、脱帽。しかして瞑点。

山上の孤独に耐えよ!!とは、ドイツの超人、ニイチェの言葉だ。御山の孤独。泰然と紺碧の大空に威厳尊く、また温容厳しく、無限永劫の大静寂である。言うべき言葉のあろうはずがない。吾人はどこにいても、お山の懐にいるのだ。

下山の一歩は踏み出された。下る、下る。サックサックと足の調子、手の調子。先達のK君がさながら跳んでいくようだ。さすがに馴れたものだ。
『足のアイゼン、だてには穿かぬ』
くそッ―、遅れてなるものかと力みはしつれ、三十分、一時間と下るにつれ、冬山に慣れぬ脚の悲しさ。何時しか膝小僧が全身の重荷を支えかねて、がくがくしてならぬ。頑張り頑張りすれど、Kとの距離はいよいよ遠ざかる。気は焦る、Kは遥かの先に後振り返って待ち受ける様子だ。いよいよ焦る、膝は鳴る、靴がばかに重くなり、両脚が痛む、呼吸ははずむ。エエままよと、ピッケルにすがって岩角に腰を下ろして、疲れ果てた両足を投げ出し、呼吸を休めた。K君はとみれば、疲れた僕の意気地なさにあいそを尽かしたものか、またどんどん下界を指して一目散に走り行く。憎らしいがどうもならぬ。普通人に比べて、決して弱い自分ではないと常々うぬぼれているのであるが、雪山に経験ないことは、かくまでに自負心を傷つけるものかと、地団駄踏むほど口惜しかったが、全くどうともならぬ。

しかし、かくてあるべきでない。勇躍一番、サッと突き刺すピッケルに身を起こし、雪を蹴って三合目あたりのKを目当てに最後の頑張りをはじめ、額にしわを刻み、歯を食いしばり、力闘これ努め、漸くにKの待ち受けた二合八勺の小屋へ着く。ここでKは、ちょっと人の悪そうなほくそえみを洩らしてみせた。その忌々しさ。ここ数日を兄弟のごとくしたK君も、下山の際の僕の弱腰には、すっかり期待を失ったと言わんばかり。どうも致し方ない。ここらで捨てられては、なおかなわん。じっと我慢して彼氏のあとに続くよりほかはない。二合五勺、二合二勺、
『もう、これまで来れば大丈夫でしょうね。登るときと違って、下りは案外弱いでしたね』
Kよ、もうそんなに苛めるな。

     ×  ×  ×

太郎坊の小屋がそこに間近く見出されたころには、不思議に先刻の泣きっ面の体も何時しか消えて、やや元気を取り返し、K君と同じ歩調で肩を並べ、楽しい下山者の意気揚々たるタイプを取り戻していた。枯れ残りの富士アザミの白ぼけた坊主頭を、ポーンとピッケルの先でなぎ倒したりして、火山灰交じりの小砂利道を降りる。時々見返すお山の姿は、すがしがしいまでに紺青の空に晴れ輝いて、吾等二人の静甲を祝福してくれるものかの様であった。すでに九時半である。下山に二時間、これでは決して良い成績であるとは言えない。吾等は冬枯れの落葉松や、白樺を透かして最後の感謝をお山に捧げた。

K君は、どこからか清水を汲んできて、登山カップで渇きをいやして、さておもむろに、声朗々と、大空にむけ、

 守れ浅間      鎮まれ富士よ
 山は男の      禊ぎ場所
 雲か雪かと     眺めた峰も
 今じゃおいらの   眠り床

画家は何時までも何時までも、明朗に笑っていた(了)

(この拙文は、昭和9年11月中旬、中央気象台の諒解を得て、第一回雪中登山を決行せし折の紀行なり)


宝永山から山小屋への帰り道、大森明恍は、風にあおられて転倒してしまいました。これが、もし、これが急斜面のスロープだったら、と恐ろしくなります。山小屋に戻って、その話を梶房吉にすると、冬山での歩き方の注意点を話すとともに、梶自身の八合目九合目での恐ろしい経験も、大森明恍に話しました。

新田次郎の小説凍傷には、主人公の佐藤順一と梶房吉の二人が冬の富士山の頂上を目指して登る途中、八合目を過ぎたあたりで、二人が滑落するシーンが出てきます。幸い一命をとりとめたものの、動けなくなってしまった佐藤をその場に残して、梶は一人で、頂上の観測所にザイルを取りに向かいます。もしかすると、梶はこのときの経験を大森明恍に話したのかもしれません。

また、凍傷には、悪天の中を頂上に向かおうとする佐藤を、途中で何度も、梶が思いとどまらせようとするシーンが出てきます。山岳ガイドとしての梶は、悪天の冬の富士山の恐ろしさを熟知しており、客に決して無理な登山をさせないように心がけていたようです。結局、佐藤は梶の静止を振り切って、登山を再開してしまいました。一方、大森明恍の場合は、佐藤と違って宝永山での絵を仕上げたことに満足し、梶のアドバイスに素直に従って、下山することにしました。

下山の途中、大森明恍が梶房吉にかなり遅れをとってしまい、情けない、と自己嫌悪に陥るシーンが出てきます。小説凍傷には、太郎坊と頂上との間を5時間で往復する足の速さには吉田口、須走口、大宮口、御殿場口を通じて、彼の右に出るものはいなかったとの記述が見えますから、梶はもともと強力仲間のなかでも、相当足の早いほうであったようです。

このように、新田次郎の凍傷に登場する梶房吉と、大森明恍が記述するK君の間には、いくつもの共通点が見られます。


文中、富士アザミの花の話が出てきます。次女の小林れい子さんのお宅には、恐らく別の機会に描いたものと思われる、富士アザミの絵が残されていました。そしてその後、この絵は御殿場市に寄贈されました。

Fuji_Azami
#K04
Fuji-Azami (Cirsium Purpuratum)
Meiko Ohmori (1901-1963), Oil on canvas/board.
富士アザミ
大森明恍(明治34年-昭和38年), 板張りキャンバスに油彩, 24.2 x 33.3 cm (F4).
御殿場市蔵
—————————–
フジアザミ: 富士山の周辺に咲く紅紫色のアザミ. 花は直径5 cmから10 cmと大きい.

下山した後、大森明恍の雪中富士登山は、昭和9年1(1934年)1月20日東京朝日新聞の静岡版に記事として取り上げられました。

東京朝日新聞
昭和9年11月20日
お山の画家
海門氏下山す
富士山の研究家として知られる御殿場在富士岡村諸久保の画家大森海門氏は富士山の百態を描くため去る十三日御殿場口から尺余の積雪を冒し富士登山し五合五勺の気象台避難所に六日間立て籠もり彩管を揮って雪のお山の油絵数点を描き大きな収穫を得て十八日下山した。近く再び登山するが日頃の山麓の収穫その他傑作をまとめて来春三越で富士山油絵の個人展を開催すると

偶然ですが、同じ日の新聞の同じページには、静岡美術協会役員の常任理事として長尾一平さんが選ばれたとの記事もあり、赤い線が引いてありました。長尾一平さんは額縁を製造・販売していた磯谷商店の二代目の方のようです。


なお、この後も梶房吉は、富士山頂の気象観測所への物資や機材の補給に貢献されたようです。昭和42年(1967年)には、永年の功績に対して、勲七等青色桐葉章が授与されたとのことです。(御殿場市教育委員会編, 文化財のしおり第32集「富士山に関わった人々」より)

大森明恍と小川清澄

木曜日, 1月 4th, 2018

大森明恍と小川清澄

大森明恍自身のアルバムに小川清澄氏と二人で、親しげに写っている写真が残されていました。大森明恍本人の書き込みによれば、昭和27年(1952年)に、東京の上北沢で撮影されたもののようです。

Ohmori_Meiko_Album_009c
大森明恍のアルバムより
———————————-
1952(昭和27年)→6月8日
小川清澄氏と撮す
上北沢にて
———————————-
小川氏今は昇天してその俤を
茲にとどむ…..記念の撮影となった。
上北澤赤須君宅の玄関にて
赤須道美氏写す
———————————-

小川清澄氏は、日本キリスト教団、松沢教会の牧師さんだったようです。また、松沢教会は、現在も京王線、上北沢駅の近くにあるそうです。したがってこの写真は、昭和27年、大森明恍が御殿場から上京し、松沢教会がある上北沢に小川清澄氏を訪問し、その際に撮影された、ということのようです。そして、その後まもなく、小川氏は亡くなられたようです。

この教会は、もともと大正12年(1923年)の関東大震災の際、被災者の救援のために神戸から賀川豊彦が上京し、松沢(現在の上北沢)で伝道を開始したのが始まりなのだそうです。また、昭和15年(1940年)8月25日には、賀川豊彦と小川清澄は、この教会での礼拝をしていたときに、憲兵隊に連行される、という事件があったそうです。賀川は憲兵隊に厳しく取り調べを受けたそうですが、その後、その話を聞いた当時の外務大臣、松岡洋右が「賀川さんをすぐに出せ。それができないなら、自分が代わりに刑務所に入る」と言ったため、二人は間もなく釈放されたのだそうです。

なお、これは余談ですが、この写真が撮影された昭和27年当時、大森明恍は御殿場市の東山に住んでいました。そのすぐ近くには松岡洋右の元別荘がありました。ただし、松岡洋右ご本人は昭和21年(1946年)、すでに他界され、当時は御子息の松岡志郎さんが住んでおられたようです。現在は、松岡別荘陶磁器館になっています。


それにしても、どうして大森明恍は、そのような牧師さんと親しくなれたのでしょうか?

この写真が撮影された約3年ほど前、大森明恍は御殿場で、「直心」という同人紙を発行していました。昭和24年1月発行の「直心」第5号には、次のような記事がありました。

Meiko_Ohmori_047
大森明恍のスクラップブック「不盡香」より
———-
●報導
(新春心の友会計画予告)
一、直心画会開催
会期 昭和二十四年二月一日より二月五日まで
会場 東京銀座七丁目
資生堂美術部画廊にて
主催 大森明恍
〇展覧会開催の会場期日が決定しました。追て其折皆様へご招待案内状を差上げますが。一先ず予告致します。この度の出品画は大体油絵、水彩素描の七、八点の近作です
〇黎明の富士 油絵二十五号
(御殿場の画室にて冬の朝えがく)
一九四七年春より一九四八年春への製作
△先輩佐藤久二大兄(我国額縁界の権威者)の力作に係る額ぶちに入り、真情こもつたデザインに引立てられて、発表出来ることと感謝に堪えません。
その他今夏伊豆西海岸舟山村での楽しい写生画
〇舟山の海 油絵十二号
〇南の窓 同八号
〇九十一翁の肖像 素描
その他小品数点の出品です
この度は水墨画は割愛して発表を見合わせました。ご存じのごとく個展は戦争前より十年来殆ど毎年一回は東京で開催の記録を持つております。従つて其の間に資生堂ギャラリーで催したことも此の度が四度目ではないかと思います。
一昨年度東京三越本店(日本橋)で、水墨画と、油絵併せて五十点を以て個展を開催し、当時、GHQの教育情報部長イーボデン少佐その他のご指導を頂きましたが(東京朝日新聞社のコンネクションで)特に民間情報部長ロバート中佐は御多忙の中を態々三越展覧会場に秘書役を連れて観覧され、長時間に渉って熱心に観照され、望外の賞賛を受けました。そして、ミスター大森の富士の画を将来アメリカに持つて行つて、ニューヨークやワシントンで展覧会を開きたいものだと、懇切に申されました。(当時新聞にこのことが出ました)ほんとうに有難く、何んとも云えぬ元気が湧出ました私共日本人の芸術が遠く海外に進出のお許しが下ることもいづれは実現されるであろうことを、胸中にえがき、一層精進せねばならんと熟熟思います。
その時の立合者は碧川道夫氏小川清澄氏(賀川豊彦先生の前秘書で幸に通訳の労をとつて下さいました)及びフレーム、デザイナーの佐藤久二兄でありました。
この度の開会中是非とも会員諸兄姉のご来場鑑賞をお待ちして居ります。
———-
(注1) 佐藤久二: 額縁のデザイナーで、大正2年(1913年)日本最初の画廊(日比谷美術館)を開いた先駆者でもあるそうです。
(注2) 碧川道夫(みどりかわ みちお、明治36年(1903年)2月25日 – 平成10年(1998年)3月13日): 映画カメラマン。日本の映画色彩技術の草分け的存在。多くの名作映画の撮影を担当し、『地獄門』で1954年度文部省芸術祭文部大臣賞。(ウィキペディアより引用)
(注3) 賀川豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年(明治21年)7月10日 – 1960年(昭和35年)4月23日): 大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。茅ヶ崎の平和学園の創始者である。(ウィキペディアより引用)
(注4) イーボデン少佐: GHQ民間情報教育局新聞課長、インボーデン少佐と同一人物かもしれません。インボーデン少佐は、戦後直後、新聞・雑誌などの情報統制を担う一方、「二宮尊徳が日本最大の民主主義者」とする文章を書いていたようです。
(注5) ロバート中佐、GHQ民間情報教育局言語課長で、ローマ字化を計画したとされる、ロバート・キング・ホール少佐と同一人物かもしれません。ロバート少佐は、日本語のローマ字化を立案していたそうです。
———-

この記事から、昭和24年(1949年)2月1日から5日まで、銀座の資生堂ギャラリーにおいて個展を開いたことがわかりますが、それ以外にも、この原稿を書いた二年前の昭和21年(1946)には、戦後まもなくにもかかわらず、すでに、日本橋の三越本店で個展を開いていたことがわかります。しかも、そのときに、アメリカの占領軍の文化政策を担当していたと思われる少佐や中佐が、わざわざ大森明恍の展覧会を見に来て、富士山の絵を激賞したこと、その時に小川清澄氏が通訳してくださったこと、などが記されています。

通訳をつとめるほどですから、小川清澄氏は、よほど英語を流ちょうに話すことができたものと推測されます。昭和6年(1931年)に賀川豊彦とともに、アメリカを訪問したという記録もあるようです。また、小川清澄氏と立ち会ってくださった額縁デザイナーの佐藤久二氏という方も、渡米の経験があり英語が話せるようです。GHQは、英語を話すことのできる渡米経験者を通訳として雇っていたのかも知れません。

それにしても、戦後まもなく、大森明恍が日本橋三越で富士山画の個展を開いたときに、アメリカ軍の占領政策の中枢を担っていた将校たちが、わざわざ通訳二人(しかも、宗教関係者と芸術関係者)を連れて、大森明恍の絵を見に来たというのは、何が目的だったのでしょうか? 当時の状況から推測すると、単なる絵画鑑賞だったとは考えにくい。むしろ、ある種の調査、さらに言えば、ある種の検閲が目的だったのかもしれません。当時のGHQの関心事は、日本が二度と軍国主義に戻らないようにすることだったするならば、例えば、「富士山絵画と軍国主義の関係を明らかにする」ことが目的だった可能性も考えられます。結果によっては、個展の即時中止命令が出されて、大森明恍の画家生命が絶たれてしまった可能性もあったのかもしれません。(例えば、藤田嗣治が戦争中に戦争画を描いていたことが原因で、戦後日本にいたたまれなくなって、フランスに戻ったのは、同じ時期、昭和24年(1949年)3月のことだったそうです)

そのときに、たまたま通訳をしていただいたのが小川清澄氏でした。氏には戦前からのいろいろな苦い経験もおありだったでしょうから、通訳というよりも弁護人として、積極的に大森明恍をかばってくださった可能性も考えられます。その結果、大森明恍と富士山画は無罪放免、逆にむしろアメリカ軍の将校達は、大森明恍を大いに励まして帰っていったようです。大森明恍にとっては、小川清澄氏は恩人となり、後々まで、その時の感謝の気持ちを忘れなかった、ということかもしれません。

この時の出来事は、さらに、当時GHQに接収されていた箱根の富士屋ホテルで富士山の個展を開くことにもつながっているようです。


賀川豊彦という人物が、たびたび登場してきました。賀川豊彦は、戦後の一時期、東久邇内閣の参与となり、また、GHQとも関係も深く、その後ノーベル平和賞の候補にもなられたそうです。ところがその一方、戦前、賀川豊彦は、御殿場にも足跡を残していたようです。御殿場市教育委員会が平成22年(2010年)に発行した「御殿場の人物事典」によれば、賀川豊彦は昭和5年(1930年)御殿場の青年たちの依頼を受けて、勉強会を開いたり、農民福音学校高根学園という学校の建設を提案・支援したりしたそうです。このいきさつは、「みくりやと賀川豊彦」というサイトに、より詳細に記されています(「みくりや」は御殿場の古い地名です)。

大森明恍が賀川豊彦と直接面識があったかどうかは、わかっていませんが、当時、御殿場に住んでいた大森明恍が、困窮する御殿場の農民を支援し続けた賀川豊彦に対して、親しみの気持ちと、多大なる尊敬の念とを抱いていたとしても不思議ではないように思われます。それは「直心」において、賀川豊彦に対してだけ「先生」と記していることからも、うかがえるように思われます。

大森明恍と佐藤久二_1

日曜日, 12月 23rd, 2018

白いスーツ姿の佐藤久二さん

昭和14年(1939年)7月26日から30日まで、東京銀座資生堂ギャラリーで開催された、 第二回富士山画展の会場で、大森明恍と佐藤久二さんが並んで立っている写真が残っていました。大森明恍は黒いスーツ、佐藤久二さんは白いスーツを着ています。

第二回 富士山画展会場内
向って右の白服はフレームデザイナーとして権威ある、磯谷額縁店の佐藤久二氏。
佐藤氏は小生のの最も敬信する霊友にして、尊崇篤き先輩なり。展覧会はもちろん総て人生芸術上の唯一無二のオヴザーバーである

戦前、銀座で個展を開催するようになった時点で、すでに大森明恍と、磯谷商店の額縁デザイナー佐藤久二さんとは交流があったことがわかります。大森明恍が資生堂ギャラリーで個展を開催するにあたって、何らかの形で佐藤久二さんに助けていただいたのかもしれません。

直き心

戦後まもなくの頃、大森明恍は「直心 Naoki Kokoro」という地域の同人紙のようなものを発行していたようです。「不盡香」と名付けられたスクラップブックには、昭和24年1月に発行された、「直心」第5号の一部の切り抜きが残っていました。

Meiko_Ohmori_049_050Meiko_Ohmori_048_044
直心
NAoKi KokoRo
昭和二十四年一月
第五号
一面
———
拝春
なほき心の 友どちと
互に手をとり 心を捧げ
天地宇宙の 御前に
祖国の乱脈 衰頽を
肺腑の底から祈りたい

 

かくありてかくなることも
御神意なりと 甘受して
感謝報恩 一念に
ただただ 御心のままに
救はせ給へと 合掌せん

明恍
———
直心画会開催
開期 昭和二十四年 二月一日より二月五日まで
会場 東京銀座七丁目
資生堂美術部ギャラリー
主催 大森明恍
———
◎御案内
…….
展覧会出品画 目録
———
———-

一面の中央には、資生堂ギャラリーで2月1日から2月5日まで開催された展覧会「直心画会」の案内が掲載されています。1995年に発行された「資生堂ギャラリー75年史」では、「不詳」となっている展覧会です。

「資生堂ギャラリー75年史」の発刊にあたっては、当時の新聞や美術雑誌をくまなく調べたようです。そして、広告がのっていた場合には「典拠」として示しています。「不詳」と書いてあるということは、当時の主要な新聞や美術雑誌には、一切広告が出なかったことを示しています。

「直心画会」の作品目録を見ると、出展されたのは大森明恍の絵ばかりのようです。「直心画会」とはありますが、実質的には「大森明恍、富士山画個展」だったようです。

作品目録の下には、佐藤久二さんが「直心と額縁精神」と題して、文章を寄せています。佐藤久二さんは、日本を代表する額縁デザイナーだったようです。また、佐藤久二さんは、大正2年(1913年)に日本最初の画廊「日比谷美術館」を開いた、日本における画廊経営の先駆者でもあったそうです。日比谷美術館では東郷青児の個展などが開かれていたようです。ちなみに、資生堂ギャラリーは、現存する日本最古の画廊だそうですが、それでもオープンは大正8年(1919年)とのこと。それ以前にすでに画廊を開いていたことになります。

さらに変わったところでは、大正1年か2年に、松方コレクションが日本に到着した直後、秘密裏に松方邸に呼び出されて、絵画作品の整理や補修を頼まれたこともあったそうです。このような経歴から、あるいは職業柄、佐藤久二さんは、当時の美術界の動向に大変詳しい方だったのでないかと推測されます。

ちなみに、戦後まもなく大森明恍が日本橋の三越で富士山画の個展を開いたとき、GHQの民間情報教育局(CIE)による査察がありました。その時に通訳をして下さった方々のうち、お一人が佐藤久二さんでした。佐藤久二さんは、戦前、米国に滞在した経験があり、英語に堪能だったために、GHQから通訳を頼まれたのかもしれません。そのときの御縁で、その後も大森明恍との交流が続き、「直心」に掲載する原稿の執筆を打診されたのかもしれませんが、なぜ、このようなローカルな出版物にわざわざ原稿を書くことを引き受けたのか、少々不思議な感じも受けます。

また、「直心画会」での展覧会出品画目録には、「黎明 油絵25号」という作品があります。この作品のために、佐藤久二さんは特別に額縁を作ってくださったようです。しかしながら、なぜ、佐藤久二さんは、当時の新聞や美術雑誌に広告が出ないような展覧会のために、わざわざ額縁を作ってくださったのでしょうか? 佐藤さんが寄稿してくださった文章のなかに、何かヒントがあるのかもしれません。


◇直心と額縁精神(一)

フレーム デザイナー
東京 佐藤久二(62)

額縁というものは、絵画に対してあたかも人間に必要な着物の役目をするもので、いかに美人でも裸体では始末が悪く、また衣服を着ただけでは効果はない、やはりその人その人の顔形に似合うように工夫して始めて役に立つもので、額縁もその通り、各人の顔の異なるように各人の画風も異なり、その中でも春着冬着と違うように画面もまた違うので、それに似合うように工夫して作るのが第一条件、そこに額縁精神と言うようなものがある。

何物にも精神のないものはない。人間は自分で勝手に悪くも良くも精神を取り扱うことができるが、物体はさようにはいかない。自分自体ではいかんともすることはできないが、そのものの役目は立派に果たしている。中にはあまり役にたたないものもある。その違いは皆作者の精神の持ち方の現れである。悪い考えの人の作品は永遠に不良品として残り、始末が悪い。人間と違って自ら良くなるということはできない。その反対に「直心」の持ち主の作品は永遠に保ち、何百年の今日もなお人を喜ばせ、また役立ちて、その内容精神は生きている。人間は悪い精神の持ち主でも時には改めることもできるが、物体はそれ自体自発的には如何にすることもできない。ただ作者の意思を伝えるのみで青江下総は後世人をあやめ、同じ刀でも正宗は至尊の護刀となる。故にかかる悪品が世に充満すれば悪人よりも却って始末が悪く、かかる国は必ず滅亡するものと私は確信しておった。私は学者でも宗教家でも美術家でもない、ただの工人だが、仕事から物を見ると、およそその国の気持ちが解るような気がした。

かつて米国にいた時、税関に行って荷造りの見学に行った。そして完全なものを見たいと頼んだら、役人がABCと国別にしてある倉庫を順々と渡り、Jの部すなわちジャパン倉庫に案内、そこに大破せる荷造りを見て驚いたが、私は丈夫な荷造りを参考のために見たいというと、役人曰く「他のいずれの国のものも破れていない。ただ日本ばかりだから、こんなのをつくらなければ良いのだ」と言われて非常に恥かしかった。我国では感じられないような国辱を感じた。遠くまで来てはじめて解った。そして有難いものを見せてもらったと、かえって役人に感謝した。必ずこんな物を再び作らない日本にしたいと堅く決心をした。これも品物に対する精神の現れである。品物はモノを言わぬが日本人の信用は失墜する。米国はまたあまりに機械的である。人間がある以上これもどうかと思う。英国に行ってみると実に驚く。手袋でも靴でも機械等すべて手堅く国民の気風が頼もしく思われて美しかった。それに引きかえてパリでは見かけは良いがもちが悪く、見た目が良いだけ日本よりもまだましだと思った。その国全体が思いやられる様な気がした。

私は作品に現れた国体と言ったが、その後およそ作品の通り国情が変わったので密かに驚いた。そのうち一番ひどいのが我国であった。米国で見た荷造りの時すでにそう思った。幸い今後米国にあった日本荷造りのような事をしないよう、全ての作品に注意すること、今後「直心」をもって各人が仕事をすれば、文化国家の実をあげられると思う。顧みて悔いなきか?自分たちでも直心をもって仕事をしているつもりだ。一人ということは小さいようだが、考えようによっては全部のことだ。一人ぐらいと思うことは一番恐ろしいことである。

自分は自分の仕事を世界で一番良いものにしたいと精進している。出来る出来ないは私の知ったことではない。神様の知ったことで、私は自分で一番ベストを尽くせばよいのだと確信して仕事をしている。そこに安心と楽しみとなり、世間的には難事の仕事も面白く、かえって楽な仕事は面白くないような気がする。難事ということは、あんかんな空虚より考えようによってはやりがいがあるゆえ、したがって後味がある。大変だと嘆くのは直心のないから起こる横着な考えからくる産物だ。私は自分の仕事は何物よりも楽しみで仕方がない。その上仕上がると代価がもらえてあまりうますぎるような気がするときもある。

私の作った額縁が、昨年クリスマスに米国のニューヨーク市にあるリーダーズ・ダイジェスト社の社長に送られ、間に合わないで飛行機で送って今はそこの社長室に懸っているそうだが、それが目に見えるようで無限に楽しい。もし壊れると私の恥、いや復興後の日本の恥をかの国の知識階級の前にさらすことになるのだが、私はその前に商工業試験所で乾燥および熱度など米国と同じ状態で六十時間化学的に検査して送ったので安心している。かつての荷造りのようなことは絶対にしない。何か自分の責任の一部を果したような気がして愉快でならない。

美しいということは国境のないもので、私が滞米中一番頭に残ったものが二つある。一つは鶏で、一つは美術品である。当時は何十万の日本人があちらでもこちらでも排斥され、町を歩くにも小さくなって歩いていた。ある日動物園に行ったら大勢人が集まってワンダフル、ワンダフル(ステキ)と言っているものがあるので、私も行って見たら何とJAPANESE HEN(日本のにわとり)と書いた金網の中で高い木の枝の上にとまり、一丈あまりの長尾を下げた尾長鶏が悠然と構えている姿を見た時、涙の出るほど嬉しかった。

またボストン美術館で特別陳列の日本美術部の部屋を見た時ほど良いものを作らなければならないと思ったことはない。先輩の仕事の美しきた後来同国人の面目如何ばかりかと追憶の念限りなし。万事斯くのごとし。農作物でも直心の人の作ったウドは香り高く驚いたことがかてあったことを思い出して愉快だ。何にしても良いものを作って死にたいものだ。額縁が何で(直心と額縁精神)と言うかということは他の工芸品中最も直心の心がけがなければできないという事を次回に書きたいと思います。額縁といっても日本には国情の関係で二、三種しか無かったが、外国では古くから発達して何千種中には国宝級のものも多くあり、日本人の考えた額縁とは雲泥の差であることを次回にお伝えしたい。ただ単に遠く欧米で調べた苦心談を額ということだけでなしにあらゆる物の方面から話してみたいと思います。(つづく)


「直心と額縁精神」によると、佐藤久二さんは、戦前アメリカに滞在していたときに、日本からきた荷物の荷造りが粗悪だったことにショックを受けて、これからは良いものだけを作ろうと心がけていたそうです。その甲斐があって、戦後、佐藤さんが作った額縁が、クリスマスの贈り物としてニューヨークのリーダーズ・ダイジェスト社の社長室に飾られることになったことが、大変に名誉なことと思われていたようです。佐藤久二さんにとって、米国人に評価される、ということには、他にも増して特別な意味合いがあったようです。

詳しい経緯は書いてありませんが、ニューヨークの出版社の社長へのクリスマスの贈り物に選ばれるということは、少なくとも戦後、日本に駐留・駐在していた米国人の間でも、佐藤久二さんが作られていた額縁が高く評価されていた可能性が高いことを示しています。佐藤さんは、GHQの民間情報教育局(CIE)が芸術関係の査察、あるいは検閲をするときに、通訳を頼まれたようなので、当時日本に駐在していた米国人の間で、どのような美術品の評判が良かったのか、良く知ることのできる立場におられた可能性が高いと思われます。そして、その中には、大森明恍の富士山画も含まれていたのかもしれません。大森明恍が、資生堂ギャラリーで富士山画の個展を開くことになれば、きっと多くの米国人が見に来るに違いない。したがって佐藤久二さんが作った額縁も米国人の目に止まる可能性が高い、是非米国人に日本人が描いた絵だけでなく、日本人が作った額縁も見てもらいたい。そのように考えて、大森明恍の富士山画のために額縁を作ってくださったのかもしれません。

大森明恍と佐藤久二_2

日曜日, 5月 19th, 2019

昭和37年(1962年)の12月、大森明恍が個展を開催した会場のなびす画廊あてに、佐藤久二さんから手紙が届きました。当時、佐藤さんは熊本に住んでいたようです。個展には行くことができず残念だが、個展の成功を祈っている、という内容でした。

(表)東京都銀座西1の7 なびす画廊内 富士山画展覧会 大森明恍様 速達便, (裏)熊本市保田窪本町xxx^x 佐藤久二 十二月九日
拝啓、この度は個展ご開催の由、おめでとうございます。またご案内状を賜り、当地に転送されてまいりました。遠くから、ご成功を切に祈ります。この前は、高血圧でお目にかかれず、残念に思いおりましたところ、今回、また九州で残念続き。当地では富士山は珍しいので玄関へ懸けてある絵ハガキ型の夕陽の富士、資生堂展*の際、東北の青年が買約したものと同等くらいの出来栄えで、磯谷の木彫り本金の額に入れてあるもの、来る人毎に感嘆の声を放ち、その度に富士の難しさを説明すると、学識のある人士は納得する。今日もその前でこの案内状を読んでおり、私も貴殿と富士とは永い因縁で今更感慨無量。近作はいろいろかけ違い、拝観の栄は得ずとも、おそらく貴殿ほど富士を多く描いた人は、未だかつて無く、さぞかし今回の個展には心強きものあることと拝察つかまつります。今後一層のご努力のほど、祈り上げます。二つとない良いモデルと取り組んでいることはうらやましき限りです。昔大阪の世界的骨董商山中で高麗焼きの写真を見たが、今なお頭の中に現れる逸品
———————————————
*) 資生堂展: 資生堂ギャラリーでの展覧会
で、もちろん写真士も当代の名人だったが、土鍋を写したのでは、あの高貴さは出ないと、今更、貴殿の選んだモデルの偉大さには羨望の極みです。なにとぞ最後の境地に達せんことを切望してやみません。富士の見えない当地でみる富士の画は、今まで気の付かない美しさとまた格別の趣を、毎日私の生活に生かしてくれます。私も、もはや余生短いが今までの経験を生かして、今までの人生より長い人生を暮らす決心でおります。まずは個展のご成功を祈りつつ、近況お報らせまで。末筆ながら皆様によろしくお伝えたまわりたく。敬具
十一月九日
毎朝台所の窓から遠く燦蚕と前の富士とは裏腹な阿蘇を見て私の心に響く
不比内割人* 七十四才となれり
懐かしき 大森大兄机下
———————————
*) 不比内割人は佐藤久二さんのペンネーム

原文は、カタカナ交じりの独特の文体で書かれています。当時の熊本のお住まいの玄関には、富士山の絵がかけてあって、毎日ご覧になっていたとのことです。


大森明恍が亡くなった後も、ときどき、日出子夫人あてに佐藤久二さんから手紙が届いていたようです。

(表) 静岡県御殿場市東山504 大森日出子様, (裏) 佐賀市xxxx 佐藤久二 一月八日
拝復ご無沙汰の段、平に御免。皆様お元気の様子、頂上ご次男君はいかがお暮し候や。さぞかしご成人の事と拝察つかまつり候。私も親しい友人はニ、三人となり、他はほとんど他界。月には行けそうになったが、私には誠に寂しい世界となりました。私も馬齢八十一才となりましたが、一週間ごとに血圧を調べてるが、140-75、五十才程度、気持ちは三十才、自動車の前を通るときは、八十一才老。もうろくしないため、常に勉強しているが、九州の文明は福岡までしか来ないので、ちょっと不便。目下新聞と、佐大口座と、テレビが頭の薬。他に長い人生ではないが、最後までは頑張る。有史以来の月旅行の夢も生きてるうちには難しいが、確実に行けるということが分かっただけでも、生き甲斐はあった。これからはうまく死ぬことだが、大森君のようにうまくいくとよいが。長患いは御免だ。そのために一生懸命頭を使うことにしているが、うまくいくか、神のみ知る。我は努力するのみ。勝手なことのみ申し上げ失礼。御身大切のほど祈り上げ候。 大森様 佐賀にて 久二
お問い合わせの(レンブラント)あれは始めて大森君を児島先生に紹介したとき、勉強の参考にといただいたもので、「ルーブルにあるものと同じもので」美術家や美術愛好家にはまたとない参考品ですが、ルーブル美術館で土産品として多産、販売しているので、したがって参考品としては何万金に値するが「市価はほとんどないものです」 芸術的エッチングでは美術家の良心で始めから何十枚と少ない数しか印刷しない「限定版」で終わると原版を責任をもってこわしてしまう。しかも五十枚限定なら初版はインキの付きが悪いから格安で中程になるほど最高値、終わりに近いものはまた始めと同じくらいの格安となる次第で、従ってオリジナルには本人のサインとともに、何枚目の何枚と10/50とか50/50
とか必ず記してあるものでそれ以外は市価は無いことに成っております。つまり専門家の参考品で財産ではないわけです。 また額縁もその通り。額縁美術館というものが、世界中にあるが、まだ日本にはない。しかしそのうち必ずできるに決まっているが、その時はまたその額はまた市価はないが参考品としては私だけが作れた特許品でそこには時間と費用が莫大にかかったもので、これから作り始めようとしたとき、急に外国行きとなり、あの試作品だけとなり、帰朝したときは忙しくて、とうとうあれだけとなって仕舞ったので、額縁美術館が誕生すれば、唯一の参考品となるわけです。また三越展のときの竹づくりの額縁も特許を取って最初に大森君の個展に使ったもので、三越では各団体の審査員級の画家以外は展覧会ができない
規則になっていたのだそうで、重役連が見て問題となり、大森氏が何の団体にも属さないので重役会議で問題となり美術部長の桜井氏が責任上大事となり。私が推薦したから審査員級かと思い調べもせず貸したわけと善後策を相談されたが、私が自信をもって紹介したと強調すると、三越では社会的地位がないでは困ると、大変問題となった。とたんGHQの美術部長から三越に電話で開催中の大森氏の富士展を是非見たいと、GHQから使者がきて、大騒ぎとなり、当時GHQは昔の天皇以上の権威のあったもので、途中警戒などなかなか大騒ぎとなり、三越の重役連も面喰い出迎えの支度するやら、約一時間というはずが、三時間にもなったので、帰る途中の警戒に警視庁番狂わせとなり、三越重役
連は面目をほどこし、前の問題は解消、美術部長桜井君の首もつながり、その上、一週間を二週間も開催され、また竹の様々な額縁にも興味を覚え、制作者に会いたいと言い出され、私を三越から迎えに来て特許竹額の由来を説明すると、同博士は大喜び、こんなものは日本に来て竹の国とは聞いていたが、初めてと握手を求められ、美術部長も面目たって大喜びの中に閉会。その時の額も本家の私の所には一個も残らず、大森君の所にあればそれが額縁美術館に出せる唯一のものとなる。 これも色々の事で忙しく、特許は取ったがあまり作らなかった。和田三造先生の絵を入れて、米国トルーマン大統領の官邸に一枚あり。また鈴木文司郎リーダーズダイジェスト日本支部長の世話でニューヨーク同本社長の部屋に
一枚あるくらいのもの。当の本家にはレンブラント額も竹製額も一枚もない。あるのは同特許証と図面があるだけ。これは額縁製作上初めてのもので非常に費用が掛かったが、できたのは一枚だけの作品で、竹額も100/100くらいしか作らないが日本額縁の歴史的ものとなることでしょう。我々の周りには参考品としては珍しいものばかりだが、市価にはあまり関係のないものばかりで。品物ばかりではなく、人間もまたしかり。可可。 昭和四十四年一月八日 佐賀にて 号不比内割人 旧日比谷美術館主 大森様

戦後まもなく、三越で開催された大森明恍の個展の経緯について書かれています。

大森明恍と山下清

土曜日, 7月 15th, 2017

大森明恍と山下清

大森明恍自身のアルバムに、「放浪のちぎり絵画家」として知られる、山下清さんといっしょに写っている写真が残されていました。阿蘇山をモチーフにして描こうと九州を旅行中、偶然、山下清さんとお会いした、ということのようですが……。

Ohmori_Meiko_Album_001c
(本人の手書きのメモ)放浪の画人 山下清との対談の時, 熊本日日新聞掲載写真.
——————–
右から二人目: 大森明恍, 三人目: 山下清さん

さらに、この写真と全く同じ写真が掲載されている新聞の切り抜きも保管されていました。すでに、紙がかなり黄ばんでいました。

大森明恍_熊本日日新聞002b
——————————–
(上の切り抜き) 熊本日日新聞
昭和31年11月14日(水曜日)

大熊画伯が來熊

富士を描いて三十年という”富士山画家”大森明恍さん(五五)=静岡県御殿場市=がこのほどひょっこり熊本を訪れた。来年の一月、東京銀座で開く個展の出品山のひとつとして九州の山と海を描こうというもので”阿蘇を主題としてことしいっぱいの予定でけん命に描いてみたい。いいのが出来たら熊本でも個展を開くつもりだ。油でも水彩でも墨絵でもそのときの印象で描いてゆく”と語っていた。
——————————–
(下の切り抜き) 熊本日日新聞
昭和31年11月17日

初めての背広姿で
山下さん 緒方さんにお礼訪問

来熊中の”放浪画家”山下清さん(三四)が弟辰造さん(二六)と一緒に十六日夕方熊本市大江町本一六七緒方辰記さん(五五)=芳久旅館主=方を訪れた。昨年二月初め山下さんが熊本に来た時一カ月近く緒方さんの家に泊って面倒みてもらったお礼にだが、今度も熊本へ来るなり「早く緒方さんに会いたい」とばかり言っていた。
緒方さんはじめ奥さんのカツエさん(五五)二女良子さん(二一)二男達郎さん(一七)=第一高二年=ら家族に囲まれた山下さんはすっかり喜んで良子さん姉弟と腕相撲したり、背くらべしたり大はしゃぎ。来熊中の画家大森明恍氏(五五)=静岡県御殿場市=も来合せて一時間近く歓談した。
この日山下さんは大洋デパートから贈られた鉄紺色のしぶい背広を着てリュウとしたいでたち。「生まれてはじめて背広着たけど、やっぱりツツッポ(筒袖)の和服がラクだね」といっていたが、なかなか板についた紳士ぶりだった。
(写真は緒方さん宅に背広姿で訪れた山下清さん=右から三人目)
——————————–

確かに、背広にネクタイを締めた山下清さんの写真は、珍しいのかもしれません。山下清さんは、戦争中、徴兵を逃れるために、日本各地への放浪を始めたそうです。昭和31年当時は、東京の大丸デパートで山下清さんの作品展が開催されて、大変な人気者となり(入場者は80万人を越えたとか…)、個展には当時の皇太子も訪れたそうです。もしかすると、背広を贈った熊本の大洋デパートでも「山下清作品展」の巡回展が開催されていたのかもしれません。

大森明恍と山下清さんの接点は、このとき以外には無いようです。しいて共通点をあげるとすれば、二人とも風景画家であり、いわゆる中央画壇とは、ほとんど縁がなかったことくらいでしょうか。

一方、大森明恍は、このときの九州旅行で、他の有名人にも会っていたようです。

Ohmori_Meiko_Album_008c
———————————-
(大森明恍本人のメモ)
横綱 吉葉山関に抱かれて
十二月五日の夜
———————————-

吉葉山潤之輔は第43代横綱で、1920年生まれ、北海道出身。この写真が撮影された昭和31年(1956年)当時は、実際に横綱に在位していました。
1942年に幕下優勝を果たして十両昇進が目前だったときに、応召されてしまい、戦地で少なくとも銃弾2発を浴びたそうです。日本国内では吉葉山の戦死を伝える情報まで流れ、高島部屋の力士名簿からも除籍されていましたが、1946年に復員し、その後相撲界に復帰して、横綱まで登りつめたとのこと。当時は、まだ戦争のいろいろな記憶を抱えながら、活躍されていた方も多かったようです。

一方、吉葉山の後ろにいるのは、安念山治さん(あんねんやま おさむ、1934年生まれ北海道出身)とのことです。安念山関の最高位は関脇で、引退後は立浪親方となりました。昭和31年(1956年)当時は, 幕内力士だった思われます。

Ohmori_Meiko_Album_007c
———————————-
(本人によるメモ)
仕事に疲れ, 降雨を幸に 阿蘇内ノ牧温泉に休憩して はからずも 安念山治君と対面
阿蘇産交バス名ガイド 下田央子嬢を伴ひて
———————————-

旅行中に出会う人物として、山下清さんといい、横綱吉葉山といい、安念山関といい、(名バスガイドさんといい、)偶然にしては、少々できすぎているようです。大森明恍には、熊本日日新聞に知り合いがいて、これらの出会いをアレンジしていたのかもしれません。もしかすると、大森明恍には、出身の旧制中学校、現在の福岡県立東筑高校の同窓生の友人(あるいは先輩、後輩)が新聞社に勤務していたのかもしれません。例えば上の写真で、吉葉山に抱かれているもう一方の紳士とか…..。地方の新聞社が、地方のデパートの絵画展開催をプロデュースしていた、という可能性も十分に考えられます。

大森明恍のアルバムには、他にも、阿蘇外輪山でジープの中から画を描いている写真や、日出子夫人と阿蘇山の火口に登った時の写真も残されていました。

Ohmori_Meiko_Album_006c
———————————-
阿蘇外輪山
ジープの中で作画す
———————————-

ジープは熊本営林局からお借りしたとのことです。

Ohmori_Meiko_Album_005c
———————————-
風雪の阿蘇噴火口に日出子を連れて登り火口底をのぞいて視た時
十二月二十六日
———————————-

12月26日とのことで、風も強そうです。地面には積雪も見えますが、こんなときにも、日出子夫人は和服にぞうりを履いていたようです。