大森明恍と芦屋町
大森明恍は、 1901年(明治34年)10月18日、福岡県遠賀郡芦屋町に生れました。父親は友三郎、母親はカメといいます。大森明恍本人によるスクラップブック「不尽香」には、両親の写真が残されていました。

「明治三十三年二月父大森友三郎(34才)の像」(大森明恍の自筆)

「母」晩年の俤(おもかげ)
一方、芦屋町には、大正初期の街並みの手書きの地図が残されていました。古老の記憶に頼って作られているため、正確さに欠けるかもしれない、とのことですが、この地図の一番下のほうに「鐘崎屋大森」とある家が、大森明恍の生家のようです。本人の戸籍に記載されていた住所と、この地図の位置が一致することは、芦屋町の学芸員の方からお墨付きをいただきました。また、その向かいには芦屋郵便局がありますが、当時、友三郎は郵便局長であり、経済的には比較的、恵まれていたと伝えられています。

さて、この地図によると「鐘崎屋(かねざきや)」 という屋号が使われていたようですが、芦屋町に隣接する宗像市には、「鐘崎」という地名があり、漁業が盛んな海辺の土地のようです。
戸籍によると、大森明恍(本名桃太郎)は四男となっています。ただし、長男と次男は生後間もなく亡くなったようなので、実質的には次男として育ったようです。大森明恍は旧制の福岡県立東筑中学校(現在の福岡県立東筑高等学校)に進み、 卒業後、1919年(大正8年)18才のときに画家を志して上京した、ということのようです。
時は流れて、1986年(昭和61年)5月、大森明恍の長男、大森如一さんご夫妻(神奈川県川崎市在住)は、大森家のルーツを訪ねて、福岡県を旅行されたことがあったそうです。そのときに「大森家先祖累代之墓」を探し当て、お参りしたとのことです。

当時の地名は宗像郡玄海町で、その後、2003年に宗像町と合併して現在の宗像市となったそうです。「大森家先祖累代之墓」には新旧二つの墓石があったようですが、この写真は古いほうのお墓です。そのとき、九州にお住まいの遠縁にあたる方が案内してくださったそうなのですが、この方のお名前は不明。この方があらかじめ周囲の草刈りもしてくだっていたそうです。またこの時、わざわざ承福寺のご住職も同席してくださったそうです。 承福寺からは海が近くに見えていたようです。

地図で調べてみると、この承福寺と大森家の屋号となった地名「鐘崎」とは距離にしてたかだか2 kmほど。 したがって、元々は鐘崎に住んでいて、ある時、芦屋に移り住み、屋号として「鐘崎屋」を名乗るようになったのではないか、という推理が成り立ちそうです。
大森明恍が亡くなったあとのことですが、未亡人となった日出子夫人と当時の 承福寺のご住職の間には、年賀状のやり取りが続いていたようです。ただし、大森明恍のお墓は、現在、九州ではなく、御殿場市内の共同墓地にあります。
大森如一さんは、その後大森氏の系図も描いていました。藤原鎌足を祖とする大森氏は、中世、今の御殿場から小田原のあたりを支配していたのですが、戦国時代の1495年に北条氏によって滅ぼされたとのことです。ところが、この時、一族の一部は生き残って、九州に逃れた、と言い伝えられてきたそうです。

一方、大森明恍本人も存命中、富士山の絵を描くかたわら、御殿場市周辺で「大森氏」の歴史についても調べていたようです。今でも、御殿場市の周辺には大森氏にゆかりのある遺跡・遺物が数多く残っており、その一部は御殿場市の文化財にも指定されているようです。大森明恍が、静岡県駿東郡小山町にある乗光寺に残る大森氏の系図を大学ノートに書き写しとったものが残っていました。



九州福岡県芦屋町出身の大森明恍が、富士山の絵描きに専念しようと、静岡県の御殿場市に移り住んだのは、いろいろな偶然が作用した結果だったのかもしれません。しかし歴史的にみると、中世、自分の先祖は御殿場一帯を支配した大森氏だったかもしれないことを知り、めぐりあわせの不思議さを、画家本人も十分自覚していたようです。