大森明恍と佐藤久二_1
白いスーツ姿の佐藤久二さん
昭和14年(1939年)7月26日から30日まで、東京銀座資生堂ギャラリーで開催された、 第二回富士山画展の会場で、大森明恍と佐藤久二さんが並んで立っている写真が残っていました。大森明恍は黒いスーツ、佐藤久二さんは白いスーツを着ています。
戦前、銀座で個展を開催するようになった時点で、すでに大森明恍と、磯谷商店の額縁デザイナー佐藤久二さんとは交流があったことがわかります。大森明恍が資生堂ギャラリーで個展を開催するにあたって、何らかの形で佐藤久二さんに助けていただいたのかもしれません。
直き心
戦後まもなくの頃、大森明恍は「直心 Naoki Kokoro」という地域の同人紙のようなものを発行していたようです。「不盡香」と名付けられたスクラップブックには、昭和24年1月に発行された、「直心」第5号の一部の切り抜きが残っていました。
一面の中央には、資生堂ギャラリーで2月1日から2月5日まで開催された展覧会「直心画会」の案内が掲載されています。1995年に発行された「資生堂ギャラリー75年史」では、「不詳」となっている展覧会です。
「資生堂ギャラリー75年史」の発刊にあたっては、当時の新聞や美術雑誌をくまなく調べたようです。そして、広告がのっていた場合には「典拠」として示しています。「不詳」と書いてあるということは、当時の主要な新聞や美術雑誌には、一切広告が出なかったことを示しています。
「直心画会」の作品目録を見ると、出展されたのは大森明恍の絵ばかりのようです。「直心画会」とはありますが、実質的には「大森明恍、富士山画個展」だったようです。
作品目録の下には、佐藤久二さんが「直心と額縁精神」と題して、文章を寄せています。佐藤久二さんは、日本を代表する額縁デザイナーだったようです。また、佐藤久二さんは、大正2年(1913年)に日本最初の画廊「日比谷美術館」を開いた、日本における画廊経営の先駆者でもあったそうです。日比谷美術館では東郷青児の個展などが開かれていたようです。ちなみに、資生堂ギャラリーは、現存する日本最古の画廊だそうですが、それでもオープンは大正8年(1919年)とのこと。それ以前にすでに画廊を開いていたことになります。
さらに変わったところでは、大正1年か2年に、松方コレクションが日本に到着した直後、秘密裏に松方邸に呼び出されて、絵画作品の整理や補修を頼まれたこともあったそうです。このような経歴から、あるいは職業柄、佐藤久二さんは、当時の美術界の動向に大変詳しい方だったのでないかと推測されます。
ちなみに、戦後まもなく大森明恍が日本橋の三越で富士山画の個展を開いたとき、GHQの民間情報教育局(CIE)による査察がありました。その時に通訳をして下さった方々のうち、お一人が佐藤久二さんでした。佐藤久二さんは、戦前、米国に滞在した経験があり、英語に堪能だったために、GHQから通訳を頼まれたのかもしれません。そのときの御縁で、その後も大森明恍との交流が続き、「直心」に掲載する原稿の執筆を打診されたのかもしれませんが、なぜ、このようなローカルな出版物にわざわざ原稿を書くことを引き受けたのか、少々不思議な感じも受けます。
また、「直心画会」での展覧会出品画目録には、「黎明 油絵25号」という作品があります。この作品のために、佐藤久二さんは特別に額縁を作ってくださったようです。しかしながら、なぜ、佐藤久二さんは、当時の新聞や美術雑誌に広告が出ないような展覧会のために、わざわざ額縁を作ってくださったのでしょうか? 佐藤さんが寄稿してくださった文章のなかに、何かヒントがあるのかもしれません。
◇直心と額縁精神(一)
フレーム デザイナー
東京 佐藤久二(62)
額縁というものは、絵画に対してあたかも人間に必要な着物の役目をするもので、いかに美人でも裸体では始末が悪く、また衣服を着ただけでは効果はない、やはりその人その人の顔形に似合うように工夫して始めて役に立つもので、額縁もその通り、各人の顔の異なるように各人の画風も異なり、その中でも春着冬着と違うように画面もまた違うので、それに似合うように工夫して作るのが第一条件、そこに額縁精神と言うようなものがある。
何物にも精神のないものはない。人間は自分で勝手に悪くも良くも精神を取り扱うことができるが、物体はさようにはいかない。自分自体ではいかんともすることはできないが、そのものの役目は立派に果たしている。中にはあまり役にたたないものもある。その違いは皆作者の精神の持ち方の現れである。悪い考えの人の作品は永遠に不良品として残り、始末が悪い。人間と違って自ら良くなるということはできない。その反対に「直心」の持ち主の作品は永遠に保ち、何百年の今日もなお人を喜ばせ、また役立ちて、その内容精神は生きている。人間は悪い精神の持ち主でも時には改めることもできるが、物体はそれ自体自発的には如何にすることもできない。ただ作者の意思を伝えるのみで青江下総は後世人をあやめ、同じ刀でも正宗は至尊の護刀となる。故にかかる悪品が世に充満すれば悪人よりも却って始末が悪く、かかる国は必ず滅亡するものと私は確信しておった。私は学者でも宗教家でも美術家でもない、ただの工人だが、仕事から物を見ると、およそその国の気持ちが解るような気がした。
かつて米国にいた時、税関に行って荷造りの見学に行った。そして完全なものを見たいと頼んだら、役人がABCと国別にしてある倉庫を順々と渡り、Jの部すなわちジャパン倉庫に案内、そこに大破せる荷造りを見て驚いたが、私は丈夫な荷造りを参考のために見たいというと、役人曰く「他のいずれの国のものも破れていない。ただ日本ばかりだから、こんなのをつくらなければ良いのだ」と言われて非常に恥かしかった。我国では感じられないような国辱を感じた。遠くまで来てはじめて解った。そして有難いものを見せてもらったと、かえって役人に感謝した。必ずこんな物を再び作らない日本にしたいと堅く決心をした。これも品物に対する精神の現れである。品物はモノを言わぬが日本人の信用は失墜する。米国はまたあまりに機械的である。人間がある以上これもどうかと思う。英国に行ってみると実に驚く。手袋でも靴でも機械等すべて手堅く国民の気風が頼もしく思われて美しかった。それに引きかえてパリでは見かけは良いがもちが悪く、見た目が良いだけ日本よりもまだましだと思った。その国全体が思いやられる様な気がした。
私は作品に現れた国体と言ったが、その後およそ作品の通り国情が変わったので密かに驚いた。そのうち一番ひどいのが我国であった。米国で見た荷造りの時すでにそう思った。幸い今後米国にあった日本荷造りのような事をしないよう、全ての作品に注意すること、今後「直心」をもって各人が仕事をすれば、文化国家の実をあげられると思う。顧みて悔いなきか?自分たちでも直心をもって仕事をしているつもりだ。一人ということは小さいようだが、考えようによっては全部のことだ。一人ぐらいと思うことは一番恐ろしいことである。
自分は自分の仕事を世界で一番良いものにしたいと精進している。出来る出来ないは私の知ったことではない。神様の知ったことで、私は自分で一番ベストを尽くせばよいのだと確信して仕事をしている。そこに安心と楽しみとなり、世間的には難事の仕事も面白く、かえって楽な仕事は面白くないような気がする。難事ということは、あんかんな空虚より考えようによってはやりがいがあるゆえ、したがって後味がある。大変だと嘆くのは直心のないから起こる横着な考えからくる産物だ。私は自分の仕事は何物よりも楽しみで仕方がない。その上仕上がると代価がもらえてあまりうますぎるような気がするときもある。
私の作った額縁が、昨年クリスマスに米国のニューヨーク市にあるリーダーズ・ダイジェスト社の社長に送られ、間に合わないで飛行機で送って今はそこの社長室に懸っているそうだが、それが目に見えるようで無限に楽しい。もし壊れると私の恥、いや復興後の日本の恥をかの国の知識階級の前にさらすことになるのだが、私はその前に商工業試験所で乾燥および熱度など米国と同じ状態で六十時間化学的に検査して送ったので安心している。かつての荷造りのようなことは絶対にしない。何か自分の責任の一部を果したような気がして愉快でならない。
美しいということは国境のないもので、私が滞米中一番頭に残ったものが二つある。一つは鶏で、一つは美術品である。当時は何十万の日本人があちらでもこちらでも排斥され、町を歩くにも小さくなって歩いていた。ある日動物園に行ったら大勢人が集まってワンダフル、ワンダフル(ステキ)と言っているものがあるので、私も行って見たら何とJAPANESE HEN(日本のにわとり)と書いた金網の中で高い木の枝の上にとまり、一丈あまりの長尾を下げた尾長鶏が悠然と構えている姿を見た時、涙の出るほど嬉しかった。
またボストン美術館で特別陳列の日本美術部の部屋を見た時ほど良いものを作らなければならないと思ったことはない。先輩の仕事の美しきた後来同国人の面目如何ばかりかと追憶の念限りなし。万事斯くのごとし。農作物でも直心の人の作ったウドは香り高く驚いたことがかてあったことを思い出して愉快だ。何にしても良いものを作って死にたいものだ。額縁が何で(直心と額縁精神)と言うかということは他の工芸品中最も直心の心がけがなければできないという事を次回に書きたいと思います。額縁といっても日本には国情の関係で二、三種しか無かったが、外国では古くから発達して何千種中には国宝級のものも多くあり、日本人の考えた額縁とは雲泥の差であることを次回にお伝えしたい。ただ単に遠く欧米で調べた苦心談を額ということだけでなしにあらゆる物の方面から話してみたいと思います。(つづく)
「直心と額縁精神」によると、佐藤久二さんは、戦前アメリカに滞在していたときに、日本からきた荷物の荷造りが粗悪だったことにショックを受けて、これからは良いものだけを作ろうと心がけていたそうです。その甲斐があって、戦後、佐藤さんが作った額縁が、クリスマスの贈り物としてニューヨークのリーダーズ・ダイジェスト社の社長室に飾られることになったことが、大変に名誉なことと思われていたようです。佐藤久二さんにとって、米国人に評価される、ということには、他にも増して特別な意味合いがあったようです。
詳しい経緯は書いてありませんが、ニューヨークの出版社の社長へのクリスマスの贈り物に選ばれるということは、少なくとも戦後、日本に駐留・駐在していた米国人の間でも、佐藤久二さんが作られていた額縁が高く評価されていた可能性が高いことを示しています。佐藤さんは、GHQの民間情報教育局(CIE)が芸術関係の査察、あるいは検閲をするときに、通訳を頼まれたようなので、当時日本に駐在していた米国人の間で、どのような美術品の評判が良かったのか、良く知ることのできる立場におられた可能性が高いと思われます。そして、その中には、大森明恍の富士山画も含まれていたのかもしれません。大森明恍が、資生堂ギャラリーで富士山画の個展を開くことになれば、きっと多くの米国人が見に来るに違いない。したがって佐藤久二さんが作った額縁も米国人の目に止まる可能性が高い、是非米国人に日本人が描いた絵だけでなく、日本人が作った額縁も見てもらいたい。そのように考えて、大森明恍の富士山画のために額縁を作ってくださったのかもしれません。