大森明恍と渡辺徳逸_1

愛鷹山の絵巻物を皇太后に献上

昭和15年9月1日の朝日新聞静岡版には、大森明恍が屋外で絵を制作する姿を撮影した写真が掲載されました。記事の内容は、渡辺徳逸氏が、大正天皇が生前、たびたび狩りの目的で訪れていた、愛鷹山周辺のゆかりの地に関する絵巻物(「愛鷹紀勝」)の制作を、画家の大森桃太郎(大森明恍の本名)に依頼していたところ、このほど完成したので、皇太后に献上する手続きをとった、というものです。


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朝日新聞、昭和15年(1940) 9月1日【静岡版】C, 8面

大正天皇御遺蹟
絵巻物に収めて献上
◇…愛鷹山の主渡邊さん

愛鷹山の開拓者御殿場在須山村渡邊徳逸氏(40)は数年前から愛鷹やその付近に数多き大正天皇の御遺蹟を集録する念願を立て山麓富士岡村諸久保にアトリエを設ける海門大森桃太郎画伯(40)の快諾を得、爾来大森画伯は渡邊氏の案内で峻峰愛鷹六峰に立籠り曾て大正天皇御壮年の御砌り御狩猟あらせられた御遺蹟を描き集録した絵巻物二巻がこの程見事に出来上ったのでこれに詩聖国府犀東氏謹作の詩を添え更に明治四十四年六月十三日大正天皇が近衛部隊演習御観戦御当時の御写真数葉も加えて大正天皇ご誕生の日皇太后陛下の台覧に供すべく三十日岳陽少年団副総長中島鉄哉砲兵大佐が大宮御所に伺候献上の手続きをとった、渡邊徳逸氏は謹んで語る
畏いことながら大森画伯初め多くの人達のご支援を得て漸く多年の念願を果すことができました、この御遺蹟を聖地として何処までも守り続けることが私の使命と考えています【写真は畫く大森画伯・円内は献上の渡邊氏】


この新聞記事の切り抜きは、大森明恍本人が保存していたもので、説明書きも本人の自筆によるものです。さらに、このスクラップブックには、他にも箱に収められた二巻の絵巻物の写真も残されていました。

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賜 皇太后陛下台覧(1)
絵巻物
愛鷹紀行
題字及び箱書
徳富蘇峰翁(2)
賛詩
国府犀東翁(3)
———-
(1) 貞明皇后(明治17年-昭和26年、1884年-1951年)、大正天皇の皇后
(2) 徳富蘇峰(文久3年-昭和32年、1863-1957)、ジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家
(3) 国府犀東(明治6年-昭和25年、1873-1950)、記者、官僚、漢詩人

静岡県の裾野市、富士山資料館が発行した岳人 渡辺徳逸翁 —富士と共に生きた人生—によりますと、
渡辺徳逸は明治33年(1900年)生まれ、裾野市の出身で、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に学んだ後、裾野市に戻り、生涯、富士山の歴史、文化の研究、富士山の須山口登山道の復興などに関わり、晩年には、富士山資料館の名誉館長を務められたそうです。2006年、105才までご存命であったとのことです。
新聞記事には、愛鷹山の開拓者、あるいは愛鷹山の主として紹介されていますが、昭和3年(1928年)に発生した愛鷹山の遭難事故を契機に、愛鷹山の登山道開発と整備を呼びかけ、登山基地となる山小屋整備に関わったことを指すようです。
富士山に関する登山や歴史・文化を軸にして、多彩な人脈を築き上げられた方のようで、愛鷹紀行の題字や賛詩を、当時の著名文化人であった、徳富蘇峰や国府犀東に依頼したことからも、幅広い人脈の一端をうかがい知ることができます。ともに富士山の麓に住み、ほぼ同じ年齢、しかも富士山にかける並々ならぬ情熱の持ち主、などの共通点から、渡辺徳逸と大森明恍が意気投合したのは、極めて自然の成り行きであったのかもしれません。
渡辺徳逸は郷土愛の強かった方のようなので、愛鷹紀行の制作には、登山道や山小屋の整備に関わった愛鷹山に、一人でも多くの方に関心を寄せてもらい、また訪れてもらいたい、という思いを込めた、プロモーションの意味もあったのかもしれません。それにしても、その発想と行動力は、並外れたもののようです。


時は流れ、それから半世紀も過ぎた52年後になって、平成4年(1992年)9月13日から10月25日まで、静岡県裾野市の富士山資料館で開館15周年記念事業として開催された、富士山麓の文学と芸術-明治、大正、昭和初期-の展覧会で、この愛鷹紀勝(2巻)が展示されたのです。

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平成4年(1992年)、富士山資料館内での展示風景. 手前のガラスケースに愛鷹紀勝(2巻)が, また, 奥の壁には大森明恍の作品が展示されています. この写真は次女の小林れい子さんが保管されていたものです.

当時、渡辺徳逸さんはすでに92才、かなりのご高齢にも関わらず、富士山資料館の名誉館長を務められていたようです。

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裾野市立富士山資料館開館15周年記念事業
富士山麓の文学と芸術
-明治、大正、昭和初期-
平成4年9月13日-10月25日
裾野市教育委員会
裾野市立富士山資料館
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展覧会の小冊子(全23ページ)の表紙. この小冊子は, 長男の大森如一さんが保管されていたものです.

この小冊子の4ページ目、愛鷹紀勝紹介には、この絵巻物制作の経緯について、次のような説明があります。

昭和に入ってから愛鷹山の開発や登山案内等をかねて、当館長(渡辺徳逸)が親交のあった大森画伯に愛鷹山行路之図をお願いしました。
昭和11年の晩春に第1巻の新緑編、盛夏に第2巻の夏景編を完成しました。
御殿場の自宅から通ったり、当時の清水旅館に宿泊したりして1か月ほどで描きあげました。完成した愛鷹紀勝は、多くの人々が観覧しその描画のすばらしさに感心しました。
中島鉄也(三島2連隊の隊長)の紹介で、子爵松平直富氏の手を経て、貞明皇后(大正天皇の御妃)の台覧に供しました。題字は徳富蘇峰。

こちらの文章によると、昭和15年に新聞記事が出る4年も前、昭和11年には、すでに絵巻物としては完成していた、ということになります。新聞記事の内容とは、かなりニュアンスが異なっているようですが、こちらの方が渡辺徳逸ご本人の記憶やお気持ちに正直に沿ったものではないかと思われます。おそらく、昭和初期の新聞記事の内容には、世相を反映したためか、ものの見方に、かなりバイアスがかかっていたようです。

また、この小冊子の5ページから6ページにかけて、長男の大森如一さんによる、父大森明恍の想い出をつづった、次のような文が寄せられました。


大森明恍の思い出

大森如一

父が逝ってほぼ30年になる。
私自身10代も終わり近く、御殿場をはなれ東京に出てしまったので、戦争の傷も癒えようやく活気を取り戻した父の戦後の創作活動を直に接する機会はうすらいでしまった。
絵かきとしての父に興味を抱いたのは学校に入る前頃からだと思う。その当時諸久保に小さな藁葺きの田舎家を借りていたが、そこから2キロ程御殿場側に戻ったところにある阿部雲研究所、阿部正直伯爵の依頼による富士山画の制作によく通っていた。
研究所自体、富士が真正面に見える小高い丘の上にあったが、父の写生物はその研究所をさらに見下ろせる箱根側の斜面にあった。
頃合いを見計らって3時のおやつを運ぶのが私の役目である。
父にとって母が作った蒸しパンとお茶が届けられるのが何よりの楽しみであったようだ。
キャンバスには鉛筆で碁盤の目が入れられていた。父は定規を富士に向かってかざしてはキャンバスに写しとっていく。
子供心にもなんて細かい仕事なんだろうと感心したものである。
阿部研究所の依頼の条件のひとつか、あるいはどの画家も必ず通る道筋かどうか定かでないが、その頃の父の絵は写実的であった。今もその当時の大真面目な作品として大切にしているのが諸久保の富士である。
われわれ子供仲間では学校橋で通っているが、富士岡小学校竈分校への通学路学校橋が鮮明に描かれている。また画面右には御殿場駅に近付く汽車の煙がある、澄んだ空気を裂いて汽笛が聞こえるようである。
芸術性には乏しい一枚の絵かも知れないが、若き日の父とわれわれの生活を想い出す上で貴重な一枚である。

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諸久保富士(O#10), 御殿場市蔵.

写実に徹した富士と雲の多くは、ほどなく完成した研究所隣接の資料館に納められた。
富士岡村諸久保、車時代の今は何でもない距離だが、その当時は御殿場の街に出るのも大変だった記憶がある。こんな辺ぴなところによく来たもんだと少年期に入った私は少なからず両親を恨みがましく思ったものである。しかし二人共大して気にしている様子もなく、絵かきに貧はつきものと、むしろ楽しんでいる風情すらあったように思う。
九州生まれの父と諸久保は、どう見ても結び付きが薄いように子供心に謎としてあったが、戦後ある雑誌の寄稿文(注1)でそれを知った。
大正8年、画家への志を抱いて上京の途次、沼津近辺の車窓より仰いだ富士の秀麗さに感動、終生の仕事と決意したとか。
特に朝焼け富士が得意であった。というのも早暁の富士が一日の内で一番安定していたし父にとっては、お目覚めの富士から相対することが当然なことと生活の中に溶け込んでいた風であった。
狭い荒屋の雑魚寝の床から抜け出し、厳冬期は子供達を起こさぬようそっと炭火をイーゼルのある仕事部屋(アトリエといいたいがその体裁には程遠い)に運び入れるうしろ姿が今でも思い浮かぶ。幸いにして好天、真っ赤に染まった朝焼け富士とのひと時を満喫すると、機嫌のよい声がひびいてくる。
おーい、みんな起きろ!
亡くなった日も手を付けたばかりの朝焼け富士がイーゼルに掛かっていた。
明日の天気を気にしながら。

大森如一氏: 大森明恍画伯の御長男で、現在神奈川県川崎市に在住。

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富士山絵画(K#43), 富士山こどもの国蔵.
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富士山絵画(K#138), 個人蔵.

(注1) 芸術新潮(昭和28年7月, 4巻7号)「富士を描いて30年」を指します。長男の大森如一さんも、この記事を読むまで、なぜ諸久保に住むことになったのか、その理由を知らなかったようです。