大森明恍と野中到_2

野中到とA伯爵の間を橋渡し

引き続き、北駿郷土研究の第2年の11月号には、7ページから9ページにかけて、野中到翁を訪う【下】が掲載されました。しばし富士山頂での冬季気象観測に関する苦心談をうかがった後、野中到に肖像画のモデルになっていただきたいと依頼したところ、快諾をいただきました。この時に描いた肖像画が、前号(10月号)の表紙を飾ることになった、ということのようです。
さらに、東京のA伯爵が野中到に面会したがっている旨お伝えしたところ、野中到からは、以前より伯爵の熱心な研究には敬意を抱かれていた、との回答をいただきました。A伯爵とは、当時、富士山麓に阿部雲気流研究所を設立し、当時非常に貴重であった映画の技法を使って、富士山の雲や気流の変化を研究していた、のちに雲の伯爵と呼ばれることになった阿部正直伯爵のことと、思われます。大森明恍は、このときすでに、阿部伯爵の知己を得ていたばかりか、野中到との仲介を依頼されるほど、かなりの信頼を得ていたようです。
このようにして、大森明恍は、中央画壇とは全く異なる場所で、富士山に基ずくつながりを軸としながら、着々と独自の人脈を築いていったようです。また、野中到や梶房吉といった、実際に自らの命をかけて富士山に立ち向かっていった人たちとの交流を通じて、次第に、画家として富士山に対峙する際の独自の姿勢を確立していったのかもしれません。


野中到翁を訪う【下】

大森海門

第一回の山頂の試練は、此青年に幾多の尊い経験を産ませ、冬季山上での耐久力ある建築物の設計等に一大収穫を齎らした。この際の涙なくしては綴れぬ若い夫妻の辛酸甞盡の体験記は、他にいろいろよき著書あれば餘は御遠慮したい。後年山頂賽の磧(さいのかわら)に第二回の観測所を造り、愈々翁の事業は白熱化して行つた。此の拡張に五萬圓の私財を以て当らんとされたるに、遇々昭和三年の大不況時、某銀行没落に禍されこの資金の途は絶たれて了つた。翁の落胆一方ならぬものであつたと察することが出来る。翁は此処まで語られた時、
然し、全く天祐とも申しませうか!! それは、昭和四年頃よりコツペンハーゲンに於ける万国気象学会議にて、世界一斉に構想観測の説隆起し、我国にも愈々その重大任務を覚醒し、富士山頂の観測所も遂に政府の力の及ぶ所となりましたと申された。これより後、昭和七年山頂観測所の拡張は愈々具体化し、一野中到氏の基礎を築ける該観測所も、日本を代表せる高層観測所として広く世界的の存在を此処に確保することとなつた。
回想此処に四十有餘年、日本魂の発露する所、燦として旭日の赫々たるものがある、その裏面史に、一介の青年の奮起と、か弱い一女性の内助の力とに依り万代不易の礎を築きたることは、ただ其苦闘辛酸の一物語として伏す可く餘りに尊き実話のものである。
世界に誇る富嶽の霊容、其崇高、玲瓏たる、よく我皇国の鎮めの象徴であり、且亦我国民性の依って生るる基因である。
而かるが故に、一野中氏の生れたるも亦至当たる可く、有ゆる意味での真の我民族精神の発展進歩皆、無意識の中に絶大の感化に、涵養飼育されて成長又増進するものと信ず。
世の識者は更なり、来たれ日の本の民よ、厳然として東海の雲表に王座する、くすしきかも此の不盡の高嶺を仰ぎ見るや!!
而して、三嘆声を惜しまざる異国人をして、大いに誘致す可きものなり。
不二は国民の信仰なり、神国の真の姿なり。
× × × ×

野中翁の両眼球は真赤に充血している。如何になされしやと聴けば、彼の時雪中に戦ひし折、いつか血膜炎を起し、その儘四十年後も斯は全治せざる也、尚又当時酷い風の為め耳も餘程冒されて未だによく聴きとり難きこと多しとて片手の掌もて、片耳を半おほはれしその姿ぞ尊し。
そは誠に尊き記念也、国の寶ならずやと、餘はつくづくと心の奥に思ひたり。
翁との会談愈々尽きず、一日の訪問にしてよく十年の知己を得たるが如きとは斯かることをや言はん。千代子夫人逝去されて早や十二年、
妻が書いた当時の日記を骨子として、落合直文氏が高嶺の白雪と題したる書を著しましたが、儂も此の年月、時折に詠じたる和歌が少しありますので、一度佐々木信綱さんにでも見て貰つて一冊とし、親戚知己にでも記念に頒たんものと思つていると言われた。それは何よりのことである。貴き体験より生れたる言葉には、常人のうかがひ知られざる境地が披瀝されているに違ひない。斯くて談偶々闌けた時、
私は富士山の畫を世に遺すとともに、貴下の肖像をも共に後世に遺し伝へる必要を感じています、願くは為にモデルになられんことをと請ふた。
それは全く光栄ですと。翁は即座に余の願望を快諾された。
少時たれど倶に語り合ひて、心のゆくりなく結びあへた偉大なる先輩と若輩の余とは、一人のモデルであり一個の畫人として、先づ一枚の鉛筆肖像畫がスケッチされた。
翁はいたく悦ばれた。まして二人の子息、令嬢も出て来られて、お父様に似ていると申された。翁は餘の畫鉛筆をとりて、

志達忘世 現代無求
千載待知 倦耘興讀
昭和九年夏 萬千岳人到。

と認められた。
そして、これが現在私の心境であると申された。
苦折苦屈四十歳月、今翁の志は達せられ、その功績は萬代の礎をつくるに至つた。
翁本年六十八歳也。伴侶の夫人も他界され、現在は子息、令嬢の教育が唯一の仕事であるのみ、嘗ては死を賭けての仕業も今となりては、世人の認め尊敬し惜かざる所である。
百歳千載の後に知己を待つことはおろか、現にその知己は益々増へて行くばかりである。
倦めば耕し、興起れば読む。斯くて現在の翁は悠々自適して閑日月を友とし生ける也。
萬千岳は一万三千尺、即ち芙蓉の峰である。翁が蒔きし種子、高嶺の雪に死を賭して蒔き培はれし一個のふさくとも、削肉流血の奮闘努力あつてこそ、全世界気象学界に雄々しくも、日本が率先して斯界に多々新学説を貢献するを得たる結果の動機を醸したのである。
殉教聖徒の如き翁夫妻の名とその功績は、我が富岳の霊名と共に、永遠に尽きざる宇宙の主賓でなくて何とや言はん。
最近一時問題となつた、頂上観測所継続問題もとやかくと翁身辺の心配であつたであらうが、今や某財団の救助応援のもとに、幸ひ永続の路を打開されたる由、翁の喜悦や顔面に彷彿と表れいたり。
それから、瀧ケ原にある翁の別宅の話題出でて語ること尽きず。
娘が折角用意しました様だから、お疏菜ばかりで…………と、いつか食事が運ばれた。翁自ら楽しみ玉ひし菜園の収穫物也。格別と美味しき馳走を、難有語り乍ら頂戴する。
東京のA伯又翁に面会されたき希望や切なり、翁も亦同伯の熱心なる研究に敬意を抱かれるや是復切也。
御両人の会合の渡橋し労を、不肖に依つて其の機を得たるを感謝す。引止め給ふ翁と再会を約して意味深き今日の訪問を辞去しぬ。よき記念の肖像畫を大事に持ちて、茅ヶ崎の浜の松籟を心持よき思ひ出に、後日翁の肖像の力作をせんと希望に然えつつ…………。
余熟々惟らく、現在富士頂上観測所の継続問題とかくる起るの秋、国家是に当るに、一個人の犠牲純潔をも鑑みて、国際的意味よりしても、全世界に愧ぢざる底の善処置を執り賜はらんことを、熱望して止まざる次第である。
我れに一友あり。彼は畸人と称す可き真の男也。常に語ること往々辛辣にして、人の肺腑を撃つ名言を吐く。偶々拙作野中到翁の肖像を入れたる額を見て曰く
此れなる人の眼瞼は普通の人の瞼に不非、先年来朝せし、アムンゼンがこんな眼をしていた。それから今一人いた、さうだ、日本に来てただ富士と桜花とを賞賛して行つた、印度の詩人タゴールがやはりこんな眼瞼を持つていたよと、
なる程一脈の真理相通ずるものがあるが如し。
さあれ、宇宙の流転は果しなく進展して尽きないであらふ。
大霊を感じて勇躍一番、正義の前に一身を擲うつものよ、
汝の栄光は不滅である。
翁よ幸ひに健全たれ!。   完
(一九三四孟秋)
岳麓・諸久保の書房にて


その後、新田次郎の小説芙蓉の人で知られる野中到(1867-1955)と、雲の伯爵と知られる阿部正直(1891-1966)との会談が、果たして実現したのか、もし実現したのであれば、どのような内容のものであったのか、大変興味深いところです。

なお、文章の最後には、突然畸人と称す可き真の男が登場し、大森海門が描いた野中到の肖像画を見て、その瞼がアムンゼンやタゴールに似ていると言います。これまでの文章の流れとは急に変わっており、この部分にはやや唐突な印象を受けます。
アムンゼンは、ノルウェーの探検家で、最初に南極点に到達した人として知られています。昭和2年(1927年)には、来日したこともあるようです。一方、タゴールはインドの詩人で、アジア人として最初にノーベル賞(文学賞)を受賞した人として知られています。こちらも、昭和4年(1929年)まで、計5回も来日しているようです。したがって、この文章が書かれた昭和9年(1934年)の時点で、この二人に会った経験のある日本人がいても全く不思議ではありません。とはいえ、このような世界的有名人が来日した際に実際に面会できる立場にいた日本人となれば、そう多くはないはずです。畸人と称す可き真の男とは、やはり、A伯爵こと阿部正直伯爵その人ではなかったかと推測されます。

文章中、大森明恍が野中到の肖像画を描くと、子息と令嬢が見て、「お父様に似ている」と喜んだとの記述が出てきます。一方、新田次郎の「芙蓉の人」のあとがきには、昭和8年夏の富士山頂で、新田次郎が初めて野中到に会ったときの様子が出てきます。当時、新田次郎は富士山頂の観測所に勤務する職員でした。そのとき、野中到は娘の恭子さんと一緒だった、とあります。また、新田次郎はその後、茅ヶ崎の野中到のご自宅を訪問して、御馳走になったこともあったとのことです。その時には、すでに千代子夫人は他界していて、新田次郎は直接千代子夫人にお会いしたことはなかった、それで「芙蓉の人」を執筆する際、千代子夫人にそっくりだと言われていた、昭和8, 9年頃の恭子さんの姿を思い出しながら、この物語を書いたそうです。そんな恭子さんに、大森明恍も、ほぼ同時期に茅ヶ崎のご自宅で会っていたことになります。新田次郎と大森明恍との間に、直接の接点があったかどうかは不明ですが、「富士山」を軸にして、同じ時代、同じ場所で、同じ交流関係を共有していたのは確かなようです。


郷土研究誌北駿郷土研究富士山に改題

大森海門のこの記事が掲載されて、二か月後の昭和10年(1935年)1月から、北駿郷土研究富士山に改題となりました。それと同時に、表紙の富士山の題字が野中到、また、大森海門が描いた富士山が表紙絵となりました。

北駿郷土研究_第3年01月号_表紙s
富士山に改題後、最初に発行された北駿郷土研究の表紙. 昭和10年(1935年) 1月発行. 富士山の絵の右下に(海門)の落款が押されています.

この号の目次の下には、改題のことばとして、雑誌のタイトルを変更した理由が記されています。それによると、私たちは、これまで郷土研究において、最も重大なものを忘れていたことを、最近になって悟った。(林苔郎、編集責任者田原林太郎のペンネーム)とあります。富士山の麓に暮らす人々にとっての富士山は、当たり前のように、いつもそこにあるものと、思い込んでいたものが、九州出身である野中到や大森海門らの富士山に対する熱い思いに接し、実は富士山こそが、これまでこの郷土の宝であったし、これからもずっと宝であると、あらためて認識しなおすことになった、ということなのかもしれません。