富士山画家 大森明恍の作品と生涯
はじめに
大森明恍(本名: 大森桃太郎)は、生涯、富士山の絵を描きつづけた画家です。
大森明恍は、1901年(明治34年)10月18日、福岡県遠賀郡芦屋町に生れました。1919年(大正8年)、18才のときに絵描きになることを志し、東京に出て、岡田三郎助が指導する本郷洋画研究所に入門しました。上京の途中、東海道線の列車の車窓から、生まれて初めて富士山を見て、深く感動したといいます。もともと才能もあったのでしょう、ほどなく1921年(大正10年)、20才の若さで、第8回二科会展覧会に「浪懸夏光」という作品が入選しました。
1933年(昭和8年)、32才のとき、富士山の絵に専念したいと考え、日出子夫人と子供たちをつれて、東京を離れ、富士山麓に移住しました。
1938年(昭和13年)2月、37才のとき、東京銀座資生堂ギャラリーにおいて、第1回富士山画個展を開催しました。これを皮切りに、戦前、戦中、戦後に渡る昭和の激動の時代に、銀座や日本橋はもちろん、北海道や九州等各地でも多くの個展を開催し、富士山の絵を発表し続けました。
1963年(昭和38年)1月5日、御殿場市の東山にて永眠しました。享年61才でした。
なお、芸術新潮(昭和28年7月, 4巻7号)に富士を描いて30年と題して、富士山を画くに至った経緯や、富士山にかける意気込みをつづった文章を発表しています。その中で、絵筆を持って、じっと富士を見つめていると、思わずキャンバスの上に絵筆が走る。いつ見ても、どこから見ても美しい。そういう他ないのです。それでいて、まだ一枚も富士の美を描けていないということは、なんという不幸、私は死ぬときに富士山に向かって
と、心境を述べています。申訳ありません
と言って死ぬ男です。
このブログ「大森明恍の作品と生涯」では、大森明恍が残したたくさんの絵や、波乱に富んだ生涯について紹介していきたいと思います。